語釈
こころ 夏目漱石
『こころ』は、「私」と名乗る青年が、「先生」と呼ぶ人物との出会いから「先生」の自殺に至るまでの「記憶」を回想的に語る小説である。
「上 先生と私」 大学生だった「私」が鎌倉の海岸で偶然知り合った「先生」の人柄と見識に心惹かれ
家に出入りする。
「中 両親と私」 大学を卒業して帰省した夏の「私」と「両親」との交流が語られる。
「下 先生と遺書」「先生」が綴った手紙―遺書―の全文で、その青春の事件の委細と今日の自殺に至る
心境が語られる。
下が教科書に採用されている。
1
Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は初めてでした。二人はなんにもした。今ではどんなに変わっているか知りませんが、そのころはひどい漁村でした。第一どこもかしこも生臭いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦りむくのです。拳のような大きな石が打ち寄せる波にもまれて、始終ごろごろしているのです。
私はすぐ嫌になりました。しかしKはいいとも悪いとも言いません。少なくとも顔つきだけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかにけがをしないことはなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦に行きました。富浦からまた那古に移りました。すべてこの沿岸はその時分から主に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手ごろの海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に座って、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下ろす水は、また特別にきれいなものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市場に上らないような色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに座って、よく書物を広げました。Kは何もせずに黙っているほうが多かったのです。私にはそれが考えにふけっているのか、景色に見とれているのか、もしくは好きな想像を描いているのか、全くわからなかったのです。私は時々目を上げて、Kに何をしているのだとききました。Kは何もしていないと一口答えるだけでした。私は自分のそばにこうじっとして座っている者が、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思うことがよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKのほうでも私と同じような希望を抱いて岩の上に座っているのではないかしらと忽然疑い出すのです。すると落ち着いてそこに書物を広げているのが急に嫌になります。私は不意に立ち上がります。そうして遠慮のない大きな声を出してどなります。まとまった詩だの歌だのをおもしろそうに吟ずるような手ぬるいことはできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。あるとき私は突然彼の襟首を後ろからぐいとつかみました。こうして海の中へ突き落としたらどうすると言ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱はこのときもうだいぶよくなっていたらしいのです。1それと反比例に、私のほうはだんだん過敏になってきていたのです。私は自分より落ち着いているKを見て、うらやましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う気色を見せなかったからです。私にはそれが2一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んでゆくべき前途の光明を再び取り返した心持ちになったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害になんの衝突の起こるわけはないのです。私はかえって世話のしがいがあったのをうれしく思うくらいなものです。けれども3彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許すことができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している素振りに全く気がついていないように見えました。むろん私もそれがKの目につくようにわざとらしくは振る舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざうちへ連れてきたのです。
一 漢字練習
1 拳のような 2 トき伏せて 3 藍
4 忽然 5 襟首 6 ゼントの光明
7 フシギ 8 素振り 9 フる舞い 10 ニブい人
二 傍線部1〜3の問いに答えよ。
1 (1)「それ」指示内容を記せ。
(2)なぜ「過敏になってきていた」のか。
2 何か。
3 何か。
1 解答
一 1 こぶし 2 説 3 あい 4 こつぜん 5 えりくび 6 前途 7 不思議
8 そぶり 9 振る 10 鈍
二 1 (1)Kの神経衰弱がよくなっていたこと。 (2)そうなったのはお嬢さんと親しくなったからで
はないかと思って。2 「お嬢さん」も自分に好意を抱いてくれているというKの自信。
3 「お嬢さん」も好意を抱いてくれているというKの安心。
2
私は思い切って1自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはそのときに始まったわけでもなかったのです。旅に出ない前から、2私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会を@つらまえることも、その機会を作り出すことも、私の手際ではうまくゆかなかったのです。今から思うと、そのころ私の周囲にいた人間はみんな妙でした。女に関して立ち入った話などをする者は一人もありませんでした。中には話す種を持たないのもだいぶいたでしょうが、たとい持っていても黙っているのが普通のようでした。比較的自由な空気を呼吸している今のあなた方から見たら、定めし変に思われるでしょう。それがA道学の余習なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。
Kと私はなんでも話し合える仲でした。たまには愛とか恋とかいう問題も、口に上らないではありませんでしたが、いつでも抽象的な理論に落ちてしまうだけでした。それもめったには話題にならなかったのです。たいていは書物の話と学問の話と、未来の事業と、抱負と、修養の話ぐらいで持ち切っていたのです。いくら親しくってもこう堅くなった日には、突然調子を崩せるものではありません。二人はただ堅いなりに親しくなるだけです。私はお嬢さんのことをKに打ち明けようと思い立ってから、何遍歯がゆい不快に悩まされたかしれません。3私はKの頭のどこか一箇所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。
あなた方から見て笑止千万なこともそのときの私には実際大困難だったのです。私は旅先でもうちにいたときと同じように卑怯でした。私は始終機会を捕らえる気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度をどうすることもできなかったのです。私に言わせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、ことごとく弾き返されてしまうのです。
あるときはあまりにKの様子が強くて高いので、私はかえって安心したこともあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔するとともに、同じ腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のように見えて、急に嫌な心持ちになるのです。しかし、しばらくすると、以前の疑いがまた逆戻りをして、強く打ち返してきます。すべてが疑いから割り出されるのですから、すべてが私には不利益でした。容貌もKのほうが女に好かれるように見えました。性質も私のようにこせこせしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。どこか間が抜けていて、それでどこかにしっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力になれば専門こそ違いますが、私はむろんKの敵でないと自覚していました。――すべて向こうのいいところだけがこう一度に目先へちらつき出すと、ちょっと4安心した私はすぐ元の4不安に立ち返るのです。
Kは落ち着かない私の様子を見て、嫌ならひとまず東京へ帰ってもいいと言ったのですが、そう言われると、5私は急に帰りたくなくなりました。実はKを東京へ帰したくなかったのかもしれません。二人は房州の鼻を回って向こう側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総のそこ一里にだまされながら、うんうん歩きました。私にはそうして歩いている意味がまるでわからなかったくらいです。私は冗談半分にKにそう言いました。するとKは足があるから歩くのだと答えました。そうして暑くなると、海に入っていこうと言って、どこでもかまわず潮へ漬かりました。その後をまた強い日で照りつけられるのですから、身体がだるくてぐたぐたになりました。
(注)@つらまえる つかまえるに同じ。A道学 儒教等、道徳を説く学問。
一 漢字練習
1 私のテギワ 2 コキュウしている 3 チュウショウテキ 4 ホウフと修養
5 フカイに悩む 6 卑怯 7 黒い漆 8 コウカイする
9 詫びる 10 上総
二 傍線部1〜4の問いに答えよ。
1 どういう心か。
2 どういうことか。
3 どういう気持ちか。
4 それぞれ具体的内容は何か。
5 なぜか。
2 解答
一 1 手際 2 呼吸 3 抽象的 4 抱負 5 不快 6 ひきょう 7 うるし
8 後悔 9 わ 10 かずさ
二 1 先生の「お嬢さん」への恋。 2 「お嬢さん」への恋をKに打ち明ける覚悟ができていた。
3 堅いKに恋や女性の話をもちかけて二人の話題として話せるようにしたいという気持ち。
4 安心 Kが私の恋敵にならない。 不安 Kが恋敵になる。
5 自分より強い恋敵になるかもしれないKを東京へ帰したくないから。
3
1Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうと言うのです。私はおおかた叔母さんのところだろうと答えました。Kはその叔母さんはなんだとまたききます。私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。すると女の年始はたいてい十五日過ぎだのに、なぜそんなに早く出かけたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないとあいさつするよりほかにしかたがありませんでした。
一 漢字練習
1 市ヶ谷 2 叔母 3 細君 4 年始
