なめとこ山の熊

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語釈

 

1なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり@三百尺ぐらいの滝になってひのきやAいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
 中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗や2いたどりがいっぱいに生えたり牛が遁げて登らないように柵をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさB三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊が3ごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も4熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかも知れないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆は名高いものになっている。
 腹の痛いのにも利けば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。
 淵沢小十郎は5すがめの赭黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらいはあったし掌は北島のC毘沙門さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩堤樹の皮でこさえたDけらを着てEはんばきをはきF生蕃の使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯っているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金いろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているという風でゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖を横這いに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝から上に6まるで屏風のような白い波をたてながらコムパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。7そこであんまり一ぺんに云ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は8小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いところから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼をまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈しいやつならごうごう咆えて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹をたてにして立ちながら9熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来て斯う云うのだった。「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが10因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ。」
 そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。
 何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢にかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。
 それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎のとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いて行くのだった。11それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆をせなかの木の12ひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって13自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。


(注)@三百尺 一尺は約30センチメートル。Aいたやけで科の落葉高木。B三里 一里は約3、9キロメートル。C毘沙門 仏教で四天王 の一。怒りの形相をした武人。仏法を守護する。Dけら 背につける身の。Eはんばき すね当て。F生蕃 辺地に住む蛮族。

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。

1 洞穴 2 柵 3 熊の胆 4 ナグりあう 5 毘沙門 6 ジュウオウに歩いた

7 崖 8淵 9 屏風 10 膝 11 咆えて 12 猟師 13 トぎすまされた

二 傍線部1〜13の問いに答えよ。

1 この後の物語の内容とどのような関連があるか。

2 辞書で意味を調べよ。

3 こう言う語を何というか。其の効果は。

4 辞書で意味を調べよ。

5 辞書で意味を調べよ。

6 修辞法を記せ。

7 語り手の小十郎に対するどんな心情がうかがえるか。

8 なぜか。

9 どこにあるどういうものか。

10 辞書で意味を調べよ。

11 (1)なぜ「私」から「僕」になったのか。

   (2)この後、もう一か所「僕」になっているところがある。そこを指摘し、なぜか説明せよ。

12 辞書で意味を調べよ。

13 なぜか。

 

 

 

1 解答

一 1 どうくつ 2 さく 3 くま きも 4 殴 5 びしゃもん 6 縦横

  7 がけ 8 ふち 9 びょうぶ 10 ひざ 11 ほ 12 りょうし 13 研

二 1 聞く人読む人を一気に物語の世界へ誘い込み、切なさ悲しさをきわだたせる。  

  2 たで科の多年草。地下茎は腱胃剤。 3 擬態語 感覚的表現。

4 熊の胆のうを胆汁を含んだまま乾した物。胃の薬。苦い。5 斜視。 6 比喩法。

7 愛着を覚えている。 8 小十郎も熊と同じく自然の中では自然な存在であったから。

9 月の輪熊の首にある白い三日月形。 10 不幸。不運。

11 (1)話の筋から離れて直接自分の意見を述べるため。

   (2)3段落の終りから3行目。小十郎の仕事が正当に評価されない不合理さへの憤り。

12 ふたのある大型の箱。

13 仕事とはいえ熊を殺したから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯になった処へ去年の夏こさえた笹小屋へ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどう云う加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。
 なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水のあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕いたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二疋丁度人が額に手をあてて遠くを眺めるといった風に淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから1後光が射すように思えてまるで釘付けになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように云ったのだ。「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん。」 すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと云った。

「雪でないよ、あすこへだけ降る筈がないんだもの。」 子熊はまた云った。「だから溶けないで残ったのでしょう。」「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです。」 小十郎もじっとそっちを見た。 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこが丁度銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が云った。「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ。」
 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで@胃もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。

