崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻

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夏の花                           原 民喜

語釈

 

 1私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇から取り出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって2初盆に当たるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。ちょうど、休電日ではあったが、朝から花を持って街を歩いている男は、私のほかに見当たらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁の3可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。

 炎天にさらされている墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花立てに挿すと、墓のおもてがなんとなくすがすがしくなったようで、私はしばらく花と石に見入った。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まっているのだった。持ってきた線香にマッチをつけ、4黙礼を済ますと私は傍らの井戸で水を飲んだ。それから、饒津公園のほうを回って家に戻ったのであるが、5その日も、その翌日も、私のポケットは線香のにおいがしみ込んでいた。原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことであった。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 初盆 2 小弁 3 可憐 4 ヤシュを帯びた 5 黙礼 6 花立てにサす 7 オソわれた

 

二 傍線部の問に答えよ。

 

1 (1)墓を訪れようと思った動機は何か。    

  (2)冒頭の墓参りの部分が持つ効果を述べよ。 

 

3 辞書で意味を調べよ。

 

4 辞書で意味を調べよ。

 

5 どういう意味が込められているか。  

 

 

1解答

一 1 にいぼん 2 こべん 3 かれん 4 野趣 5 もくれい 6 挿す 7 襲

1(1)妻の初盆の8月15日までこの町が無事かどうかうたがわしかったから。

 (2)穏やかな日常を描くことで原爆投下の悲惨さを印象づける

3 可愛らしいさま。 

4 無言のままだ敬礼すること。

5 穏やかな日常を描くことで原爆投下の悲惨さを印象

 

 

 

 

 

 1私は厠にいたため一命を拾った。八月六日の朝、私は八時ごろ床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明け前には服を全部脱いで、久しぶりに寝巻きに着替えて眠った。それで、起き出したときもパンツ一つであった。妹はこの姿を見ると、朝寝したことをぷつぷつ難じていたが、私は黙って便所へ入った。

 それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の2頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇が滑り落ちた。私は思わずうわあとわめき、頭に手をやって立ち上がった。3嵐のようなものの墜落する音のほかは真っ暗で何もわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。4そのときまで、私はうわあという自分の声を、ざあーという物音の中にはっきり耳に聞き、目が見えないので5悶えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄ら明かりの中に破壊された家屋が浮かび出し、6気持ちもはっきりしてきた。

 それは7ひどく嫌な夢の中の出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ目が見えなくなったとき、私は自分が倒れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声がなんだか別人の声のように耳に聞こえた。しかし、あたりの様子がおぼろながら目に見え出してくると、今度は8惨劇の舞台の中に立っているような気持ちであった。たしか、9こういう光景は映画などで見たことがある。濛々と煙る砂塵の向こうに青い空間が見え、続いてその空間の数が増えた。壁の脱落した所や、思いがけない方向から明かりが射してくる、畳の飛び散った座板の上をそろそろ歩いていくと、向こうからすさまじい勢いで妹が駆けつけてきた。

 「やられなかった、やられなかったの、大丈夫。」と妹は叫び、「目から血が出ている、早く洗いなさい。」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。

 私は自分が全裸体でいることを気づいたので、「とにかく着るものはないか。」と妹を顧みると、妹は壊れ残った押し入れからうまくパンツを取り出してくれた。そこへだれか奇妙な身振りで闖入してきた者があった。顔を血だらけにし、シャツ一枚の男は工場の人であったが、私の姿を見ると、

 「あなたは無事でよかったですな。」と言い捨て、「電話、電話、電話をかけなきゃ。」とつぶやきながらせわしそうにどこかへ立ち去った。

 至る所にすき間ができ、10建具も畳も散乱した家は、柱と敷居ばかりがはっきりと現れ、11しばし奇異な沈黙を続けていた。これがこの家の最後の姿らしかった。後で知ったところによると、この地域では12大概の家がぺしゃんこに13倒壊したらしいのに、この家は二階も落ちず床もしっかりしていた。よほどしっかりした14普請だったのだろう、四十年前、神経質な父が建てさせたものであった。

 私は錯乱した畳やの上を踏み越えて、15身につけるものを探した。上着はすぐに見つかったがずぼんを求めてあちこちしていると、めちゃくちゃに散らかった品物の位置と姿が、ふとせわしい目に止まるのであった。16昨夜まで読みかかりの本がページをまくれて落ちている。長押から墜落した額が殺気を帯びて小床をふさいでいる。ふと、どこからともなく、水筒が見つかり、続いて帽子が出てきた。ずぼんは見当たらないので、今度は足に履くものを探していた。

 そのとき、座敷の縁側に事務室のKが現れた。17は私の姿を認めると、

 「ああ、やられた、助けてえ。」と悲痛な声で呼びかけ、そこへ、ぺったり座り込んでしまった。額に少し血が噴き出ており、目は涙ぐんでいた。

 「どこをやられたのです。」と尋ねると、「ひざじゃ。」とそこを押さえながら皺の多い18蒼顔をゆがめる。私はそばにあった布切れを彼に与えておき、靴下を二枚重ねて足に履いた。

 「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ。」とKはしきりに私をせかし出だす。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういうものか少し顚動気味であった。

 縁側から見渡せば、一面に崩れ落ちた家屋の塊があり、やや彼方の鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものもない。庭の土塀の覆ったわきに、大きな楓の幹が中途からポックリ折られて、梢を手洗い鉢の上に投げ出している。ふと、Kは防空壕の所へかがみ、

 「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし。」と変なことを言う。

 「いや、川へ行きましょう。」と私が言うと、Kは不審そうに、

 「川? 川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら。」と19うそぶく

 とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整わなかった。私は押し入れから寝巻きを取り出し彼に手渡し、さらに縁側の暗幕を引き裂いた。座布団も拾った。縁側の畳をはねくり返してみると、持ち逃げ用の雑が出てきた。私はほっとしてそのカバンを肩に掛けた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな炎の姿が見え出した。いよいよ逃げ出す時機であった。私は最後に、ポックリ折れ曲がった楓のそばを踏み越えて出ていった。

 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久しぶりに郷里の家に帰って暮らすようになってからは、どうも、もう昔のような潤いのある姿が、この樹木からさえくみ取れないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を失って、何か20残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に入っていくたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮かんでいた。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 厠 2 イチゲキが加えられ 3 ツイラクする音 4 エンガワがあった 5 悶えて

 

6 メンドウなことになった 7 サンゲキの舞台 8 濛々と 9 砂塵 10 闖入

 

11 キイな沈黙 12 トウカイしたらしい 13 サクランした 14 襖 15 血はフき出て

 

16 皺 17 楓 18 土塀 19 ザシキに入って 20 崩壊

 

二 傍線部1〜20の問に答えよ。

 

1 なぜか、説明せよ。

 

2 どういう意味か。 

 

3 この音は何の音か。

 

4 指示内容を記せ。

 

5 辞書で意味を調べよ。

 

6 被爆の瞬間からここまでを簡潔にまとめよ。

 

7 どういうことか。

 

8、9 どのような心情が分かるか。 

 

10 具体的にどういうものを言うか。

 

11 主語を記せ。また、修辞法を記せ。

 

12 辞書で意味を調べよ。

 

13 辞書で意味を調べよ。

 

14 辞書で意味を調べよ。

 

15 この時の視線の動きを記せ。

 

16 文末を現在形で止めていることにはどういう効果があるか。

17 「工場の人」やKに共通する心理を述べた個所を五字以内で抜き出せ。

 

18 辞書で意味を調べよ。

 

19 辞書で意味を調べよ。

 

20 なぜか。

 

 