二 傍線部1の問いに答えよ。
1 どういうことを言っているか。
3 解答
一 1 いちがや 2 おば
二 1 いつもは世間話はしない。
4
Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話をやめませんでした。しまいには私も答えられないような立ち入ったことまできくのです。私はめんどうよりも不思議の感に打たれました。以前私のほうから二人を問題にして話しかけたときの彼を思い出すと、私はどうしても彼の調子の変わっているところに気がつかずにはいられないのです。私はとうとうなぜ今日に限ってそんなことばかり言うのかと彼に尋ねました。そのとき彼は突然黙りました。しかし私は彼の結んだ口元の肉が震えるように動いているのを注視しました。彼は元来無口な男でした。平生から何か言おうとすると、言う前によく口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました。1彼の唇がわざと彼の意志に反抗するようにたやすく開かないところに、彼の言葉の重みもこもっていたのでしょう。いったん声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。
彼の口元をちょっと眺めたとき、私はまた何か出てくるなとすぐ感づいたのですが、それがはたしてなんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、2彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられたときの私を想像してみてください。私は3彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせるはたらきさえ、私にはなくなってしまったのです。
そのときの私は恐ろしさの塊と言いましょうか、または苦しさの塊と言いましょうか、なにしろ一つの塊でした。石か鉄のように頭から足の先までが急に固くなったのです。呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに固くなったのです。幸いなことにその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後に、また4人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐしまったと思いました。5先を越されたなと思いました。
しかしその先をどうしようという6分別はまるで起こりません。おそらく起こるだけの余裕がなかったのでしょう。私はわきの下から出る気味の悪い汗がシャツにしみ通るのをじっと我慢して動かずにいました。Kはその間いつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくってたまりませんでした。おそらくその苦しさは、大きな広告のように、7私の顔の上にはっきりした字ではりつけられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くてのろいかわりに、とても容易なことでは動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前言った苦痛ばかりでなく、時には一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。つまり8相手は自分より強いのだという恐怖の念がきざし始めたのです。
Kの話がひととおり済んだとき、私はなんとも言うことができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいるほうが9得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ10何事も言えなかったのです。また11言う気にもならなかったのです。
昼飯のとき、Kと私は向かい合わせに席を占めました。12下女に13給仕をしてもらって、私は14いつにないまずい飯を済ませました。二人は食事中もほとんど口をききませんでした。奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだかわかりませんでした。
一 漢字練習
1 癖 2 私のヨカク 3 塊 4 ダンリョクセイ
5 どうしようというフンベツ 6 ヨユウがなかった 7 ヨウイなことでは 8 ハりつける
9 ゲジョ 10 キュウジ
二 傍線部1〜14の問いに答えよ。
1 分かり易く説明せよ。
2 その時の心理を作者はどのように表現しているか。
(1)その中心をなす語を三つあげよ。一つは二字の熟語、他の二つは各一字で同一のイメージを表すもの。
(2)(1)に対応する感情も続いて書かれている。その部分を抜き出せ。
3 彼の魔法棒 上10 どのようなことの比喩か説明せよ。
4 説明せよ。
5 何についてそう思ったか。
6 意味を辞書で調べよ。
7 どういうことか。
8 なぜか。
9 意味を辞書で調べよ。
10 なぜか。
11 なぜか。
12 意味を辞書で調べよ。
13 意味を辞書で調べよ。
14 どういうことか。
4 解答
一 1 くせ 2 予覚 3 かたまり 4 弾力性 5 分別 6 余裕
7 容易 8 貼 9 下女 10 給仕
二 1 考え抜かれた言葉には、重みがあったが意志を強く表そうとするとますます口gごもりよけい迫力を
持たせる。
2 (1)「化石」「石」「鉄 (2)「人間らしい気分」3 Kのお嬢さんへの恋の告白。
4 呆然とした状態から我に帰ったこと。 5 恋を打ち明けること。
6 物事の道理よしあしを見分けること。7 表情にはっきり表れること。 8 Kの衝動の強さが迫っ
てきたから。9 有利な策略。 10 恐ろしさから。 11 自尊心のため。
12 雑事をさせるために雇った女。女中。 13 雑用をしたり、飲食の接待をすること。
14 Kから受けた衝撃の大きさで食事ものどを通らない。
5
二人はめいめいの部屋に引き取ったぎり顔を合わせませんでした。Kの静かなことは朝と同じでした。私もじっと考え込んでいました。
私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が遅れてしまったという気も起こりました。なぜさっきKの言葉を遮って、こっちから逆襲しなかったのか、そこが非常な手ぬかりのように見えてきました。せめてKのあとに続いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えました。Kの自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じことを切り出すのは、どう思案しても変でした。1私はこの不自然に打ち勝つ方法を知らなかったのです。私の頭は2悔恨に揺られてぐらぐらしました。
3私はKが再び仕切りの襖を開けて向こうから突進して来てくれればいいと思いました。私に言わせれば、さっきはまるで不意打ちにあったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は4午前に失ったものを、今度は取り戻そうという5下心を持っていました。それで時々目を上げて、襖を眺めました。しかしその襖はいつまでたっても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。
そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。Kは今襖の向こうで何を考えているだろうと思うと、それが気になってたまらないのです。不断もこんなふうにお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、そのときの私はよほど調子が狂っていたものとみなければなりません。それでいて私はこっちから進んで襖を開けることができなかったのです。いったん言いそびれた私は、また向こうからはたらきかけられる時機を待つよりほかにしかたがなかったのです。
しまいに私はじっとしておられなくなりました。無理にじっとしていれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私はしかたなしに立って縁側へ出ました。そこから茶の間へ来て、なんという目的もなく、鉄瓶の湯を湯のみについで一杯飲みました。それから玄関へ出ました。私はわざとKの部屋を回避するようにして、こんなふうに6自分を往来の真ん中に見いだしたのです。私にはむろんどこへ行くというあてもありません。ただじっとしていられないだけでした。それで方角も何もかまわずに、正月の町を、むやみに歩き回ったのです。私の頭はいくら歩いてもKのことでいっぱいになっていました。私も7Kを振るい落とす気で歩き回るわけではなかったのです。8むしろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついていたのです。
私には第一に彼が9解しがたい男のように見えました。どうしてあんなことを突然私に打ち明けたのか、またどうして打ち明けなければいられないほどに、彼の恋がつのってきたのか、そうして10平生の彼はどこに吹き飛ばされてしまったのか、すべて私には解しにくい問題でした。私は彼の強いことを知っていました。また彼のまじめなことを知っていました。私はこれから私の取るべき態度を決する前に、彼についてきかなければならない多くを持っていると信じました。同時にこれから先彼を相手にするのが変に気味が悪かったのです。私は夢中に町の中を歩きながら、自分の部屋にじっと座っている彼の容貌を始終目の前に描き出しました。しかもいくら私が歩いても彼を動かすことはとうていできないのだという声がどこかで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のように思えたからでしょう。私は永久彼に祟られたのではなかろうかという気さえしました。
私が疲れてうちへ帰ったとき、11彼の部屋は依然として人気のないように静かでした。
一 漢字練習
1 ジキが遅れてしまった 2 悔恨 3 襖 4 フイウちにあったも同じ
5 エンガワに出ました 6 咀嚼 7 容貌 8 シジュウ目の前に描き出し
9 彼に祟られた 10 イゼンとして人気ないように
二 次の傍線部1〜11の問いに答えよ。
1 ここではどうして「不自然」と考えているか。また、「自然」とはどういうことか。
2 意味を辞書で調べよ。
3 襖は開かない状態にある。ここでは「仕切りの襖」は何の象徴となっているか。
4 何か。
5 意味を辞書で調べよ。
6 どういうことを言っているか。
7 どういうことを言っているか。
8 (1)咀嚼 意味を辞書で調べよ。
(2)この時「私」は「K」をどのように感じていたか、抜き出せ。
9 解しがたい 意味を辞書で調べよ。
10 どのような「K」か。
11 この段から同じこ とを言っている箇所を抜き出せ。
5 解答
一 1 時機 2 かいこん 3 ふすま 4 不意打 5 縁側 6 そしゃく 7 ようぼう
8 始終 9 たた 10 依然
二 1 (1)Kからの告白に一段落ついた今となってこちらからまたおなじことを繰り返すのが「不自然」
(2)何もしないで居ること。 2 後悔して残念に思うこと。 3 二人を隔てている厚い壁。
4 お嬢さんに対する私の思いをKに告白する機会。 5 かねて心に期すること。かねてのたくらみ。