「おかあさまはわかったよ、あれねえ、Aひきざくらの花。」

「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」

「いいえ、お前まだ見たことありません。」

「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」

「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たの2きささげの花でしょう。」

「そうだろうか。」

子熊はとぼけたように答えました。3小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と4余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。5風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退りした。6くろもじの木の匂が月のあかりといっしょにすうっとさした。
(注)@胃 牡羊座の星。Aひきざくら こぶしの古名。

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。 

1 笹小屋 2 どういうカゲン 3 ゴコウがさす 4 山のシャメンをスベって

5 ヨネンなく月光を浴びて

二 傍線部1〜の問いに答えよ。

1 辞書で意味を調べよ。

2 辞書で意味を調べよ。

3 なぜか。

4 辞書で意味を調べよ。

5 なぜか。

6 辞書で意味を調べよ。

 

 

 

2 解答

一 1 ささごや 2 加減 3 後光 4 斜面 滑 5 余念

二 1 神仏の放射する光。2 のうぜんかずら科の落葉高木。夏黄いろの花。実は利尿剤。

3 母と子の愛に打たれたから。4 他の考え。余念がない=他のことの気が散らない。

5 風が熊のほうへ吹くと脅かすようになるから。 6 クスノキ科の落葉高木。つまようじ・箸に使う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ところがこの1豪儀な小十郎がまちへ2熊の皮と胆を売りに行くときのみじめさと行ったら全く気の毒だった。
 町の中ほどに大きな3荒物屋があって笊だの砂糖だの砥石だの金天狗やカメレオン印の煙草だのそれから@硝子の蠅とりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな4唐金の火鉢を出して主人がどっかり座っていた。

「旦那さん、先ころはどうもありがとうごあんした。」

 あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして丁寧に敷板に手をついて云うのだった。

「はあ、どうも、今日は何のご用5です。」

「熊の皮また少し持って来た5ます。」

「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるしA今日ぁまんついいます。」

「旦那さん、そう云わなぃでどうか買って呉んなさぃ。安くてもいいます。」

「なんぼ安くても要らなぃます。」

主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの6豪気な山の中の主の小十郎は斯う云われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかづつでも要ったのだ。
 里の方のものなら麻もつくったけれども、小十郎のとこではわづか藤つるで編む入れ物の外に布にするようなものはなんにも出来なかったのだ。小十郎はしばらくたってからまるでしわがれたような声で云ったもんだ。

「旦那さん、お願だます。Bどうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ。」小十郎はそう云いながら改めておじぎさえしたもんだ。 主人はだまってしばらくけむりを吐いてから顔の少しでにかにか笑うのをそっとかくして云ったもんだ。「いいます。置いでお出れ。ぢゃ、平助、小十郎さんさ二円あげろぢゃ。」店の平助が大きな銀貨を四枚小十郎の前へ座って出した。小十郎はそれを押しいただくようにしてにかにかしながら受け取った。それから主人はこんどはだんだん機嫌がよくなる。「ぢゃ、おきの、小十郎さんさ一杯あげろ。」

 小十郎はこのころはもううれしくてわくわくしている。主人はゆっくりいろいろ談す。小十郎はかしこまって山のもようや何か申しあげている。間もなく台所の方からお膳できたと知らせる。小十郎は半分辞退するけれども結局台所のとこへ引っぱられてってまた叮寧な挨拶をしている。
 間もなく7塩引の鮭の刺身やいかの切り込みなどと酒が一本黒い小さな膳にのって来る。
 小十郎はちゃんとかしこまってそこへ腰掛けていかのC切り込みを手の甲にのせてべろりとなめたり8うやうやしく黄いろな酒を小さな猪口についだりしている。いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いと誰でも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本では9狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。
(注)@硝子の蝿とり えさで蝿をおびき寄せ水におぼれさせてとらえる蝿取り器。A今日ぁまんついいます。