2解答

一 1 かわや 2 一撃 3 墜落 4 縁側 5 もだ 6 面倒 7 惨劇 8 もうもう

  9 さじん 10 ちんにゅ 11 奇異 12 倒壊 13 錯乱 14 ふすま 15 噴

  16 しわ 17 かえで 18 どべい 19 座敷 20 ほうかい

1 狭い部屋で柱が多く作りが頑丈。しゃがんでいたため原爆の光線を直接浴びなかった。

2 原子爆弾爆発の衝撃が頭を直撃し、一瞬のうちに目の前が真っ暗になった。

3 原子爆弾の音。

4 「手探りで扉を開けると、縁側があった」時まで

5 非常に思い悩む。

6 頭上に一撃が加えられ目の前が真っ暗になる。わめいて頭に手をやって立ちあがる。手探りで扉を開けて

縁側に出る。視力も徐々に回復し、気持もはっきりしてくる。

7 被爆直後の状況を端的にたとえている。

8、9 突然の出来事に現実感がもてない。冷静に周りの出来事を見ている。

10 襖、障子、戸など。

11 家。擬人法。

12 大体。あらまし。

13 倒れてつぶれること。

14 建築。土木。

15 ずぼんを探しているのに散らかった品物が目に入る。水筒や帽子が出てくる。ずぼんが見つからないと

   置き物を探している。視線は正常だが判断は混乱している。

16 「めちゃくちゃに散らかった品物の位置と姿」を生き生きと伝える効果。せわしく探す目の動きの中で

   一瞬光景が目に焼きついた感じを出す効果。 

17 「顚動気味」

18 青い顔。

19 とぼけて知らん顔をする。

20 広島は軍都で、町を殺伐としたものにしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗り越え、障害物をよけながら、初めはそろそろと進んでいく。そのうちに、足もとが平坦な地面に達し、1道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の陰からふと、「おじさん。」とわめく声がする。振り返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いてくる。「助けてえ。」と彼女はおびえ切った相で一生懸命ついてくる。しばらく行くと、路上に立ちはだかって、「家が焼ける、家が焼ける。」と子供のように泣きわめいている老女と出会った。煙は崩れた家屋のあちこちから立ち昇っていたが、急に炎の息が激しく吹きまくっている所へ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋のたもとに私たちは来ていた。ここには避難者がぞくぞく蝟集していた。「元気な人はバケツで火を消せ。」とだれかが橋の上に頑張っている。私は泉邸の藪のほうへ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまった。

 その竹藪はなぎ倒され、逃げていく人の勢いで、道が自然と開かれていた。見上げる樹木もおおかた中空でそぎ取られており、川に添った、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと、2灌木のそばにだらりと豊かな3肢体を投げ出してうずくまっている中年の婦人の顔があった。魂の抜け果てたその顔は、見ているうちに4何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出くわしたのは、これが初めてであった。が、5それよりもっと奇怪な顔に、その後私は限りなく出くわさねばならなかった

 川岸に出る藪の所で、私は学徒のひとかたまりと出会った。工場から逃げ出した彼女たちは一様に軽い負傷をしていたが、今目の前に出現した出来事の新鮮さにおののきながら、かえって元気そうにしゃべり合っていた。そこへ長兄の姿が現れた。シャツ一枚で、片手にビール瓶を持ち、まず異状なさそうであった。向こう岸も見渡す限り建物は崩れ、電柱の残っているほか、もう火の手が回っていた。私は狭い川岸の道へ腰を下ろすと、しかし、6もう大丈夫だという気持ちがした。長い間脅かされていたものが、ついに来たるべきものが、来たのだった。7さばさばした気持ちで、私は自分が生き長らえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が8生きていることと、9その意味が、はっと私をはじいた。

 10このことを書き残さねばならない、と、私は心につぶやいた。けれども、そのときはまだ、私はこの空襲の真相をほとんど知ってはいなかったのである。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 ヘイタンな地面 2 イッショウケンメイ 3 ヒナンシャ 4 蝟集 5 藪 

 

6 灌木 7 ユイショある名園

 

二 傍線部1〜10の問に答えよ。

 

1 何故こう言う言い方をしたか。

 

2 辞書で意味を調べよ。

 

 

4 何がか。

 

5 それはどこからか。また、同様の意味の言葉を抜き出せ。

 

6 説明せよ。

 

7 どうしてこういう気持ちになったか。

 

8 何のためか。

 

9 指示内容を記せ。

 

10 「このこと」の指示内容を記せ。

 

 

 

3解答

一 1 平坦 2 一生懸命 3 避難者 4 いしゅう 5 やぶ

1 目では確認できなかったが、足の感覚でわかったから。

2 低木の旧称。

3 手足。また手足と身体。

4 魂が抜け果てた状態。

5 4段後半「水に添う狭い石の」以下。「言語に絶する人々の群れ」

6 避難場所として選んであった泉邸の川岸につき、死の危険がひとまず去ったことへの安堵感。

7 破壊に圧迫を感じていたが空襲が現実になり、解放され開き直った気持になったから。

8 原爆の被害と生き残った人々の悲惨を書き残すため。

9 「己が生きていること」

10 原爆の被害と生き残った人々の悲惨


 

 対岸の火事が勢いを増してきた。こちら側まで火照りが反射してくるので、満潮の川水に座布団を浸しては頭にかむる。そのうち、だれかが「空襲。」と叫ぶ。「1白いものを着た者は木陰へ隠れよ。」という声に、皆はぞろぞろ藪の奥へはっていく。日はさんさんと降り注ぎ藪の向こうも、どうやら火が燃えている様子だ。しばらく息を殺していたが、何事もなさそうなので、また川のほうへ出てくると、向こう岸の火事はさらに衰えていない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまであおられてくる。そのとき、急に頭上の空が暗黒と化したかと思うと、2沛然として3大粒の雨が落ちてきた。雨はあたりの火照りをやや鎮めてくれたが、しばらくすると、またからりと晴れた天気に戻った。対岸の火事はまだ続いていた。今、4こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見知った顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集まって、てんでに今朝の出来事を語り合うのであった。

 あのとき、兄は事務室のテーブルにいたが、庭先に5閃光が走ると間もなく、一間余り跳ね飛ばされ、家屋の下敷きになってしばらくもがいた。やがてすき間があるのに気づき、そこからはい出すと、工場のほうでは、学徒が救いを求めて6喚叫している――兄はそれを救い出すのに大奮闘した。妹は玄関の所で光線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかった。みんな、初め自分の家だけ爆撃されたものと思い込んで、外に出てみると、どこも一様にやられているのに然とした。それに、地上の家屋は崩壊していながら、爆弾らしい穴があいていないのも不思議であった。あれは、警戒警報が解除になって間もなくのことであった。ピカッと光ったものがあり、マグネシュームを燃やすようなシューッという軽い音とともに一瞬さっと足もとが回転し、……それはまるで魔術のようであった、と7妹はおののきながら語るのであった。

 向こう岸の火が鎮まりかけると、こちらの庭園の木立が燃え出したという声がする。かすかな煙が後ろの藪の高い空に見えそめていた。川の水は満潮のまままだ引こうとしない。私は石崖を伝って、水際の所へ降りていってみた。すると、すぐ足もとの所を、白木の大きな箱が流れており、箱からはみ出た玉ねぎがあたりに漂っていた。私は箱を引き寄せ、8中から玉ねぎをつかみ出しては、岸のほうへ手渡した。これは上流の鉄橋で貨車が転覆し、そこからこの箱はほうり出されて漂ってきたものであった。私が玉ねぎを拾っていると、「助けてえ。」という声が聞こえた。木片に取りすがりながら少女が一人、川の中ほどを浮き沈みして流されてくる。私は大きな材木を選ぶとそれを押すようにして泳いでいった。久しく泳いだこともない私ではあったが、思ったより簡単に相手を救い出すことができた。