6 気がついてみたら往来の真ん中にいた。 7 Kのことをきれいさっぱり忘れるつもりで。
8(1)食物をよく噛み砕くこと。
(2)「解しがたい」「相手にするのが変に気味が悪い」「蝟集の魔物」「永遠に彼に祟られた」
9 カイスル わかる。 ゲセル 納得できる。
10 道のための精進を第一信条として生き、道の妨げになる恋を退けるK。
11 「Kの静かなことは朝とおなじでした」「Kは永久に静かなのです。」
6
私がうちへ入ると間もなく俥の音が聞こえました。今のように護謨輪のない時分でしたから、がらがらいう嫌な響きがかなりの距離でも耳に立つのです。俥はやがて門前で止まりました。
私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかりたった後のことでしたが、まだ奥さんとお嬢さんの晴れ着が脱ぎ捨てられたまま、次の部屋を乱雑に彩っていました。二人は遅くなると私たちにすまないというので、飯の支度に間に合うように、急いで帰ってきたのだそうです。しかし1奥さんの親切はKと私とにとってほとんど2無効も同じことでした。私は食卓に座りながら、言葉を惜しがる人のように、そっけない挨拶ばかりしていました。Kは私よりもなお3寡言でした。たまに親子連れで外出した女二人の気分が、また平生よりはすぐれて晴れやかだったので、4我々の態度はなおのこと目につきます。奥さんは私にどうかしたのかと聞きました。私は少し心持ちが悪いと答えました。実際私は心持ちが悪かったのです。すると今度はお嬢さんがKに同じ問いを掛けました。Kは私のように心持ちが悪いとは答えません。ただ口がききたくないからだと言いました。お嬢さんはなぜ口がききたくないのかと5追窮しました。私はその時ふと重たいまぶたを上げてKの顔を見ました。私にはKがなんと答えるだろうかという好奇心があったのです。Kの唇は例のように少し震えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしいことを考えているのだろうと言いました。Kの顔は心持ち薄赤くなりました。
その晩私はいつもより早く床へ入りました。私が食事の時気分が悪いと言ったのを気にして、奥さんは十時ごろ蕎麦湯を持ってきてくれました。しかし私の部屋はもう真っ暗でした。奥さんはおやおやと言って、仕切りの襖を細目に開けました。ランプの光がKの机から斜めにぼんやりと私の部屋に差し込みました。Kはまだ起きていたものと見えます。奥さんは枕元に座って、おおかた風邪を引いたのだろうから体を暖ためるがいいと言って、湯飲みを顔のそばへ突きつけるのです。私は6やむを得ず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。
私は遅くなるまで暗い中で考えていました。無論一つ問題をぐるぐる回転させるだけで、ほかになんの効力もなかったのです。私は突然Kが今隣の部屋で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向こうでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖越しに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。何をしているのだと私は重ねて問いました。今度はKの答えがありません。その代わり五、六分たったと思うころに、押し入れをがらりと開けて、床を延べる音が7手に取るように聞こえました。私はもう何時かとまた尋ねました。Kは一時二十分だと答えました。やがてランプをふっと吹き消す音がして、うちじゅうが真っ暗なうちに、しんと静まりました。
しかし私の目はその暗い中でいよいよさえてくるばかりです。私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は8今朝彼から聞いたことについて、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論襖越しにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即座に得られることと考えたのです。ところがKはさっきから二度おいと呼ばれて、二度おいと答えたような素直な調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。
一 漢字練習
1 護謨輪 2 イロドっていました 3 ムコウも同じこと
4 挨拶 5 蕎麦湯 6 風邪 7 襖 8 今朝
9 ソクザに得られる 10 素直
二 次の傍線部1〜8の問いに答えよ。
1 何か。
2 意味を辞書で調べよ。
3 意味を辞書で調べよ。
4 どういうものか。
5 意味を辞書で調べよ。
6 なぜか。
7 意味を辞書で調べよ。
8 何か。
6 解答
一 1 ごむわ 2彩 3 無効 4 あいさつ 5 そばゆ 6 かぜ 7 ふすま
8 けさ 9 即座 10 すなお
二 1 飯の支度に間に合うように早く帰ってきたこと。 2 効力や効果がないこと。
3 口数が少ないこと。 4 私がそっけない挨拶をし、Kが寡黙であること。
5 どこまでも深くおって明らかにしようとすること。 6 奥さんが蕎麦湯を持ってきてくれたから。
7 よく事情が分かっている。
8 Kがお嬢さんに恋していること。
7
Kの生返事は翌日になっても、その翌日になっても、彼の態度によく現れていました。彼は自分から進んで例の問題に触れようとする気色をけっして見せませんでした。もっとも機会もなかったのです。奥さんとお嬢さんがそろって一日うちを空けでもしなければ、二人はゆっくり落ち着いて、そういうことを話し合うわけにもいかないのですから。私は1それをよく心得ていました。心得ていながら、変にいらいらし出すのです。その結果初めは向こうから来るのを待つつもりで、暗に用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。
同時に私は黙って2うちのものの様子を観察してみました。しかし奥さんの態度にもお嬢さんの素振りにも、3別に平生と変わった点はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼らの4挙動にこれという差違が生じないならば、彼の自白は単に私だけに限られた自白で、肝心の本人にも、またその監督者たる奥さんにも、まだ通じていないのは確かでした。そう考えた時私は少し安心しました。それで無理に機会をこしらえて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにするほうがよかろうと思って、例の問題にはしばらく5手を着けずにそっとしておくことにしました。
こう言ってしまえばたいへん簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮の満ち干と同じように、いろいろの高低があったのです。私はKの動かない様子を見て、それにさまざまの意味をつけ加えました。奥さんとお嬢さんの言語動作を観察して、二人の心がはたして6そこに現れているとおりなのだろうかと疑ってもみました。そうして人間の胸の中に装置された複雑な器械が、時計の針のように、明瞭に偽りなく、盤上の数字を指し得るものだろうかと考えました。要するに私は同じことをこうも取り、ああも取りしたあげく、ようやく7ここに落ち着いたものと思ってください。さらにむずかしく言えば、落ち着くなどという言葉は、この際けっして使われた義理でなかったのかもしれません。
そのうち学校がまた始まりました。私たちは時間の同じ日には連れ立ってうちを出ます。都合がよければ帰る時にもやはりいっしょに帰りました。外部から見たKと私は、なんにも前と違ったところがないように親しくなったのです。けれども腹の中では、各自に各自のことを勝手に考えていたに違いありません。ある日私は突然8往来でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、この間の自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じているかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問いに対する彼の答え次第できめなければならないと、私は思ったのです。すると彼はほかの人にはまだだれにも打ち明けていないと明言しました。私は事情が自分の推察どおりだったので、内心うれしがりました。私はKの私より
9横着なのをよく知っていました。彼の度胸にもかなわないという自覚があったのです。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資のことで養家を三年も欺いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損なわれていなかったのです。私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起こりようがなかったのです。
私はまた彼に向かって、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、10実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、なんにも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠し立てをしてくれるな、すべて思ったとおりを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必要はないとはっきり断言しました。しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないのです。私も往来だからわざわざ立ち止まってそこまで突き止めるわけにいきません。ついそれなりにしてしまいました。
一 漢字練習
1 素振り 2 彼らのキョドウ 3 カンジンの本人にも
4 メイリョウに偽りなく 5 盤上の数字 6 Kにニクハクしました
7 答えシダイで 8 自分のスイサツどおり 9 私よりオウチャク 10 欺いて
二 次の傍線部1〜3の問いに答えよ。
1 指示内容を記せ。
2 なぜか。
3 何を意味するか。
4 意味を辞書で調べよ。
5 意味を辞書で調べよ。
6 指示内容を記せ。
7 指示内容を記せ。
8 具体的内容を記せ。
肉薄 意味を辞書で調べよ。
9 意味を辞書で調べよ。
10 どういうことか。
7 解答
一1 すぶ 2 挙動 3 肝心 4 明瞭 5 ばんじょう 6 肉薄 7 次第
8 推察 9 横着 10 あざむ
二 1 二人が家をあけなければKの恋について話し合うわけにいかない。
2 Kがうちのものに自分の気持ちを放しているかどうか計るため。
3 Kの自白は私に限られたものである。4 振る舞い。動作。5
6 奥さんとお嬢さんの言語動作。
7 例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておくことにしました
8(1)肉薄 身をもって相手に迫ること。9 ずうずうしく構えて怠けること。
(2)告白が「自分」だけに限られている。Kの恋をどう取り扱うか。
10 自白にとどまらずお嬢さんに近づいて恋を実らせる。
8
