神田川さんぽ資料
神田川について
神田川は太古には、縄文人の水の糧となり、弥生人以降は、田んぼの稲作用の水として重要な役割を果たしてきました。
徳川家康が江戸に城を構えると、人口の増加に伴って、湧き水や赤坂のため池では間に合わなくなってきました。そこで家康は、水道の計画を部下、大久保藤五郎忠行に命じました。現在の職業では、水道局長でしょうか。
忠行は、小石川に堰(せき)を作り、きれいな神田川の水を引き入れるというものでした。
※堰:水を取り入れるために川の流れをさえぎって造った構造物。貯水量の調節
や流水の分水などをするために行なう。固定堰や稼働堰がある
当時、満潮時には、江戸川辺りまで海水が入ってくるので、ここに堰をつくることにしました。この堰は、今でも江戸川公園の西の橋に残っています。これが日本における水道の第1号ということです。家康は、この湧き水の元を井の頭と命名し、
神田川の上流部分を神田川上水と呼ぶことにしました。
『久我山風土記』長山泰介著
※別資料『久我山風土記』秦 久蔵著(昭和36年 秦 十四雄)によると、
即天正19年、今から約360年程前、当時の水源池は「七井の湖」と呼ばれてお
り、寛永6年に家光が「井の頭池」と書き定めたとあり、どちらが正しいか?
神田川は、江戸から明治期にかけての300年間、貴重な水資源となっていました。
明治期の中頃、コレラが発生し、水道事業の近代化が図られることになりました。
昭和の初めごろの様子。(秦 暢三氏)『くがやま復刻4号』
「神田川は両岸一帯が田んぼでした。清流で水藻がゆれる中を鯉や鮒っこが銀鱗を光らせながら泳ぎ、川底にはいろいろな魚介類が生息し、特にシジミは朝餐の味噌汁に欠かせないものでした。春4月から5月になると田んぼも活気づき、神田川の所々で堰張りが行なわれます。これは大川から小川へ分水して苗代や水田へ注水するためです。村人達は米俵で土俵を造り、それを積み上げて工事は終わります。大川は水で溢れるようになり、所々に釣糸を垂らして楽しむ太公望も見られた。
戦後、昭和の半ごろになると、このような牧歌的風景は見られなくなってきた。田んぼが潰され、道路や住宅ができると、洪水が起こって道路や家が水浸しになる。
昭和45年(1970年)ごろから、河川改修工事を始め、今のように川を深く掘ってコンクリートで固めてしまった。その後、大事をとって地下の貯水池まで作った。洪水の心配はなくなったが、風情もついでになくなってしまった。
(一方、)生活排水は道路わきの溝を流れて地盤の低い神田川に流れこんでくさい臭いのする川となった。
ようやく下水道も整備され、鯉も泳ぐようになった。川の両側に遊歩道がつくられ、ベンチなども置かれ、ウォーキングする人たちもよく見られるようになった。桜並木もきれいに咲くようになった。
『久我山風土記』秦 久蔵著(昭和36年、秦 十四雄)
久我山、昭和の始めには、久我山(こがやま)と呼ばれていた。昭和8年帝都電鉄(今の井頭線)ができたとき、駅名に久我山(くがやま)とふりがなが付けられ「久我山」と呼ばれるようになった。
神田上水は井の頭の池を源としている。久我山を縦断して関口水道町→お茶の水→東京市内に至る。
徳川家康が江戸に入ってきた当時、良質の水が得られなかったので、井の頭池を開渠(かいきょ*暗渠と対称のこと)し、早稲田まで五里(20km)を掘って、さらに江戸市内に給水するため十六里にもおよぶ木管を埋没したのであった。江戸の飲料や茶の湯の水として活用。この水路が極端に曲がっているのは濁りを沈めるため技術的に曲げて堀ったという。大正の始め頃まで飲むことができた。昭和20年頃まではつりもできた。
水田は現在の富士見ヶ丘の南より西は三鷹台付近まで。昭和30年頃まで、神田川上水の水を利用していた。その上流は沼であった。
いくつかの堰があった。
上流(西の端)→「おことぜき」 井の頭駅と三鷹台駅の中間に堰があった。
↓
「大熊ぜき」
↓
「新道ぜき」
一番、東の端「紺屋ぜき」 紺屋があって染物をしていた
富士見ヶ丘駅付近には「元かじ屋敷」という所があって“かじ屋”が住ん
でいた
神田上水は、即天正19年(約360年位前)、当時の水源地は「七井の湖」とよばれていた。寛永6年、家光が「井の頭池」と書き定めたという。
『久我山の歴史と北烏山寺街』 山口正義 岩崎通信機株式会社発行
P62〜
久我山駅の南側をゆるいS字カーブをえがいて神田川が流れている。神田川という名称は昭和41年に名付けられたもので、井の頭池から流れてくる神田川は、途中で善福寺池を水源とする妙正寺川を新宿区落合で合流させている。この水系の近世以前の名は平川であり、長禄元年(1457)の太田道灌がこの河口に江戸城を築いた当時の文献には、すでにその名がみえるという。
17世紀前半頃には河口の隅田川から三崎橋までを神田川、それより上流を関口(=堰)から分かれた江戸市中への上水を神田上水(給水地域の神田の名をとって)呼んでいたようである。つまり、平川本流である井の頭池までの自然河川までも神田上水と呼ぶようになったわけである。
江戸の上水道は神田上水が最もはやく開かれ、ついで玉川上水、青山上水、三田上水などが開かれている。神田上水は、徳川家康が江戸に入った天正年間(1573〜(92)に大久保藤五郎(?〜1617)(註あり)によって開かれたとも、寛永年間(1624〜44)に内田六次郎のよって開かれたともつたえられている。
大久保藤五郎は小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この小さな掘割で駿河台方面へ流し神田上水の原型を作ったと言われている。藤五郎はこの功績により主人(もんど)の名を授かったとも言われている。
神田上水の工事は長年の一大公共工事で、多くの人達が工事に参加したと見られる。松尾芭蕉(1644〜94)もその中の一人だったと言われていて、その当時芭蕉が寝食を行なった家が関口芭蕉庵として残っている。
神田上水も明治時代になると水質悪化などの問題が発生し、浄化施設を持つ近代水道の必要性が求められ、明治34年にはその使命を終えている。