 しばらく鎮まっていた向こう岸の火が、いつの間にかまた9狂い出した。今度は赤い火の中にどす黒い煙が見え、その黒い塊が10猛然と広がっていき、見る見るうちに炎の熱度が増すようであった。が、その無気味な火もやがて燃え尽くすだけ燃えると、空虚な11残骸の姿となっていた。そのときである、私は川下のほうの空に、ちょうど川の中ほどに当たって、ものすごい透明な空気の層が揺れながら移動してくるのに気づいた。竜巻だ、と思ううちにも、激しい風はすでに頭上をよぎろうとしていた。周りの草木がことごとく12慄え、と見ると、そのまま引き抜かれて空にさらわれていくあまたの樹木があった。13空を舞い狂う樹木は矢のような勢いで、14混濁の中に落ちていく。私はこのとき、15あたりの空気がどんな色彩であったか、はっきり覚えてはいない。が、おそらく、ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光に包まれていたのではないかと思えるのである。

 この竜巻が過ぎると、もう夕方に近い空の気配が感じられていたが、今まで姿を見せなかった二番目の兄が、ふとこちらにやってきたのであった。顔にさっと薄墨色の跡があり、背のシャツも引き裂かれている。その海水浴で日焼けしたくらいの皮膚の跡が、のちには16化膿を伴うやけどとなり、数か月も治療を要したのだが、このときはまだこの兄もなかなか元気であった。彼は自宅へ用事で帰った途端、上空に小さな飛行機を認め、続いて三つの妖しい光を見た。それから地上に一間余り跳ね飛ばされた彼は、家の下敷きになってもがいている家内と女中を救い出し、子供二人は女中に託して先に逃げ延びさせ、隣家の老人を助けるのに手間取っていたという。

 兄嫁がしきりに別れた子供のことを案じていると、向こう岸の河原から女中の呼ぶ声がした。手が痛くて、もう子供を抱え切れないから早く来てくれと言うのであった。

 泉邸の杜も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移ってくるといけないし、明るいうちに向こう岸のほうへ渡りたかった。が、そこいらには渡し舟も見当たらなかった。長兄たちは橋を回って向こう岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまだ渡し舟を求めて上流のほうへさかのぼっていった。水に添う狭い石の通路を進んでいくに従って、私はここで初めて、17言語に絶する人々の群れを見たのである。すでに18傾いた日差しは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落としていた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、ほとんど区別もつかないほど、顔がくちゃくちゃに腫れ上がって、したがって目は糸のように細まり、唇は思いきり爛れ、それに痛々しい19肢体を露出させ、虫の息で彼らは横たわっているのであった。私たちがその前を通っていくに従ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「20水を少し飲ませてください。」とか、「助けてください。」とか、ほとんどみんながみんな訴えごとを持っているのだった。

 「おじさん。」と鋭い哀切な声で私は21呼び止められていた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすっぽり頭まで水につかって死んでいたが、その死体と半間も隔たらない石段の所に、二人の女がうずくまっていた。その顔は約一倍半も膨張し、醜くゆがみ、焦げた乱れ髪が女であるしるしを残している。これは一目見て、22憐愍よりもまず、身の毛のよだつ姿であった。が、その女たちは、私の立ち止まったのを見ると、

 「あの樹の所にある布団は私のですからここへ持ってきてくださいませんか。」と23哀願するのであった。

 見ると、樹の所には、なるほど布団らしいものはあった。だが、その上にはやはり24瀕死の重傷者が臥していて、すでに25どうにもならないのであった。

 私たちは小さな筏を見つけたので、綱を解いて、向こう岸のほうへ漕いでいった。筏が向こうの砂原に着いたとき、あたりはもう薄暗かったが、ここにもたくさんの負傷者が控えているらしかった。水際にうずくまっていた一人の兵士が、「お湯を飲ましてくれ。」と頼むので、私は彼を自分の肩に寄りかからしてやりながら、歩いていった。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだほうがましさ。」と吐き捨てるようにつぶやいた。26私も暗然としてうなずき、言葉は出なかった。27愚劣なものに対する、やり切れない憤りが、このとき28我々を無言で結びつけているようであった。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立ち昇っている台の所で、茶碗を抱えて、黒焦げの大頭がゆっくりと、お湯を飲んでいるのであった。その膨大な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々ででき上がっているようであった。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈り上げられていた。(その後、一直線に頭髪の刈り上げられている火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼き取られているのだということを気づくようになった。)しばらくして、茶碗をもらうと、私はさっきの兵隊の所へ持ち運んでいった。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵がひざをかがめて、そこで思い切り川の水を飲みふけっているのであった。

 夕闇の中に泉邸の空やすぐ近くの炎が鮮やかに浮き出てくると、砂原では木片を燃やして29夕餉の炊き出しをする者もあった。さっきから私のすぐそばに顔をふわふわに膨らした女が横たわっていたが、水をくれという声で、私は初めてそれが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱えて台所から出かかったとき、光線に遭い、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄たちより一足先に逃げたが、橋の所で長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱えてこの河原に来ていたのである。最初顔に受けた光線を遮ろうとして覆うた手が、その手が、今ももぎ取られるほど痛いと訴えている。

 潮が満ちてき出したので、私たちはこの河原を立ちのいて、土手のほうへ移っていった。日はとっぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ。」と狂い回る声があちこちで聞こえ、河原に取り残されている人々の騒ぎはだんだん激しくなってくるようであった。この土手の上は風があって、眠るには少し冷え冷えしていた。すぐ向こうは饒津公園であるが、そこも今は闇に閉ざされ、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであった。兄たちは土の窪みに横たわり、私も別に窪地を見つけて、そこへ入っていった。すぐそばには傷ついた女学生が三、四人30横臥していた。

 「向こうの木立が燃え出したが逃げたほうがいいのではないかしら。」とだれかが心配する。窪地を出て向こうを見ると、二、三町先の樹に炎がキラキラしていたが、こちらへ燃え移ってきそうな気配もなかった。

 「火は燃えてきそうですか。」と傷ついた少女は脅えながら私にきく。

 「大丈夫だ。」と教えてやると、「今、何時ごろでしょう、まだ十二時にはなりませんか。」とまたきく。

 そのとき、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかったサイレンがあるとみえて、かすかにその響きがする。街のほうはまだ盛んに燃えているらしく、茫とした明かりが川下のほうに見える。

 「ああ、早く朝にならないのかなあ。」と女学生は嘆く。

 「お母さん、お父さん。」とかすかに静かな声で合掌している。

 「火はこちらへ燃えてきそうですか。」と傷ついた少女がまた私に尋ねる。

 河原のほうでは、だれかよほど元気な若者らしい者の、31断末魔のうめき声がする。その声は八方にこだまし、走り回っている。「水を、水を、水をください、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん。」と声は32全身全霊を引き裂くようにほとばしり、「ウウ、ウウ。」と苦痛に追いまくられるあえぎが弱々しくそれに33絡んでいる。――幼い日、私はこの堤を通って、その河原に魚を捕りにきたことがある。34その暑い日の一日の記憶は不思議にはっきりと残っている。砂原には歯磨きの大きな立て看板があり、鉄橋のほうを時々、汽車が轟と通っていった。夢のように平和な景色があったものだ。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 マンチョウの川水 2 ザブトン 3 閃光 4 唖然 5 家屋はホウカイして

 

6 カイジョになって 7 貨車がテンプクして 8 黒いカタマリ 9 モウズンと広がって

 

10 ブキミ 11 空虚なザンガイ 12 コンダクの中に 13 緑のビコウ 14 妖しい

 

15 家内 16 腫れあがる 17 憐憫 18 瀕死の重傷舎 19 筏 20 グレツなものに

 