ある日私は久し振りに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から差す光線を1半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらとひっくり返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べてこいと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見つからないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向こう側から小さな声で私の名を呼ぶ者があります。私はふと目を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近づけました。ご承知のとおり図書館ではほかの人のじゃまになるような大きな声で話をするわけにゆかないのですから、Kのこの2所作はだれでもやる普通のことなのですが、私はそのときに限って、一種変な心持ちがしました。
Kは低い声で勉強かとききました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から離しません。同じ低い調子で3いっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っていると言ったまま、すぐ私の前の空席に腰を下ろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。なんだかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われてしかたがないのです。私はやむを得ず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち着き払ってもう済んだのかとききます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すとともに、Kと図書館を出ました。
二人は別に行く所もなかったので、@竜岡町から池の端へ出て、上野の公園の中へ入りました。そのとき彼は例の事件について、突然向こうから口を切りました。前後の様子を総合して考えると、Kはそのために私をわざわざ散歩に引っ張り出したらしいのです。けれども4彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした。彼は私に向かって、ただ漠然と、どう思うと言うのです。どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな目で私が眺めるかという質問なのです。一言で言うと、彼は現在の自分について、私の批判を求めたいようなのです。そこに私は5彼の平生と異なる点をたしかに認めることができたと思いました。たびたび繰り返すようですが、彼の天性は人の思わくをはばかるほど弱くでき上がってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んでゆくだけの度胸もあり勇気もある男なのです。養家事件でその特色を強く胸のうちに彫りつけられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。
私がKに向かって、この際なんで私の批評が必要なのかと尋ねたとき、彼はいつもにも似ない6悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。そうして迷っているから自分で自分がわからなくなってしまったので、私に公平な批評を求めるよりほかにしかたがないと言いました。私はすかさず迷うという意味を聞きただしました。彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼にききました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰まりました。7彼はただ苦しいと言っただけでした。実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼に都合のいい返事を、その渇ききった顔の上に8慈雨のごとく注いでやったかわかりません。私はそのくらいの美しい同情を持って生まれてきた人間と自分ながら信じています。しかし9そのときの私は違っていました。
(注)@竜岡町 東京都文京区にあった町名・
一 漢字練習
1 タンニンキョウシ
2 センコウの学科に関して 3 邪魔 4 所作 5 一物
6 談判 7 ただバクゼンと、どう思うと言う 8 進んでゆくだけのドキョウもあり
9 退こう 10 悄然
二 次の傍線部1〜10の問いに答えよ。
1 意味を辞書で調べよ。
2 意味を辞書で調べよ。
3 なぜか。
4 「実際的」行動とはどういうものか。
5 「彼」は「平生」どうなのか。
6 意味を辞書で調べよ。
7 彼が答えられなかったのはなぜか。
8 どういう返事か。 Kに同情し彼を励ます。
9 どうだったのか。また、なぜか。
8 解答
一 1 担任教師 2 専攻 3 じゃま 4 しょさ 5 いちもつ 6 だんぱん
7 漠然 8 度胸 9 しりぞ 10 しょうぜん
二 1 ○ハンシン 上半身。ハンミ 相手に対して体を斜めにする姿勢。魚の半分。
2 しわざ。ふるまい。
3 恋について話したいため。
4 Kが「お嬢さん」に告白すること(求婚すすること)。5 自分の力で迷わずやり通す。
6 元気がない様子。7 お嬢さんへの恋が退けないほど強くなったから。
8 ちょうどよい時期に適当な量だけ降る雨。 9 Kを恋敵とみる利己心。
9
私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の目、私の心、私の身体、すべて1私という名のつくものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、2彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目の前でゆっくりそれを眺めることができたも同じでした。
3Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の4虚につけ込んだのです。私は彼に向かって5急に厳粛な改まった態度を示し出しました。むろん策略からですが、その態度に6相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽だの7羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。私はまず「8精神的に向上心のない者はばかだ。」と言い放ちました。これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向かって使った言葉です。私は彼の使ったとおりを、彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかし決して復讐ではありません。私は復讐以上に残酷な意味を持っていたということを自白します。私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手をふさごうとしたのです。
9Kは@真宗寺に生まれた男でした。しかし彼の傾向は中学時代から決して生家の宗旨に近いものではなかったのです。教義上の区別をよく知らない私が、こんなことを言う資格に乏しいのは承知していますが、私はただ男女に関係した点についてのみ、そう認めていたのです。Kは昔から10精進という言葉が好きでした。私はその言葉の中に、禁欲という意味もこもっているのだろうと解釈していました。しかしあとで実際を聞いてみると、それよりもまだ11厳重な意味が含まれているので、私は驚きました。道のためにはすべてを犠牲にすべきものだというのが彼の第一12信条なのですから、摂欲や禁欲はむろん、たとい欲を離れた恋そのものでも道の妨げになるのです。Kが自活生活をしている時分に、私はよく彼から彼の主張を聞かされたのでした。そのころからお嬢さんを思っていた私は、いきおいどうしても彼に反対しなければならなかったのです。私が反対すると、彼はいつでも気の毒そうな顔をしました。13そこには同情よりも侮蔑のほうがよけいに現れていました。
こういう過去を二人の間に通り抜けてきているのですから、精神的に向上心のない者はばかだという言葉は、Kにとって痛いにちがいなかったのです。しかし前にも言ったとおり、私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえって14それを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私はかまいません。私はただ15Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の16発現でした。
「精神的に向上心のない者は、ばかだ。」
私は17二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見つめていました。
「ばかだ。」とやがてKが答えました。18「僕はばかだ。」
Kはぴたりとそこへ立ち止まったまま動きません。彼は地面の上を見つめています。私は思わず19ぎょっとしました。20私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいということに気がつきました。21私は彼の目づかいを参考にしたかったのですが、彼は最後まで私の顔を見ないのです。そうして、そろそろとまた歩き出しました。
(注)@真宗 浄土真宗。
一 漢字練習
1 タリュウジアイ 2 隙間 3 要塞 4 彷徨
5 むろんサクリャクからです 6 滑稽
7 羞恥 8 復讐 9 精進
10 居直りゴウトウ
二 次の傍線部1〜20の問いに答えよ。
1 どういうことをいっているのか。
2 実際には彼のどういう様子・状態 をいっているのか。
彼の保管している要塞の千図 修辞法
3 (1)彷徨
(2)「理想」と「現実」を具体的に示せ。
4 意味を辞書で調べよ。
5 どういう意図からこういう態度を取りはじめたか。
6 意味を辞書で調べよ。
7 意味を辞書で調べよ。
8
(1)「精神的向上心」とはどんなものか。
(2)この言葉が「復讐以上に残酷な意味を持っていた」のはなぜか。
9 (1)この段落の置かれている理由は何か。
(2)Kの精神態度と真宗の教義との関係を述べよ。
10 精進 下9
11 具体的にいっている箇所を抜き出せ。
12 意味を辞書で調べよ。
13 指示内容を記せ。
14 具体的に はどういう生き方をさせることか。
15 具体的にどうすることか。
16 意味を辞書で調べよ。
17 どういう効果があるか。
18 なぜばかなのか。
19 ぎょっとしました。 私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです 下4
(1)刹那
辞書で意味を調べよ。
居直り強盗 辞書で意味を調べよ。
(2)「私」は「K」が具体的にどうすると思ったのか。
20(1)刹那 居直り強盗 意味を辞書で調べよ。
(2)具体的にどういうことか。
21 何の「参考」にしたかったのか。
9 解答
一 1 他流試合 2 すきま 3 ようさい 4 ほうこう 5 策略 6 滑稽
7 しゅうち 8 ふくしゅう 9 精進 10 強盗
二 1 私の全神経を集中して。 2 Kの弱点をすっかり知ることができ、Kに対して優位にたっている