今日はまずいりません。Bどうが何ぼでもいいはんて買って呉なぃ。 いくらでもいいから買ってください。

C切り込み 塩辛。

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。 

1 豪儀 2 荒物屋 3 砥石 4 シキイをまたぐ 5 ゴウキな山の中の 6 藤つる 

7 キゲンがよくなる 8 半分ジタイする 9 猪口 10 狐けん

二 傍線部1〜9の問いに答えよ。

1 辞書で意味を調べよ。

2 この後いくらで売れたか。

3 辞書で意味を調べよ。

4 辞書で意味を調べよ。

5 二人の言葉の使い方を説明せよ。

6、7、8、9  辞書で意味を調べよ。

 

3 解答

一 1 ごうぎ 2 あらものや 3 といし 4 敷居 5 豪気 6 ふじ 7 機嫌

  8 辞退  9 ちょこ 10 きつね

1 はなはだしいこと。 2 二枚で二円。 3 おもに台所でつかう家庭用品(ちりとり・ほうきなど)。

  対義語 小間物。 4 銅と錫の合金。青銅。 5 小十郎=精一杯敬語を使おうと努力している。 主

人=小十郎の使い方のまずさを知りながら、わざと使う。 6 気性が大きくて強いこと。

7 魚類を塩漬けにすること。 8 敬いつつしむこと。 9 両手で狐、庄屋、狩人の形をつくり勝

負を決める遊戯。

 

 

 


 こんな風だったから小十郎は熊どもは殺してはいても決してそれを憎んではいなかったのだ。ところがある年の夏こんなようなおかしなことが起ったのだ。
 小十郎が谷をばちゃばちゃ渉って一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫のようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦びで木の下に行って木のまわりを烈しく馳せめぐった。
 すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射たれてやろうか1思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。「おまえは何がほしくておれを殺すんだ。」

「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れると云うのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云われるともうおれなどは何か栗か@しだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ。」「もう二年ばかり待って呉れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから。」

 小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるという風でうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それから丁度二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに2始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。丁度二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。
(注)@しだのみ どんぐり。

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。 

1 はせメグった 2 シアンしている 3 ユダンなく 4 鉄砲をウったり 5 木もカキネも

6 血をハいて 7 オガむように

二 傍線部1〜2の問いに答えよ。

1 辞書で意味を調べよ。

2 辞書で意味を調べよ。

 

4 解答

1 巡 2 思案 3 油断 4 撃 5 垣根 6 吐 7 拝

二 1 色々と考えること。 2 (副詞的に)いつも。絶えず。


 一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき1いままで云ったことのないことを云った。「婆さま、おれも年老ったでばな、2今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するぢゃ。」 すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。小供らはかわるがわる廐の前から顔を出して「爺さん、@早ぐお出や。」と云って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るぢゃぃ。」と云った。
 小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
 犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗の藁でAふじつきをして遊んだ。


(注)@早ぐお出や 早く帰ってきてね。Aふじつき 藤の細枝を地面に巻き、其の枝と枝の間を手にした枝で突いて競争する遊び。

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。 

1 エンガワの日なた 2 わらじをユわえて 3 藁

二 傍線部1〜2の問いに答えよ。

1 なぜか。

2 こう言ったが、このあと小十郎はどうするか。

5 解答

一 

1 縁側 2 結 3 わら

二 1 小十郎の死を予感させる。

  2 「小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。」

 

 

 

 

 

 

 


 小十郎は白沢の岸を溯って行った。水はまっ青に淵になったり硝子板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との1影法師がちらちら光り樺の幹の影といっしょに雪にかっきり藍いろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
 白沢から峯を一つ越えたとこに2一疋の大きなやつが棲んでいたのを夏のうちにたずねて置いたのだ。
 小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から@長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡をかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖でも負けないという様にたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるでA寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだいきなり犬が火のついたように咆え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけて置いた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
 小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。 ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛み付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くで斯う云うことばを聞いた。 3「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった。」 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。

 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく4水は燐光をあげた。BすばるやC参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするように見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに5黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置きD回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで6生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