21 そのボウダイな 22 夕餉 23 炊き出し 24 フクらした 25 遮ろうと

 

26 窪み 27 横臥 28 オビえながら 29 断末魔 30 汽車が轟と通って 

 

二 傍線部1〜14の問に答えよ。

 

1 なぜか。

 

2 辞書で意味を調べよ。

 

3 この雨はどういう雨か。何と呼ばれるか。

 

4 どこの岸か。

 

5 辞書で意味を調べよ。妹はどう言っているか。

 

6 辞書で意味を調べよ。

 

7 どこからが彼女の語ったことか。

 

8 たまねぎを手渡したり、流された少女を救出した時の「私」の心情を記せ。

 

9、12、13 修辞法を記せ。

 

10 辞書で意味を調べよ。

 

11 辞書で意味を調べよ。

 

14 どういう意味か。

 

15 どう描写しているか。

 

16 辞書で意味を調べよ。

 

17 言い換えている箇所を抜き出せ。

18 以下、翌朝まで時間を表す言葉を抜き出せ。また、それぞれどんな人々が描写されているか。

 

19 辞書で意味を調べよ。

 

20 これ以下、水を求める記述を抜き出せ。また、対照的な水が描かれているのはどこか。その意味も答

えよ。

 

21 誰に。

 

22 辞書で意味を調べよ。

 

23 辞書で意味を調べよ。

 

24 辞書で意味を調べよ。

 

25 何がか。

 

26 この時の「私」の状況はどのようなものであったか。

 

27 何か。

 

28 なぜ「私たち」とせず、「我々」という言い方をしたか。

 

29 どういうことか。

 

30 辞書で意味を調べよ。

 

31 辞書で意味を調べよ。

 

32 辞書で意味を調べよ。

 

33 何と何が。

 

34 ここで語られる意味は何か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4解答

一 1 満潮 2 座布団 3 せんこう 4 あぜん 5 崩壊 6 解除 7 転覆

  8 塊 9 猛然 10 不気味 11 残骸 12混濁 13 微光 14 あや

  15 かない 16 は 17 れんびん 18 ひんし 19いかだ 20 愚劣

  21 膨大 22 ゆうげ 23 た 24 膨 25 さえぎ 26 くぼ 

  27 おうが 28 脅 29 だんまつま 30 ごう 

1 白色系の衣服を着たものが動くと上空からよく見え機銃掃射の目標となるから。 

2 雨が一字に激しく降るさま。

3 原爆後に降る放射能を含んだ雨。黒い雨。

4 泉邸側退きし。

5 ひらめく光。「ピカッと光った」「マゲネシュームを燃やすような」

6 叫ぶこと。

7 「あれは警戒警報が解除になって」

8 ほとんど無傷だった人間として、自分ができるだけの努力をすることで、人のためになりたいという心情。」

9、12、13 擬人法。

14 「どす黒い煙」が拡散した、汚れにごった空気の層の中へ落下していくということ。

15 「ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光に包まれていた」

16 膿むこと。

17 「奇怪な人々」

18 「傾いた日差し」―男か女か区別できず、顔が腫れ上がり痛々しい肢体を露出させた虫の息の人々。

   「あたりはもう暗かった」― 水際にうずくまった兵士。黒こげの黒豆のつぶつぶでできあがってい

るような大頭の人。

「夕闇の中」―木片を燃やして夕餉の炊き出しをする者。顔をふわふわに膨らした女。

「日はとっぷり暮れたが」―水をくれと狂い回る、川原に取り残されている人々。

「今は闇に閉ざされた」―傷つき横臥した三四人の女学生。断末魔のうめき声を発する元気な若者

 らしい者。

19 手足。また身体。

20 「お湯を飲ましてくれ」「思い切り川の水を飲みふけっている」「みずをくれ、水をくれ」「水を、水

    を、水を下さい。」「空き地に人が集まっていた。水道がちょろちょろ出ている。」「女中はしきりに

水をくれと訴える。」

対照的な水 「墓石に水を打ち」「傍らの井戸で水をのんだ」 その意味 平和な生活の中で使われ

た水。水を打つことは、渇きの中で死んでいった犠牲者全員へ捧げる恵みの水を象徴している。

21 二人の女。

22 憐みの気持ち。

23 人の同情に訴えて物事を頼み願うこと。

24 今にも死にそうであること。

25 瀕死の重傷舎を押しのけてまで蒲団を女たちに与えることはできない。(他の全員の訴えに対して無

力だ。)

26 悲しみと憤りで胸がいっぱいで、男の言葉に頷くのが精いっぱいだった。

27 平和な日常生活を破壊し、多くの命を奪った者に対する怒り。

28 憤りを、「私」と「兵士」の二人だけではなく、原爆犠牲者全員が共有していることを強調したかった

から。

29 夕方、被災者に飯を炊いて与えること。

30 横向きに寝ること

31 死に際の苦痛。

32 体も魂も全部。

33 全身全霊を引き裂くような声と苦痛においまくられるあえぎ。

34 同じ場所での、現在の惨状と幼い日の「夢のように平和な景色」とを対比させるため。

 

 夜が明けると1昨夜の声はやんでいた。あの腸を絞る断末魔の声はまだ耳底に残っているようでもあったが、あたりは白々と朝の風が流れていた。長兄と妹とは家の焼け跡のほうへ回り、東練兵場に施療所があるというので、次兄たちは2そちらへ出かけた。私もそろそろ東練兵場のほうへ行こうとすると、そばにいた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、よほどひどく傷ついているのだろう、私の肩に寄りかかりながら、まるで壊れものを運んでいるように、おずおずと自分の足を進めていく。それに足もとは、破片といわず、屍といわず、まだ余熱をくすぶらしていて、恐ろしく3険悪であった。常盤橋まで来ると、兵隊は疲れ果て、もう一歩も歩けないから置き去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園のほうへ進んだ。所々崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、至る所、4光の爪跡が印されているようであった。とある空き地に人が集まっていた。水道がちょろちょろ出ているのであった。ふとそのとき、姪が東照宮の避難所で保護されているということを、私は小耳にはさんだ。

 急いで、東照宮の境内へ行ってみた。すると、今、小さな姪は母親と対面しているところであった。昨日、橋の所で女中とはぐれ、それから後はよその人について逃げていったのであるが、彼女は母親の姿を見ると、5急に堪えられなくなったように泣き出した。その首がやけどで黒く痛そうであった。

 施療所は東照宮の鳥居の下のほうに設けられていた。初め巡査がひととおり原籍年齢などを取り調べ、それを記入した紙片をもろうてからも、負傷者たちは長い行列を組んだまま炎天の下にまだ一時間くらいは待たされているのであった。だが、この行列に加われる負傷者ならまだ結構なほうかもしれないのだった。今も、「兵隊さん、兵隊さん、助けてよう、兵隊さん。」と火のついたように泣きわめく声がする。路傍に倒れて反転するやけどの娘であった。かと思うと、警防団の服装をした男が、やけどで膨張した頭を石の上に横たえたまま、真っ黒の口を開けて、「だれか私を助けてください、ああ、看護婦さん、先生。」と弱い声で切れ切れに訴えているのである。が、だれも顧みてはくれないのであった。巡査も医者も看護婦も、みな他の都市から応援に来た者ばかりで、その数も限られていた。

 私は次兄の家の女中につき添って行列に加わっていたが、この女中も、今はだんだんひどく膨れ上がって、どうかすると地面にうずくまりたがった。ようやく順番が来て加療が済むと、私たちはこれから憩う場所を作らねばならなかった。境内至る所に重傷者はごろごろしているが、テントも木陰も見当たらない。そこで、石崖に薄い材木を並べ、それで屋根の代わりとし、その下へ私たちは入り込んだ。この狭苦しい場所で、二十四時間余り、6私たち六名は暮らしたのであった。