こと。彼の保管している要塞の地図=比喩。進退きわまっているKの心の内。
3 (1)さまようこと。 (2)理想 道のためには全てを犠牲にすること。
現実 恋に陥っていること。 4 油断や隙に漬け込むこと。
5 Kのことを心から心配しているように見せかけること。 6 ふさわしいこと。
7 はずかっしく思うこと。
8 (1)一切を犠牲にして精進すること。(2)復讐=Kに批判された言葉を逆に用いてKに迫った。
(2)Kに恋を諦めて理想通りに生きろと言う。
9 (1)二人の心理の動きを述べ、Kに痛烈な打撃を与えたことぉ示すため。
(2)真宗=他力本願。在家往生。妻帯。 K=厳格でこれに不満。
10 其の事に打ちこんで努力を続けること。 11 「欲を離れた恋そのものでも道の妨げになる」
12 堅く信じ守っていること。 13 「気の毒そうな顔」 14 精進の道を歩ませること。
15 第一信条を捨てて恋に生きる。 16 実際に現れ出ること。 17 とどめの一撃になる。
18 恋に陥るなど持部の信条からすれば「ばか」。19 Kが恋に向かうと困ったから。
20 (1)刹那=極めて短い時間。 居直り強盗=窃盗に入った者(恋する)が強盗になること(恋の
実践)。(2)自分は馬鹿だから道を捨てて恋に生きる。
21 Kが恋に進むと言う想像が正しいかどうかの判断の参考。
10
私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました。あるいは待ち伏せと言ったほうがまだ適当かもしれません。そのときの私はたといKをだまし打ちにしてもかまわないくらいに思っていたのです。しかし私にも教育相当の良心はありますから、もしだれか私のそばへ来て、おまえは卑怯だと一言ささやいてくれる者があったなら、私はその瞬間に、はっと我にたち返ったかもしれません。もしKがその人であったなら、私はおそらく彼の前に赤面したでしょう。ただKは私をたしなめるにはあまりに正直でした。あまりに単純でした。あまりに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払うことを忘れて、かえって1そこにつけ込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。
Kはしばらくして、私の名を呼んで私のほうを見ました。今度は私のほうで自然と足を止めました。するとKも止まりました。私はそのときやっとKの目を真向きに見ることができたのです。Kは私より背の高い男でしたから、私はいきおい彼の顔を見上げるようにしなければなりません。私はそうした態度で、2狼のごとき心を罪のない羊に向けたのです。
「もうその話はやめよう。」と彼が言いました。彼の目にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっとあいさつができなかったのです。するとKは、3「やめてくれ。」と今度は頼むように言い直しました。私はそのとき彼に向かって残酷な答えを与えたのです。狼がすきをみて羊の4咽喉笛へ食らいつくように。
「やめてくれって、僕が言い出したことじゃない、もともと君のほうから持ち出した話じゃないか。しかし君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたってしかたがあるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は5君の平生の主張をどうするつもりなのか。」
私がこう言ったとき、背の高い彼は自然と私の前に6萎縮して小さくなるような感じがしました。彼はいつも話すとおりすこぶる強情な男でしたけれども、一方ではまた人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される場合には、決して平気でいられないたちだったのです。私は彼の様子を見てようやく安心しました。すると彼は7卒然「覚悟?」とききました。そうして私がまだなんとも答えない先に8「覚悟、――覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。
二人はそれぎり話を切り上げて、@小石川の宿のほうに足を向けました。わりあいに風のない暖かな日でしたけれども、なにしろ冬のことですから、公園の中は寂しいものでした。9ことに霜に打たれて蒼みを失った杉の木立の茶褐色が、薄黒い空の中に、梢を並べてそびえているのを振り返って見たときは、寒さが背中へかじりついたような心持ちがしました。我々は夕暮れの本郷台を急ぎ足でどしどし通り抜けて、また向こうの丘へ上るべく小石川の谷へ降りたのです。私はそのころになって、ようやく外套の下に体の温かみを感じ出したくらいです。
急いだためでもありましょうが、我々は帰り道にはほとんど口をききませんでした。うちへ帰って食卓に向かったとき、奥さんはどうして遅くなったのかと尋ねました。私はKに誘われて上野へ行ったと答えました。奥さんはこの寒いのにと言って驚いた様子を見せました。お嬢さんは上野に何があったのかと聞きたがります。私は何もないが、ただ散歩したのだという返事だけしておきました。平生から無口なKは、いつもよりなお黙っていました。奥さんが話しかけても、お嬢さんが笑っても、ろくなあいさつはしませんでした。それから飯を飲み込むようにかき込んで、私がまだ席を立たないうちに、自分の部屋へ引き取りました。
(注)@小石川の宿 「私」と「k」の下宿。東京都文京区小石川。
一 漢字練習
1 卑怯 2 私はそのシュンカンに 3 あまりに人格がゼンリョウ
4 ケイイを払う 5 挨拶 6 やめるだけのカクゴがなければ 7 萎縮
8 すこぶるゴウジョウな男でした 9 自分のムジュンなどを 10 卒然
二 次の傍線部1〜の問いに答えよ。
1 指示内容を記せ。
2 比喩を説明せよ。
3 この時の「K」の心理はどういうものであったか。
4 意味を辞書で調べよ。
5 どのようなものか。
6 意味を辞書で調べよ。
7 意味を辞書で調べよ。
8 次の場合、「覚悟」はどういう意味になっているか。
(1)君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ 「私」にとって
(2)彼の用いた「覚悟」という言葉「覚悟」の二字を 「私」にとって
(3)覚悟−覚悟ならないこともない 「K」にとって
9(1)この部分は唯一の自然描写になっているが、どのような心理描写が重ねられているか。
(2)この自然描写には、前出のある熟語と深い関連がありそうである。それは何か。また、この種の表現
を何というか。
10 解答
一 1 ひきょう 2 瞬間 3 善良 4 敬意 5 挨拶 6 覚悟 7 いしゅく 8 強情
9 矛盾 10 そつぜん
二 1 Kの持つ「単純」で「善良」な人格。 2 おおかみ=私 羊=K 3 自責の苦しみ。
4 気道の声帯のある部分。 5 道のためには全てを犠牲にしても精進すべきである。
6 衰え萎びてちじむこと。かしこまって小さくなること。7 突然。
8 (1)恋をあきらめる。 (2)恋に進む。 (3)自殺。
9 (1)不吉なイメージ。(2)覚悟。 伏線。
11
そのころは1覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが2古い自分をさらりと投げ出して、3一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど4尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって5猛進しないといって、決してその愛のなまぬるいことを証拠だてるわけにはゆきません。いくら6熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起こる機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去がさし示す道を今までどおり歩かなければならなくなるのです。そのうえ彼には現代人の持たない強情と我慢がありました。7私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
上野から帰った晩は、私にとって8比較的安静な夜でした。私はKが部屋へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机のそばに座り込みました。そうして9とりとめもない世間話をわざと彼にしむけました。彼は迷惑そうでした。10私の目には勝利の色が多少輝いていたでしょう。私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手をかざしたあと、自分の部屋に帰りました。ほかのことにかけては何をしても彼に及ばなかった私も、そのときだけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して持っていたのです。
私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で目を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の部屋には宵のとおりまだ明かりがついているのです。急に世界の変わった私は、少しの間口をきくこともできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
そのときKはもう寝たのかとききました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向かって、何か用かときき返しました。Kはたいした用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでにきいてみただけだと答えました。Kはランプの灯を背中に受けているので、彼の顔色や目つきは、全く私にはわかりませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち着いていたくらいでした。
Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の部屋はすぐもとの暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた目を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、11昨夕のことを考えてみると、なんだか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食うとき、Kにききました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと言います。なぜそんなことをしたのかと尋ねると、別にはっきりした返事もしません。調子の抜けたころになって、ちかごろは熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。私はなんだか変に感じました。
その日はちょうど同じ時間に講義の始まる時間割りになっていたので、二人はやがていっしょにうちを出ました。今朝から昨夕のことが気にかかっている私は、途中でまたKを追究しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子で言い切りました。昨日上野で「その話はもうやめよう。」と言ったではないかと注意するごとくにも聞こえました。12Kはそういう点にかけて鋭い自尊心を持った男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を押さえ始めたのです。
