久我山昔話





    
半鐘


それは、井の頭線が開通(1933)する前の事じゃつた。駅北側に半鐘 (はんしょう)を吊るした、火の見櫓(やぐら)が鉄骨造りで立って おった。ところが終戦(1945)後、櫓を取り壊す事になって、 久我山 青年団が、すぐ北側の丘に、二本の丸太〔牟礼の太い杉丸太を運ん できて〕を立て、半鐘を吊るした。 〔今の大丸ピーコックの処〕。 近 くに藤の古木が有って、 学校帰りの子供が蔓をゆらしてよく遊んだものだ。
火事や災害の時に住民に知らせるために半鐘を打つのだが、ほと んど鳴らされた事はなかった。
平和な久我山だったとさ。 (平成21 年7月 7)


久我山は別荘地?
久我山ゆうゆう館の少し駅よりの高台に、相原さんは別荘を建て たんだ。(昭和 10 年代)
相原さんは、 戦後アイキ質店を開業していたが、今は分譲してしも うた。
久我山駅が開設されたが、周囲は雑木林の頃だった。早朝に茸(き のこ)を採り、味噌汁の具にしたもんだ。(平成27 年11 月 81)


久我山小の土地は
久我山小学校の敷地は、中島邸=「中島飛行機の社長宅」だったん だ。現在の久我山5丁目が久我山一丁目だった。
都立西高校は、府立第十中だった。(昭和16 年『日本統制地図』参 照)(平成 23 年12 月 35)





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