 すぐ隣にも同じような格好の場所が設けてあったが、そのむしろの上に7ひょこひょこ動いている男が、私のほうへ声をかけた。シャツも上着もなかったし、長ずぼんが片足分だけ腰のあたりに残されていて、両手、両足、顔をやられていた。この男は、中国ビルの七階で爆弾に遭ったのだそうだが、そんな姿になり果てても、すこぶる気丈夫なのだろう、口で人に頼み、口で人を使いとうとうここまで落ち延びてきたのである。そこへ今、満身血まみれの、幹部候補生のバンドをした青年が迷い込んできた。すると、隣の男はきっとなって、

 「おい、おい、どいてくれ、俺の体はめちゃくちゃになっているのだから、触りでもしたら承知しないぞ、いくらでも場所はあるのに、わざわざこんな狭い所へやってこなくてもいいじゃないか、え、とっとと去ってくれ。」とうなるように押っかぶせて言った。血まみれの青年はきょとんとして腰を上げた。

 私たちの寝転んでいる場所から二メートル余りの地点に、葉のあまりない桜の木があったが、その下に女学生が二人ごろりと横たわっていた。どちらも、顔を黒焦げにしていて、せた背を炎天にさらし、水を求めてはうめいている。この近辺へ芋掘り作業に来て遭難した女子商業の学徒であった。そこへまた、8燻製の顔をした、モンペ姿の婦人がやってくると、ハンドバックを下に置きぐったりとひざを伸ばした。……日はすでに暮れかかっていた。9ここでまた夜を迎えるのかと思うと私は妙にわびしかった

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 コワれもの 2 屍 3 ヨネツをくすぶらし 4 険悪 5 常盤橋 6 爪跡

 

7 姪 8 東照宮のケイダイ 9 ロボウに倒れて 10 ボウチョウした顔 11 カエリみては

 

12 オウエンに来た 13 イコう場所 14 サワりでもしたら 15 燻製

二 傍線部1〜9の問に答えよ。

 

1 誰のどんな声か。

 

2 指示内容を記せ。

 

3 辞書で意味を調べよ。

 

4 どういうことか。

 

5 なぜか。

 

6 誰か。

 

7 どんな人間として描いているか。

 

8 どんな顔か。

 

9 この時の私の心情を説明せよ。

 

 

 

 

 

 

 

5解答

一 1 壊 2 しかばね 3 余熱 4 けんあく 5 ときわばし 6 つめあと

  7 めい 8 境内 9 路傍 10 膨張 11 顧 12 応援 13 憩 

  14 触 15 くんせい

1 言語に絶する罹災者たちの苦悶の声。

2 東練兵場の施療助。

3 人の心、天侯、道などが険しくて悪いこと。

4 熱輻射によって、建物などに焦熱や熔解の痕が刻印されていること。

5 家族から離れて心細い思いをしたが、母親と再会でき緊張の糸が切れたから。

6 私 次兄 次兄の妻 姪 赤子 女中 (長兄と妹は家の焼け跡に行っている)

7 押し出しがあり、自己主張の強い我がままな人物。

8 煙にいぶされたように焼け焦げた顔。

9 狭く、重傷者が多いこの東照宮で好転も望めないまま被爆二日目が終わろうとしていることに情ない気

持ちでいる。


 

 夜明け前から念仏の声がしきりにしていた。1ここではだれかが、たえず死んでいくらしかった。朝の日が高くなったころ、女子商業の生徒も、二人とも息を引き取った。溝にうつ伏せになっている死骸を調べ終えた巡査が、2モンペ姿の婦人のほうへ近づいてきた。これも姿勢を崩して今はこときれているらしかった。巡査がハンドバックを開いてみると、通帳や公債が出てきた。旅装のまま、遭難した婦人であることがわかった。

 昼ごろになると、空襲警報が出て、爆音も聞こえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分慣らされているものの、疲労と空腹はだんだん激しくなっていった。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行っていたので、まだ、どうなっているかわからないのであった。人は次々に死んでいき、死骸はそのままほうってある。救いのない気持ちで、人はそわそわ歩いている。3それなのに、練兵場のほうでは、今やけに嚠喨としてラッパが吹奏されていた。

 やけどした姪たちはひどく泣きわめくし、女中はしきりに水をくれと訴える。いい加減、みんなほとほと弱っているところへ、長兄が戻ってきた。彼は昨日は兄嫁の疎開先である廿日市町のほうへ寄り、今日は八幡村のほうへ交渉して荷馬車を雇ってきたのである。そこでその馬車に乗って私たちは4ここを引き上げることになった。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 ネンブツの声 2 調べ終えたジュンサ 3 姿勢をクズして 4 通帳やコウサイ 

 

5 ヒサンシュウカイ 6 シガイはそのまま 7 レンペイジョウ 8 いいカゲン

 

9 疎開先 10 廿日市町

 

二 傍線部1〜4の問に答えよ。

 

1 指示内容を記せ。

 

2 登場させたのはなぜか。

 

3 どういう気持ちが込められているか。

 

4 指示内容を記せ

 

 

 

 

 

解答

一 1 念仏 2 巡査 3 崩 4 公債 5 悲惨醜怪 6 死骸 7 練兵場

  8 加減 9 そかいさき 10 はつかいちまち

1 東照宮の境内

2 市街から来て被爆した人もいることを示す。

3 周囲は地獄の惨状になっているのに、秩序が保たれているかのようにラッパが鳴り響いていることに違

和感を覚える。軍の無神経な形式主義に怒りを感じている。

4 東照宮の境内

 

 

 

 馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津へ出た。馬車が白島から泉邸入り口のほうへ来かかったときのことである。西練兵場寄りの空き地に、見覚えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りていった。兄嫁も私も続いて馬車を離れ、そこへ集まった。見覚えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は甥の文彦であった。上着はなく、胸のあたりに大の腫れ物があり、そこから液体が流れている。真っ黒くなった顔に、白い歯がかすかに見え、投げ出した両手の指は固く、内側に握りしめ、爪が食い込んでいた。そのそばに中学生の死体が一つ、それからまた離れた所に、若い女の死体が一つ、いずれも、1ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪をぎ、バンドを形見に取り、名札をつけて、そこを立ち去った。2涙も乾き果てた遭遇であった

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 甥 2 拳 3 ハれ物 4 ツメ 5 コウチョクしていた 6 つめをハぎ 

 

7 乾き果てたソウグウ

 

二 傍線部1,2の問に答えよ。

 

1 どんな姿か。

 

2 こうなったのはなぜか。このときの家族の心情を考えよ。

 

 

 

 

7解答

一 1 おい 2 こぶし 3 腫 4 爪 5 硬直 6 剥 7 遭遇

1 今まで活動していたそのままの状態で止まったかのように、肢体が硬直していること。

2 被災した精神的打撃があまりにも大きく、凄惨な光景を見続けたために、虚無的な心情が心を支配していて、わが子の死に対して悲しいという実感がすぐ湧いてこない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

馬車はそれから国泰寺のほうへ出、住吉橋を越して己斐のほうへ出たので、私はほとんど目抜きの焼け跡を一覧することができた。ギラギラと炎天の下に横たわっている1銀色の虚無の広がりの中に、道があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上がった死体が所々に配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄にちがいなく、2ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば死体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置き換えられているのであった。3苦悶の一瞬あがいて硬直したらしい肢体は一種の妖しいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣的の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投げ出して転倒している馬を見ると、どうも、4超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の大きな楠も根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は死体収容所となっていた。道はまだ所々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が落ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、5どうも片仮名で

描きなぐるほうがうがふさわしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入しておく。

 