一 漢字練習
1 覚醒 2 猛進 3 生ぬるいことをショウコ立てる 4 熾烈
5 前後を忘れるほどのショウドウが起こる 6 彼はメイワクそうでした
7 穏やかな
8 暗闇 9 近頃はジュクスイができるのか 10 またKをツイキュウしました
二 次の傍線部1〜11の問いに答えよ。
1 辞書で意味を調べよ。
2 具体的には「K」のどういう生き方をいっているか。
3 辞書で意味を調べよ。
4 具体的にどういうことか。
5 猛進 辞書で意味を調べよ。
6 辞書で意味を調べよ。
7 (1)「双方の点」とは何と何か。
(2)「私」は「彼の心」をどのように見抜いていたか。
(3)この段ではどうして「見抜いていたつもりなのです」と表記されているのか。
8 なぜか。
9 なぜこうしたか。
10 「勝利の色」「得意の響き」があらわれるのは、どのような根拠によるのか。
11 何か。
12 具体的にどういうことか。
11 解答
一1 かくせい 2 もうしん 3 証拠 4 しれつ 5 衝動 6 迷惑 7 おだ
8 くらやみ 9 熟睡 10 追窮
二 1 目が覚めること。 2 全てを犠牲にして道のために精進する等という生き方。
3 一つの事に意を注ぐこと。4 一切を捨て道のために精進してきたこと。
5 勢い激しく進むこと。 6 燃え立つように盛んで激しいさま。
7 (1)「彼には投げだすことのできないほど尊い過去があった。
「彼には現代人の持たない強い強情と我慢があ」った。
(2)恋を断念するだろう。 (3)翌朝安心感が崩れてしまうから。
8 Kをうちのめし、Kが恋を断念し、精進の道を歩むと確信したので。
9 Kの状態を確認したいから(満足したいから)。
10 Kが恋に進むのだろうと言う確信が根拠になっている。
11 深夜Kが襖をあけて眠っている私に声をかけたこと。
12 「やめよう。」と言った以上言わない。
12
1Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。2彼のこの事件についてのみ優柔なわけも私にはちゃんとのみ込めていたのです。つまり私は3一般を心得たうえで、例外の場合をしっかり捕まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭の中で何べんも咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら動き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって4例外でないのかもしれないと思い出したのです。5すべての疑惑、煩悶、懊悩を一度に解決する最後の手段を、彼は胸の中に畳み込んでいるのではなかろうかと疑ぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。そのときの私がもしこの驚きをもって、もう一ぺん彼の口にした6覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません。私はただKがお嬢さんに対して進んでゆくという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです。
私は私にも7最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起こしました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を決めました。私は黙って8機会をねらっていました。しかし二日たっても三日たっても、私はそれを捕まえることができません。私はKのいないとき、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方がじゃまをするといったふうの日ばかり続いて、どうしても「今だ。」と思う好都合が出てきてくれないのです。私はいらいらしました。
一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって仮病をつかいました。9奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時ごろまで布団をかぶって寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の中がひっそり静まったころを見計らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食べ物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつものとおり茶の間で飯を食いました。そのとき奥さんは長火鉢の向こう側から給仕をしてくれたのです。私は朝飯とも昼飯とも片づかない茶椀を手に持ったまま、どんなふうに10問題を切り出したものだろうかと、11そればかりに12屈託していたから、外観からは実際気分のよくない病人らしく見えただろうと思います。
私は飯をしまってたばこをふかし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢のそばを離れるわけにゆきません。下女を呼んで膳を下げさせたうえ、鉄瓶に水をさしたり、火鉢の縁をふいたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向こうでなぜですときき返してきました。私は実は少し話したいことがあるのだと言いました。奥さんはなんですかと言って、私の顔を見ました。13奥さんの調子はまるで私の気分に入り込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
私はしかたなしに言葉のうえで、いいかげんにうろつき回った末、Kがちかごろ何か言いはしなかったかと奥さんにきいてみました。奥さんは思いも寄らないというふうをして、「何を?」とまた反問してきました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか。」とかえって向こうできくのです。
一 漢字練習
1 この事件についてのみユウジュウなわけ 2 つらまえたつもりでトクイだった
3 咀嚼
4 煩悶
5 懊悩
6 恋の方面にハッキされる
7 起きろというサイソクをうけた
8 仮病
9 屈託
10 煙草
二 次の傍線部1〜13の問いに答えよ。
1 わかり易くいいかえよ。
2 なにか。
3 その場合の「一般」と「例外」は具体的にはそれぞれ何か。
4 この場合「K」は具体的にどうすることか。
5 (1) 辞書で意味を調べよ。
(2) 辞書で意味を調べよ。
(3)「K」が具体的にどうすることか。
]
6 どのような面まで見回したら「公平」といえるのか。
7 どういうことか。
8 どういう機会か。
9 なぜKにだけ「自身」とあるか。
10 具体的内容は何か。
11 指示内容を記せ。
12 辞書で意味を調べよ。
13 「奥さんの調子」「私の気分」はそれぞれどんなか。
12 解答
一 1 優柔 2 得意 3 そしゃく 4 はんもん 5 おうのう 6 発揮
7 催促 8 けびょう 9くったく 10 たばこ
二 1 決断力や実行力を備えた性格。
2 Kの堅い信念も恋のゆえに一時的に優柔不断にならざるを得ないということ。
3 一般=一途に求道に向かう生き方。 例外=恋に苦しむこと。4 恋に進む。
5 (1)煩悶=いろいろ悩み苦しむこと。 懊悩=なやみもだえること。
(2)恋をうち明けてプロポーズすること。
6 Kが恋をあきらめることをも合わせ考えること。
7 結婚を申し込むこと。
8 Kとお嬢さんがいなくて奥さんがいる時。9 Kを裏切ろうとしており、Kを強く意識しているので。
10 求婚すること。
11 どんな風に問題を切り出すか。
12 あることが気になってくよくよすること。13 「奥さんの調子」軽い。「私の気分」深刻。
13
Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ。」と言ってしまったあとで、すぐ自分のうそを快からず感じました。しかたがないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだと言い直しました。奥さんは「そうですか。」と言って、あとを待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私にください。」と言いました。1奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでもしばらく返事ができなかったものとみえて、黙って私の顔を眺めていました。一度言い出した私は、いくら顔を見られても、それに2頓着などはしていられません。「ください、ぜひください。」と言いました。「私の妻としてぜひください。」と言いました。奥さんは年をとっているだけに、私よりもずっと落ち着いていました。「あげてもいいが、あんまり急じゃありませんか。」ときくのです。私が「急にもらいたいのだ。」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか。」と念を押すのです。私は言い出したのは突然でも、考えたのは突然でないというわけを強い言葉で説明しました。
それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のようにはきはきしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持ちよく話のできる人でした。「よござんす、さしあげましょう。」と言いました。「さしあげるなんていばった口のきける境遇ではありません。どうぞもらってください。ご存じのとおり父親のないあわれな子です。」とあとでは向こうから頼みました。
話は簡単でかつ明瞭に片づいてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とはかからなかったでしょう。3奥さんはなんの条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、あとから断ればそれでたくさんだと言いました。4本人の意向さえ確かめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私のほうが、5かえって形式に拘泥するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意したとき、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知のところへ、私があの子をやるはずがありませんから。」と言いました。
自分の部屋へ帰った私は、事のあまりにわけもなく進行したのを考えて、かえって変な気持ちになりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底にはい込んできたくらいです。けれどもだいたいのうえにおいて、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。
