久我山昔話





     

久我山駅は田圃(たんぼ)の上に
帝都電鉄会社社員の安藤楢六氏[大分県出身]が土地買収に成功し たので、昭和 8 年(1933)に澁谷から井の頭公園の間の電車が開通 したのだ。
当時の農家は、土地を売る事に難色を示していたので、困った安藤 氏は、高井戸第二小学校の西側の地に住まいを建て、じっくりと農 家との交渉を進めたのだ。
農家の好感を得た安藤氏は、一気に土地買収を進め畑より安い田 を買った。
久我山駅を建設する以前は、田圃(たんぼ)だったのじゃ。(平成23 年7月 30)

農耕用の陸橋
昭和の始めの事。井の頭線の敷設(ふせつ)計画がまとまった時、秦 銀藏〔現在の久我山4丁目 16 番に家があった〕さんは、切り通し で線路が通ると、線路向こうの畑に行けなくなり困ってしまう。
電鉄会社は、陸橋を架けて南側の畑に行ける様にし、橋の名前を 「銀藏橋(ぎんぞうはし)」と名付けたんだ。畑へ行くために造られ た橋は、重量制限〔2㌧車〕を付けられているが、今でも現役で利 用されている。 (秦庄平(銀藏さんの孫)さんの話)(平成 23 年9 月 32)


 

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