   ギラギラノ破片ヤ

   灰白色ノ燃エガラガ

   ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ

   アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム

   スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ

   パットギトッテシマッタ アトノセカイ

   テンプクシタ電車ノワキノ

   馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ

   プスプストケムル電線ノニオイ

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 焼け跡をイチランする 2 所々にハイチされて 3 セイミツコウチ 4 マッサツされ

 

5 苦悶 6 妖しい 7 キョムの中に 8 痙攣 9 さっとテンプクして 10 楠  

 

二 傍線部1〜5の問に答えよ。

 

1 どんな光景か。

 

2 指示内容を記せ。

 

3 辞書で意味を調べよ。

 

4 (1)このように絵画のイメージで状況を端的に表現している部分を、これ以前から抜き出せ。また、各々どのような光景を表現したものか説明せよ。

 

 (2)「超現実派の画の世界」に該当する箇所を次の一節から抜き出せ。 

 

5 なぜこう感じたか。

 

 

 

 

8解答

一 1 一覧 2 配置 3 精密 4 抹殺 5 くもん 6 あや 7 虚無 8 けいれん

  9 転覆 10 くす 

1 灰白色の残骸や破片が炎天下の太陽に照らされてぎらぎらと銀色に見え、辺り一面死の世界がひろがってること。

2 「精密巧緻な方法で実現された新地獄」

3 苦しみもだえること。

4 (1)「ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光に包まれていたのではないかと思えるのである。」(4段)

―火災の赤い炎とどす黒い煙、竜巻が樹木を引き抜いていく、凄惨な周囲の光景に対する表現。

   「超現実派の画」―生の息吹が一切ない「虚無の広がり」と化している廃墟の光景に対する表現。

  (2)「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ」

5 辺り一面廃墟と化した銀色の死の世界を表現するのに、カタカナ書きの持つ無機的なイメージがふさわしいと感じたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 倒壊の跡の果てしなく続く道を馬車は進んでいった。郊外に出ても崩れている家屋が並んでいたが、草津を過ぎるとようやくあたり1も青々として災禍の色から解放されていた。そして2青田の上をすいすいととんぼの群れが飛んでゆくのが目にしみた。それから八幡村までの3長い単調な道があった。八幡村へ着いたのは、日もとっぷり暮れたころであった。そして翌日から、その土地での、4悲惨な生活が始まった。負傷者の回復もはかどらなかったが、元気だった者も、食糧不足からだんだん衰弱していった。やけどした女中の腕はひどく化膿し、蠅が群れて、とうとう蛆がわくようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後からわいた。そして、5彼女は一か月余りののち、死んでいった。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 トウカイの後 2 コウガイに出ても 3 カオクが並んで 4 サイカの色 5 負傷者のカイフク  

6 スイジャクして 7 ひどくカノウし 8 ショウドクしても 9 蠅 10 蛆

 

二 傍線部1〜5の問に答えよ。

 

1、2 直接対比されている色彩は何色か。また、ここと同じように、生命感あふれる原色が描かれているところはどこか。

 

3 対照的な部分を抜き出せ。

 

4 避難先ではどのような「悲惨な生活」があったと考えられるか。

 

5 これを10段の末尾と比較せよ。

 

 

 

 

9解答

一 1 倒壊 2 郊外 3 家屋 4 災禍 5 回復 6 衰弱 7 化膿 8 消毒

  9 はえ 10うじ 

1、2  色彩―「銀色の虚無の広がり」(8段) 原色―「黄色の小弁の可憐な野趣を帯び」(1段)

3 「倒壊の跡の果てしなく続く道」

4 経済的困窮 飢餓 負傷者の回復の遅れ 原爆症の恐怖 慣れぬ土地での苦労など

5 9段―「死んでいった」 10段―「持ちこたえていくのであった」 二人の生死の明暗を対比させて描いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10

 

 この村へ移って四、五日目に、行方不明であった中学生の甥が帰ってきた。彼は、あの朝、建物疎開のため学校へ行ったがちょうど、教室にいたとき光を見た。瞬間、机の下に身を伏せ、次いで天井が落ちて埋もれたが、すき間を見つけてはい出した。はい出して逃げ延びた生徒は四、五名にすぎず、他は全部、最初の一撃で駄目になっていた。彼は四、五名といっしょに比治山に逃げ、途中で白い液体を吐いた。それからいっしょに逃げた友人の所へ汽車で行き、そこで世話になっていたのだそうだ。しかし、1この甥もこちらへ帰ってきて、一週間余りすると、頭髪が抜け出し、二日くらいですっかりはげになってしまった。今度の遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、という説がそのころ大分広まっていた。頭髪が抜けてから十二、三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだした。医者はその夜がすでに危なかろうと宣告していた。しかし、彼は重態のままだんだん持ちこたえていくのであった。

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 身をフせ 2 最初のイチゲキ 3 ジュウタイのまま

 

二 傍線部の問に答えよ。

 

1 甥が帰ってきた時、病状の進行、医者の危篤の宣言は、おのおの何つき何日ごろのことか。

 

 

 

 

10 解答

一 1 伏 2 一撃 3 重体

二 

1 8月12、3日―帰宅  8月二十日頃―頭髪が抜ける  8月二十二日頃―はげになる

  8月末から9月初旬頃―鼻血 危篤 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11

 

 Nは疎開工場のほうへ初めて汽車で出かけていく途中、ちょうど汽車がトンネルに入ったとき、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広島のほうを見ると、落下傘が三つ、ゆるく流れてゆくのであった。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れているのに驚いた。やがて、目的地まで達したときには、すでに詳しい情報が伝わっていた。彼はその足ですぐ引き返すようにして汽車に乗った。すれ違う列車はみな奇怪な重傷者を満載していた。彼は街の火災が鎮まるのを待ちかねて、まだ熱いアスファルトの上をずんずん進んでいった。そして一番に妻の勤めている女学校へ行った。教室の焼け跡には、生徒の骨があり、校長室の跡には校長らしい白骨があった。が、1Nの妻らしいものはついに見いだせなかった。彼は大急ぎで自宅のほうへ引き返してみた。そこは宇品の近くで家が崩れただけで火災は免れていた。が、そこにも妻の姿は見つからなかった。それから今度は自宅から女学校へ通じる道に倒れている死体を一つ一つ調べてみた。大概の死体がうつ伏せになっているので、それを抱き起こしては2首実検するのであったが、どの女もどの女も変わり果てた相をしていたが、しかし彼の妻ではなかった。しまいには方角違いの所まで、ふらふらと見て回った。水槽の中に折り重なってつかっている十余りの死体もあった。河岸にかかっているはしごに手をかけながら、そのまま硬直している三つの死骸があった。バスを待つ行列の死骸は立ったまま、前の人の肩に爪を立てて死んでいた。郡部から家屋疎開の勤労奉仕に動員されて、全滅している群れも見た。西練兵場のものすごさといったらなかった。そこは兵隊の死の山であった。しかし、どこにも妻の死骸はなかった。

 Nは至る所の収容所を訪ね回って、重傷者の顔をのぞき込んだ。どの顔も悲惨の極みではあったが、彼の妻の顔ではなかった。そうして、三日三晩、死体とやけど患者をうんざりするほど見て過ごしたあげく、3Nは最後にまた妻の勤め先である女学校の焼け跡を訪れた

 

一 片仮名は漢字に直し、漢字は読み仮名を記せ。

 

1 あのショウゲキ 2 落下傘 3 重傷者をマンサイしていた 4 家がクズれた 5 タイガイの死体

 

6 スイソウの中に 7河岸 8 キンロウホウシ 9 悲惨のキワみ 10 やけどカンジャ

 

二 傍線部1〜3の問に答えよ。

 

1 なぜ「N」という匿名にしたのか。

 