私は昼ごろまた茶の間へ出かけていって、奥さんに、今朝の話をお嬢さんにいつ通じてくれるつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話してもかまわなかろうというようなことを言うのです。こうなるとなんだか私よりも相手のほうが男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き止めて、もし早いほうが希望ならば、今日でもいい、けいこから帰ってきたら、すぐ話そうと言うのです。私はそうしてもらうほうが都合がいいと答えてまた自分の部屋に帰りました。しかし黙って自分の机の前に座って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、6なんだか落ち着いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き会いました。7なんにも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。私が帽子をとって「今お帰り。」と尋ねると、向こうではもう病気は治ったのかと8不思議そうにきくのです。私は「ええ治りました、治りました。」と答えて、ずんずん水道橋のほうへ曲がってしまいました。
一 漢字練習
1 嘘 2 頓着 3 威張った 4 口のきけるキョウグウ
5 拘泥
6 ショウダクを得る 7 本人がフショウチのところ 8
稽古
9 そうしてもらうほうがツゴウがいい 10
私がボウシを取って
二 次の傍線部1〜11の問いに答えよ。
1 「私」の申し込みに対し「奥」さんがどういう態度でいたことがわかるか。
2 辞書で意味を調べよ。
3 当時としてはどういう人だ ったか。
4 この箇所からどういうことが推 測できるか。
5 どうすることに。
拘泥 辞書で意味を調べよ。
6 なぜか。
7 何を。
8 なぜか。
13 解答
一 1 うそ 2 とんちゃく 3 いば 4 境遇 5 こうでい 6 承諾
7 不承知 8 けいこ 9 都合 10 帽子
二 1 二人の結婚を望み、私の申し込みを予測していた。2 物事に深くこだわること。
3 進んだ人。
4 1 お嬢さんに私と結婚する意志がある。2 奥さんとお嬢さんの意思が疎通している。
3 お草に威厳がある。 5
6 1 お嬢さんが承諾したのでなく多少不安。 2 結婚が決定された時の気恥ずかしさ。
7 仮病をつかい二人でっ話し、婚約が成立したこと。
8 私が病気と思っていたので。
14
私は@猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町のほうへ曲がりました。私がこの界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手營のした書物などを眺める気が、どうしても起こらないのです。私は歩きながらたえずうちのことを考えていました。私にはさっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんがうちへ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。そのうえ私は時々往来の真ん中で我知らずふと立ち止まりました。そうして今ごろは奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。またあるときは、もうあの話が済んだころだとも思いました。
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を降りて、しまいに小石川の谷へ降りたのです。私の歩いた距離はこの三区にまたがって、いびつな円を描いたともいわれるでしょうが、1私はこの長い散歩の間ほとんどKのことを考えなかったのです。今そのときの私を回顧して、なぜだと自分にきいてみてもいっこうわかりません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
2Kに対する私の良心が復活したのは、私がうちの格子を開けて、玄関から座敷へ通るとき、すなわち例のごとく彼の部屋を抜けようとした瞬間でした。彼はいつものとおり机に向かって書見をしていました。彼はいつものとおり書物から目を離して、私を見ました。しかし彼はいつものとおり今帰ったのかとは言いませんでした。彼は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか。」とききました。3私はその刹那に、彼の前に手をついて、謝りたくなったのです。しかも私の受けたそのときの衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野の真ん中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。4私の自然はすぐそこでくい止められてしまったのです。そうして悲しいことに永久に復活しなかったのです。
夕飯のときKと私はまた顔を合わせました。5なんにも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い目を私に向けません。6なんにも知らない奥さんはいつもよりうれしそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。私は7鉛のような飯を食いました。8そのときお嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の部屋でただいまと答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんはおおかたきまりが悪いのだろうと言って、ちょっと私の顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんできまりが悪いのかと追究しにかかりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
私は食卓についた初めから、奥さんの顔つきで、9事のなりゆきをほぼ推察していました。しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それをことごとく話されてはたまらないと考えました。10奥さんはまたそのくらいのことを平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸いにKはまたもとの沈黙に返りました。平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。私はほっと一息して部屋へ帰りました。しかし私がこれから先Kに対してとるべき態度は、どうしたものだろうか、私は11それを考えずにはいられませんでした。私はいろいろの弁護を自分の胸でこしらえてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向かうには足りませんでした。卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのがいやになったのです。
(注)@猿楽町 東京都千代田区にある町名。以下、神保町、小川町も同じ。
一 漢字練習
1 界隈 2 時々オウライの真ん中で
3 私の歩いたキョリ
4
私の良心がフッカツしたのは 5 刹那
6 その場で彼にシャザイしたろうと
7 嬉しそう 8 機嫌
9 私はいろいろのベンゴを
10 卑怯
二 次の傍線部1〜3の問いに答えよ。
1 私のどのような面が押さえられ、どのような状態になっているのか。 良心 自己中心的な満足
感まさっている
2 きっかけは何か。
3 この時の私の心理を説明せよ。
4 具体的にどういうことか。
5 具体的にどういうことをさしているか。
6 具体的にどういうことをさしているか。
7 どういう食事だったか。
8 なぜか。
9 具体的にどういうことか。
10 ここに奥さんのどのような人柄があらわれているか。
11 指示内容を記せ。
14 解答
一1 かいわい 2 往来 3 距離 4 復活 5 せつな 6 謝罪 7 うれ
8 きげん 9 弁護 10 ひきょう
二 1 自己中心的な満足感がまさっている。
2 Kに病気の事を聞かれたこと。
3 Kの真情に触れ罪の意識を痛切に感じた。 4 良心。 5 私が求婚したこと。
6 Kが恋を私に打ち明け、それについてKと私が話あったこと。7 味のない食事。
8 恥ずかしくて。9 私の申し込みをお嬢さんが承諾したこと。
10 「どこか男らしい気性を備えた」人物。
11
15
私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間1Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのは言うまでもありません。私はただでさえなんとかしなければ、彼にすまないと思ったのです。そのうえ奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突っつくように刺激するのですから、私はなおつらかったのです。どこか男らしい気性を備えた奥さんは、いつ私のことを食卓でKにすっぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの2挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私はなんとかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし3倫理的に弱点を持っていると、自分で自分を認めている私には、それがまた3至難のことのように感ぜられたのです。
私はしかたがないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。むろん私のいないときにです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変わりはありません。といって、こしらえごとを話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を4詰問されるに決まっています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。まじめな私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪えきれない不幸のように見えました。
要するに5「私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばか者でした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついている者は、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。」私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。
五、六日たった後、奥さんは突然私に向かって、Kにあのことを話したかときくのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私をなじるのです。私はこの問いの前に固くなりました。そのとき奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは。」