(注)@長根 尾根。A寒水石 純白の大理石。Bすばる 牡牛座にあるプレアデス星団。C参の星 オリオン座の三つ星。D回々教徒 イスラム教徒。    

一 カタカナは漢字に直し、漢字には読みを記せ。 

1 藍色 2 スベりそう 3 ホえる 4 鉄砲をカマえた 5 燐光 6 橙 7 死骸

二 傍線部1〜の問いに答えよ。

1 辞書で意味を調べよ。   

 

2 この後何と表現しているか。  

 

3 何が言いたかったか。

 

4 どういうことか。     

 

5 何か。           

 6 なぜか。

 

 

6 解答

一 1 あいいろ 2 滑 3 吠 4 構 5 りんこう 6 橙 7 しがい

二1 物に移っている人の影。 2 大きな熊

3 熊もまたやむをえず小十郎を殺した琴の許しを求めた。

4 水が月の光や雪の反射で青白く光った。

5 熊。6 許し許されることにより、熊と小十郎との結びつきが完成し熊を殺す必要もなくなったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

概要  時     春 夏 一月 (大正7年なめとこ山の土壌調査 昭和2年執筆?)

    場所    岩手県なめとこ山

    登場人物  淵沢小十郎 小十郎の母 子供たち 荒物屋の主人 熊 犬

    事件    熊狩り

構成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6  

大きい 淵沢川 霧か雲

青黒い 洞窟 ひおき 淵沢川 中川海道 

大空滝 ふき いたどり

 

 

 

白沢 春早く夕がた 月

あざみ ひきざくら

くろもじの木

 

 

 

 

町 荒物屋

 

 

 

 

夏 谷をわたった岩

 

 

 

 

一月 白沢へ

 

 

 

Q 色を指摘せよ

A 白沢の崖 

  真っ青な水

  赤と黄の眉実のみ

三日目の夜

  雪は青白く

  水は燐光

  黒い大きなもの

  黒い影

なめとこ山

胆=名高い 腹・傷に効く

好き         →

見送る 鉄砲は嫌い

 

 

 

 

母熊と子熊の会話

Q 2、4における熊の会話の特色とその理由

A 方言なし 熊を擬人化

  理想的に生きている

  熊=小十郎

 

 

 

 

 

 

 

大きな熊「なぜ殺す」→

「二年待ってくれ」 →

倒れていた

 

 

 

 

大きな熊=かかる  →

 

すがめ 赤黒い 臼のよう 

大きく厚い手 けち はんばき

山刀 大きな思い鉄砲 犬

←月の輪目がけてずどん

 「しかたない 生活のため」皮と胆

 畑・木・里無し やむなく猟師

 

←熊の言葉もわかる 感動

 

 

 

 

 

 

皮と胆を売りに行く

小十郎=みじめ 七人家族 何もで

きない 

主人 =ずるい いやな奴

 

←憎まない

←「しかたない」「栗でも食って」

 つらくてむせぶ

←拝む」

 

出掛けに弱音を吐く

 

自分と犬の影=藍色

←鉄砲を撃つ やられる

 青い星のような光=死ぬ時見る火  

小十郎 その他

主題 生きる者の悲しみ 特色 1 比喩・擬音語・擬態語の多様=感覚的表現 2 語り調 3 植物

 

文学史

 

宮澤賢治 1896〜1933年 詩人 童話作家 岩手県生まれ

     盛岡農林学校卒業 農業学校教員 農村指導者 

     詩や童話の創作に励んだが生前は無名に近い一地方詩人だった。

     死後、多くの未発表作品がたかく評価されるようになった。 

     宗教・自然・科学の一体となった宇宙感覚と郷土的色彩にあふれた作品

     詩集『春と修羅』

     童話『銀河鉄道の夜』『風の叉三郎』『注文の多い料理店』

 

 

昭和初年代 大正末期からの不況

 現実   倒産 馘首  失業者増大 労働争議 

東北の農村  凶作 農業恐慌 地主と小作の分化

 +

軍国化 

       対照

 理想  「イーハトブ童話」現実の文明批判

      作品 宗教自然の一体化