2 本来どんな意味か。また、この場合どう使われているか。

 

3 なぜか。

 

 

 

 

11解答

一 1 衝撃 2 らっかさん 3 満載 4 崩 5 大概 6 水槽 7 かし

  8 勤労奉仕 9 極 10 患者

1 特定の人物に限定しないことによって、多くの被災者にあてはまることを暗示したかったから。

2 意味―武家の時代、取った首が本当にその人であるか確認すること。

  この場合―実際その人であるかどうか確かめること。

3 最愛の人の死を認めることができず、至る所探し再度同じところを探すしか探すところがなくなったから。

 

 

 

 

概要  時     昭和20年8月6日

 

    場所    広島市

 

    登場人物  私 その家族 知人 罹災した人々

 

    事件    広島原爆投下

 

構成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月4日

炎天

妻の墓

 

8月6日

朝 厠

 

 

 

庭の楓=潤いない

郷里=無機物

 

自宅〜川岸

栄橋のたもと

泉邸

川岸の道

 

 

 

 

被爆一日目の夜

黒い雨

 

川の水際

 

光景=陰惨な地獄絵巻

夕方近く

 

 

 

夕暮れ

対岸の砂場

 

 

夕闇

暗闇

土手

 

 

時・場所

 

小弁の夏の花を買う

―すがすがしい

故郷の街が初盆まで無事か

 

頭上に一撃 真っ暗

悶える

―はっきり嫌な夢の中の出来事

―腹立たしい

妹=かけつける

家を出る

 

Kと泉邸へ

 

長兄=異状なし

 

腰を下ろす

―大丈夫 助からないかも

 生きている 

 書き残す使命感

 

川水を座布団に浸す

上の方へ

長兄 妹 顔見知り

今朝の出来事を語る

玉ねぎを拾う

少女を助ける

 

次兄と上流へ

 

 

 

次兄と筏で渡る

卑劣なものに対するやりきれない憤り

 

土手のほうへ移る

窪みに身を横たえる

夢のような平和な幼い日

 

 私―心情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工場の人=奇妙な身ぶり

事務員のK=顚動気味

 

 

 

女=血だらけ

老女=泣きわめく

人=「火を消せ。

婦人=奇怪

動員学徒=元気

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲惨な外観 虫の息

裸体の少年=死

二人の女=膨張した

瀕死の重傷舎=谷の蒲団に

兵士=「死んだ方がまし」

男=黒豆の粒粒

重傷兵=川の水を飲む

人=夕餉の炊き出し

女中=顔を膨らます

声=「水をくれ」

三四人の女学生=傷つく

若者=断末魔のうめき声

 

 

 

 罹災した人々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被爆2日目

8月7日

夜明け

東照宮境内

 

 

 

 

 

夕暮れ

 

 

 

 

被爆3日目

8月8日

夜明け前

 

 

昼ごろ

 

 

 

 

 

八幡村へ

 

 

 

 

 

 

 

八幡村

炎天下

焼け跡

新地獄

超現実派の絵の世界

 

草津

日暮れ

生きているもの=青田

とんぼ

八幡村

翌日

 

 

時・場所

 

兵士に肩を貸す

別れ 焼津公園へ

姪=母と対面

 

 

 

 

材木を並べ、24時間すみかにする

 

 

 

 

 

 

 

悲惨・醜怪さになれる

疲労・空腹

 

姪たち=なきわめく

女中=水をほしがる

長兄=調達した馬車でここを去る

 

 

甥文彦の死体=液体が流れ真黒い顔 指を内側に握りしめる

次兄=爪を剥ぐ バンドを形見に 死体に名札

涙も渇き果てた遭遇

 

 

橋が落ちないのが意外

カタカナで書きなぐる

 

 

 

 

 

漸く災禍の色から開放される

目にしみる

避難先につく

悲惨な生活

 

 

 私―心情

 

兵隊

 

人々=ちょろちょろする水道に集まる

負傷者たち=長い列 施療を待つ

やけどの娘=反転する

警防団員=頭を石の上に横たえた

女中=うずくまりたがる

隣の男=両手足・顔をやられた

幹部候補生=血まみれ

女子商業の二人=顔は黒こげ

モンペ姿の婦人=燻製の顔

 

 

念仏の声

女子商業の二人=死ぬ

モンペ姿の婦人=旅行中に遭難

 

次々に死ぬ

救いのない気持で歩く人

 

 

 

 

 

忠学生の死体=ある姿勢のまま

女性の死体

 

 

 

 

 

 

赤むけのふくれ上がった死体

苦悶の一瞬

 

 

 

 

 

 

 

負傷者=回復した

元気な人=食糧不足から衰弱

女中=腕が化膿し死ぬ

 

 

 罹災した人々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主題 広島に投下された原子爆弾の罹災の体験と惨状を冷静に客観的に描き、愚劣で非人間的な行

 

 為に対する憤りを静かに訴え、犠牲者への哀悼と鎮魂を描写した。

 

『夏の花』 昭和20年8月 書き上げる。 昭和22年6月「三田文学」に発表。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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四五日目

 

 

 

 

 

 

一週間後

十二三日五

 

 

 

原爆投下直後 汽車の中 トンネルの中

落花傘三つ流れる

 

妻の勤めている女学校

 

 

 

宇品の自宅 崩れた

 

自宅から女学校へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西練兵場

収容所

 

 

三日三晩

 

女学校の焼け跡

 

 

時・場所

 

甥=中学生 行方不明

   帰る

   あの日、建物疎開

    教室で光を見た。

    机の下に隠れる

    四五名助かる 

   

    頭髪抜ける

    鼻血 

     重体のまま持ちこたえる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私―心情

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

N=次の駅から引き返す

  すれ違う列車は皆奇怪な重

傷者を満載

 

  教室に生徒の骨 校長室に

校長の白骨

妻は見つからない

 

妻は見つからない

 

  死体を一つ一つ調べる

  どの女もどの女も変わり果

てた姿

十余りの死体=水槽の中

三つの死骸=梯子に手を掛

け硬直している

バスを待つ人=立ったまま

死ぬ

  全滅した群れ=勤労奉仕に

動員

  兵隊の死の山

  妻の死骸はない

  訪ね回る

 

  死体とやけどの患者をうん

ざりするほど見て過ごす

 

  最後にまた訪れた

 

 罹災した人々

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   解説――原民喜と若い人々との橋のために     大江健三郎

 

 生前の原民喜の思い出を、その文学への敬愛の心に重ねている人々は数多い。しかもなお、戦後世代の一読者にすぎぬ僕が本書を編集するについては、とくに若い読者に向けて語りかけたい、二つの理由があった。

 そのひとつは、若い読者がめぐり合うべき、現代日本文学の、最も美しい散文家の一人が原民喜であると僕が信じていることである。原民喜は、文体についてこう考えていた。また人生についてこう考えていた。

 《明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、厳しく深いものをたたえている文体、夢のように美しいが現実のように確かな文体……私はこんな文体にあこがれている。だが結局、文体はそれを作り出す心の反映でしかないのだろう。

 ……………………

 昔から、たくましい作家や偉い作家なら、あり余るほどいるようだ。だが、私にとって、心かれる懐かしい作家はだんだん少なくなっていくようだ。私が流転の中で持ち歩いている「マルテの手記」の余白に、近ごろこう書き込んでおいた。昭和二十四年秋、私のはすでに決定されているのではあるまいか。荒涼に耐えて、ひとすじ懐かしいものをにじますことができれば何も望むところはなさそうだ。》

 ここに収録された作品群によって、原民喜の文体についての考えが、まことにそのまま実現されていることを、驚きとともに認める人々は多いであろう。原民喜は、自己批評の力においてもすぐれた作家であった。