私はKがそのとき何か言いはしなかったかと奥さんにききました。奥さんは別段なんにも言わないと答えました。しかし私は進んでもっと細かいことを尋ねずにはいられませんでした。奥さんはもとより何も隠すわけがありません。たいした話もないがと言いながら、いちいちKの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんの言うところを総合して考えてみると、6Kはこの最後の打撃を、最も落ち着いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口言っただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んでください。」と述べたとき、彼は初めて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、「おめでとうございます。」と言ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか。」ときいたそうです。それから「何かお祝いをあげたいが、私は金がないからあげることができません。」と言ったそうです。奥さんの前に座っていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。
漢字練習
1 Kに対するタえざる不安
2 シジュウ私をつっつくように
3 気性
4 挙止動作
5 リンリテキに弱点をもっている
6 至難
7 詰問
8 狡猾
9 私はこの間にハサまって
10 障子
二 次の傍線部1〜8の問いに答えよ。
1 どういうものか。
2 辞書で意味を調べよ。
3 辞書で意味を調べよ。
4 辞書で意味を調べよ。
5「私は・・・たのです。」
(1)狡猾 意味を調べよ。
(2)窮境 意味を調べよ。
(3)「正直な道を歩く」とはどんなことか。
(4)「足を滑らす」とは何の比喩か。
(5)「もう一歩前へ踏み出そう」とは具体的にどうすることか。
(6)「前へ出ずにはいられなかった」は「私」のどんな気持ちからか。
6「最後の打撃」に対応するものは何か。また、「最も落ち着いた驚き」とはどんな驚きか、Kの内面に即し
て考えよ。
15 解答
一 1 絶 2 始終 3 きしょう 4 きょしどうさ 5 倫理的 6 しなん
7 きつもん 8 こうかつ 9 挟 10 しょうじ
二 1 私の後ろめたさから。 2 たちいふるまい。動作。 3 策略を弄してKをやりこめ、次にお嬢
さんとの婚約も内密にとりつけてしまったこと。4 厳しく相手を問いただすこと。
5 (1)悪賢くてずるい。(2)非常に苦しい立場。(3) 気持に忠実に行動すること。
(4)Kに隠して求婚したこと。(5)Kに真実をうち明けること。(6)婚約をKに知らせ裏切りを
謝罪したい気持ち。
6 最期の打撃 私とお嬢さんとの婚約。 最も落ち着いた驚き 内心の打撃は大きかったが、落ち着い
て受け止めた態度。
16
勘定してみると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気がつかずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼のほうがはるかに立派に見えました。1「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ。」という感じが私の胸に渦巻いて起こりました。私はそのときさぞKが軽蔑していることだろうと思って、一人で顔を赤らめました。しかし今さらKの前に出て、恥をかかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が2進もうかよそうかと考えて、ともかくも3明くる日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すとぞっとします。いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然4西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かもしれません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと目を覚ましたのです。見ると5、いつも立て切ってあるKと私の部屋との仕切りの襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上にひじをついて起き上がりながら、きっとKの部屋をのぞきました。ランプが暗くともっているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛け布団ははね返されたようにすそのほうに重なり合っているのです。そうしてK自身は向こう向きに突っ伏しているのです。
私はおいと言って声をかけました。しかしなんの答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体はちっとも動きません。私はすぐ起き上がって、敷居際まで行きました。そこから彼の部屋の様子を、暗いランプの光で見回してみました。
そのとき私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされたときのそれとほぼ同じでした。私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。
6もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。そうして私はがたがた震え出したのです。
それでも7私はついに私を忘れることができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目をつけました。それは8予期どおり私の名あてになっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したようなことはなんにも書いてありませんでした。私は私にとってどんなにつらい文句がその中に書き連ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。私はちょっと目を通しただけで、9まず助かったと思いました。(もとより世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりした文句でそのあとにつけ加えてありました。世話ついでに死後の片づけ方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑をかけてすまんからよろしくわびをしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要なことはみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだということに気がつきました。しかし私の最も痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は震える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。10私はわざとそれをみんなの目につくように、元のとおり机の上に置きました。そうして振り返って、襖にほとばしっている血潮を初めて見たのです。
一 漢字練習
1 勘定 2 ケイフクに値すべきだ 3 軽蔑 4 ジソンシン
5 襖 6 覗きました 7 蒲団 8 敷居際 9 世間体
10 わざとカイヒしたのだということに
二 次の傍線部1〜8の問いに答えよ。
1 なぜこう感じたのか。
2 具体的にどういうことか。
3 何を。
4 部屋の配置の上からどういうことがわかるか。
5 作者はこの襖のわずかばかりのすきまにどんな意味を持たせようとしているか。
6 どういう心理状態をいうのかわかり易く説明せよ。
7 この箇所からどういう「私」がわかるか。
8 どういうものか。
9 この箇所からどういう「私」がわかるか。
10 (1)ここには「私」のエゴイズムが端的に表現されているが、このほかにも一文がある。抜き出せ。
(2)「みんなの目につくように」置いた理由を説明せよ。
16 解答
一1 かんじょう 2 敬服 3 けいべつ 4 自尊心 5 ふすま 6のぞ
7 ふとん 8 しきいぎわ 9 せけんてい
二
1 Kの態度が立派だったから。2 私の卑怯さをKに謝罪しようかしまいか。
3 Kとの話し合い。
4 西がKの部屋であること。 5 Kに話そうとして話せないものがあったこと。
6 Kの自殺によって自分の未来に対する位予感を瞬間的に感じた。
7 冷静な私。8 裏切り行為を暴き難詰するような言葉があるのではないか。
9 世間体を気にしている私。
10(1)「私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました。」
(2)Kの自殺の原因を自分に求められることを避けるため。
概要
時 大正3(1914)年 正月 「私」の大学時代
場所 東京(本郷・神田・上野)
登場人物 「私」、K、奥さん、お嬢さん
事件 三角関係の破綻
構成
1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 1 1 2 1 3 1 41 5 1 6 1 |
段 |
保田 宮浦 那古 房州の鼻 小湊 下宿 下宿 自分の部屋 正月 町 夕飯 自分の部屋 図書館 竜岡町 上野公園 本郷台 小石川 上野から帰った晩 朝 一週間後の昼頃 水道橋 猿楽町等 下宿 二三日後 五六日後 二日あまり 土曜の晩 |
時・場所 |
うらやましい → お嬢三への愛 打ち明けよう 一度に化石 苦しさ ↓ 相手の強さに恐怖 打ち明けるべきだった 歩き回る 不可解 → 黙る 「何時?」 手をつけずにおく。 「恋をどうする?」 → 公園へ 尋ねる → 打撃1「精神的に向上心のな い者はばかだ。」 → 意図=恋をあきらめさせよる 打撃2 「やめる覚悟が必要 だ。」 → 覚悟=恋の断念 勝利・得意 覚悟が気になる Kの覚悟=求婚 ↓ 最後の決断 最後の打撃=奥さんに求婚 友情に背く → 謝罪しよう=良心 葛藤 謝罪できない 正直な道=良心 良心の呵責 やり直さない 策略で勝っても人間として負けた 屈辱感 敗北感 |
私(先生)の行動・真理 |
落ち付いている ←気づいていない 高踏的 全て優れている ←「精神的に向上心がない者は ばかだ。」 ←お嬢さんの事を尋ねる ←恋の告白 元来 無口 黙る 「一時二十分。」 答えない。 行く ←意見を求めたい 度胸・勇気 弱い人間 苦しい 第一信条=道のためには全 てを犠牲に 痛い一言=存在を揺るがす 正直 善良 単純 矛盾に平気でいられない 「覚悟ならないこともない。」 尊い過去 強情 我慢強い 迷惑 ←襖を開けて立つ(苦悩) 果断に富んだ性格 書見 ←「病気は?」 沈んでいる 結婚の話を聞く 衝撃と悲しみに耐える 自己抑制 超然 自殺=薄志弱行で死ぬ |
Kの行動・心理 |
主題=人間のエゴイズムの恐ろしさ
人間のエゴイズム
自由な発展=恋愛
他人・自分を傷つける=裏切り・自殺
作品の特色
1 遺書形式
2 二人の性格の対比
3 情景描写=心理描写
4 黒のイメージ Kと「私」の死を暗示
5 襖=壁
6 語の繰り返し