 また、原民喜の生涯は、まことにここに予感されたままに進んだ。対人関係において、臆する幼児のようであったという原民喜は、しかしその生涯の全体の軌跡として、したたかなほどに確実なかたちを描いている。原民喜は内部において強い人間であった。

 さて第二の理由は、原民喜が原子爆弾の経験を描いて、現代日本文学の最もすぐれた作家であることである。僕は原民喜の戦前の作品、すなわち原爆以前の作品をすべて省いて、本書を編集した。その点についての批判はあるだろう。しかしなぜそのようにしたか、という僕の考えを述べてあらかじめその批判への僕の態度を示したい。

 とくに若い人々は、作家にとってその文学の主題が、いくつでもあり得ると考えるかもしれない。しかし真の作家にとっては、彼の生涯が唯一であるように、生涯をかける文学の主題も限られたものなのである。深いか浅いか、それのみが問題だ。より深めるために、勇気を持った作家は、あえて彼自身の主題を選び抜き、自分を豊かにするかもしれぬ他の可能性を切り捨てすらするだろう。

 原民喜は、一九四五年八月六日広島で原爆を被災した。それ以後彼は文学の主題の根本に、原爆被災を置いた。それは、彼がその後生き抜いてゆくべき生涯の根本に、原爆被災を置いたということでもあった。彼が生涯の作家生活に書いたすべての文章のうち、最も激しく決意を表すと思われる文体によって、原民喜は次のように書いている。

 《原子爆弾の惨劇の中に生き残った私は、そのときから私も、私の文学も、何ものかに激しくき出された。この目でた生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかった。……

 確かに私は死の叫喚と混乱の中から、新しい人間への祈願に燃えた。薄弱なこの私がものすごい飢餓と窮乏に堪え得たのも、一つにはこのためであっただろう。だが、戦後のはとこの身に打ち寄せ、今にも私を粉砕しようとする。……

 まさに私にとって、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬに満ち満ちているようだ。それから、日ごと人間の心の中で行われる惨劇、人間の一人一人に課せられているぎりぎりの苦悩――そういったものが、今はしく私の中で(うず)く。それらによく耐え、それらを描いてゆくことが私にできるであろうか。》

 原民喜は確かによくそれらに耐え、それらを描いて、戦後日本文学に記念すべき作品群を残した。本書に収められている作品を続けて読み通すならば、そこに有機的な長編小説の構造と呼んでもいいものが、強くひとすじ流れていることに気づくだろう。我が国に伝統的な私小説に似通ったかたちをとっているところの、一編、一編の短い小説が、ほとんど重複するところなくつながって、次々に大きい全体を明らかにしてゆくことに、いわば西欧の小説世界を思わせる性格に気づくだろう。原民喜は、彼が書かねばならぬものの、すべてをよく見極めていた。そして、書かねばならぬものの、少なくとも大かたを書き終えるまでは、決して死ななかったのである。

 原民喜が書かねばならなかったものの全体の根元に、原爆被災の経験があったことはいうまでもないが、根元にあるそのありようは、実に独自なものであった。原爆被災の経験は、彼の生涯および文学の中核に、非常に強烈な磁気を帯びて突き刺さった。それ以後彼が書いた文章は、すべてその磁気との、全身をあげての力関係を根幹のダイナミズムとし、しかもその硬い岩盤からな水が穏やかにきおこるように、美しい散文がつむぎ出されたのである。

 この根本の磁気の力がはたらくと、一九四五年八月六日以前の原民喜の生涯もまた、原爆被災への予感をくっきりと浮かび上がらせた。被爆の前年、作家が失った妻、その生涯の最も大切な人間であった妻の思い出も、この大きくしい予感を色濃く浮かべてのみ語られるのである。

 原爆被災の前に死んだ妻は、天上の星のことごとくちる夢におびえた。原爆被災のあと、ひとり生き延び続ける作家は、かえってその夢と妻の思い出こそを支えのようにして初めて、彼の体験した現実の天変地異を、見定めてゆくことができた。あたかも彼とその妻は、時を超えて常に一つの経験のもとに結ばれ続けるようだ……妻への美しく哀切な鎮魂歌のように書かれたひと続きの作品群が、我々に与える深く現実的な感銘は、そこに由来するだろう。原民喜は、この現実世界で最も恐ろしくたらしいものを描いたが、この世界で最も良く愛すべきものをもまた、それに重ねるようにして描いたのである。それも強大な原爆被災の経験の磁気に常に生身の自分をさらしつつ……

 そのような過去のみならず、未来を描くにあたっても、この磁気がはたらいたのはいうまでもなかった。かつて妻の見た夢と同じく、新しく作家がひとり見る夢も、天変地異の爆発の、一瞬に凝縮したような恐ろしい夢である。夢に目覚めて眠れぬ床で彼が考えてみるのは、冷え切った地球と、火の塊をたたえた地球である。その火の塊はまた原子力の火でもあるだろう。人間は、この世界はどうなるのか、人々は破滅か救済か、何とも知れぬ未来に息せき切って向かっているのだが、と原民喜は遺書のように書いて、人間一般に連なる、かなえられなかった個人の希求を語ったあと、自殺していった……

 核兵器が人間にもたらした脅威、悲惨は、そのおおもとの核兵器が全廃されるまで、償われぬぐい去られることはない。我々は、原民喜が我々を置き去りにして出発した地球に、核兵器について何一つその脅威、悲惨を乗り超える契機を持たぬまま、赤裸で立っているのである。破滅か、救済か、何とも知れぬ未来を遠望しつつ。僕がなぜ原民喜の作品群を若い人々へ橋渡しすることに、やはり人間一般に連なるような個人的希求を抱いているか、それを僕がこれ以上語る必要があるであろうか?

 つけ加えたいことはただ一つ、原民喜の自殺についてである。やはりとくに若い人々へ向けて僕の考えを述べておきたい。編集者として仕事をした原民喜のために、仏文学者渡辺一夫は「狂気について」という文章を書いた。改めてそれを標題とするエッセイ集が刊行されたとき、原民喜は喜びを表した。

 《もっとうれしいのは、この書があの再び聞こえてくるかもしれない世紀の暗い不吉な足音に対し、知識人の深い憂悩と祈願を含んでいることだ。僕は自分のうちに存在する狂気に気づき、それをどう扱うべきか常に悩んでいるものだが、(「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられないと申す人もおられます。それはうそであります。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲を伴います。ヒューマニストは「狂気」を避けねばなりません。冷静が、その行動の準則とならねばならぬわけです。)と語る著者の言葉はしっくり僕の頭脳にみてくる。……戦争と暴力の否定が現代ぐらい真剣に考えられねばならぬ時期はないだろう。血みどろな理想は決して理想ではないし、強い人々だけが生き残るための戦争ならなおさら回避されねばならない。なぜなら、(生存競争弱肉強食の法則を是正し、人類文化遺産の継承を行うのが、人間の根本倫理)だからと語る、これらの言葉は、一切が無であろうかと時に目まいがするほど絶望しがちな僕たちに、静かに一つの方角を教えてくれるようだ。》

 原民喜は狂気しそうになりながら、その勢いを押し戻し、絶望しそうになりながら、なおその勢いを乗り超え続ける人間であったのである。そのように人間的な闘いをよく闘ったうえで 、なおかつ自殺しなければならなかったこのような死者は、むしろ我々を、狂気と絶望に対して闘うべく、全身をあげて励ますところの自殺者である 。原民喜が 、スウィフトとともに、人類の暗愚への強い怒りを内包して生きた人間であったこととともに、ほかならぬそのことをも若い人々に銘記していただくことを願って、僕は本書を編んだ。

(新潮文庫解説『夏の花・心願の国』 新潮社 昭