語釈

 城の崎にて                            志賀直哉 

TOPへもどる

現代文へもどる

 

1 1「@山の手線の電車に跳ね飛ばされてけがをした、そのA後養生に、一人でB但馬のC城崎温泉へ出掛けた。背中の傷がD脊椎カリエスになれば2致命傷になりかねないが、3そんなことはあるまいと医者に言われた。二、三年で4出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからと言われて、それで来た。三週間以上――我慢できたら五週間くらいいたいものだと考えて来た。」

 

(注)@山の手線 東京都の区部を走る環状線。当時は、新橋・池袋・上野間と池袋・赤羽間で加賀」開通しており、車両編成も短かかった。A後養生 治療後の洋上。B但馬 兵庫県北部の旧国名。C城崎温泉 兵庫県豊岡市城崎町にある。D脊椎カリエス 脊椎に起きる骨質の崩壊症状。結核に起因するものが多い。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

1 養生    2 但馬   3 城の崎温泉

 

  4 チメイショウになりかねない

 

  5 とにかくヨウジンはカンジンだから

 

二 傍線部1〜4の問いに答えよ。

 

  1 「  」省略されている主語を記せ。

 

  2 致命傷 辞書で意味を調べよ。

 

  3 指示内容を記せ。

 

  4 何がか。

 

 

1 解答

一 1 ようじょう 2 たじま 3 きのさきおんせん 4 致命傷 5 要人 肝心

二 1 主人公(自分)。 2 井日に関わるような深い傷。 3 傷が脊椎カリエスになること。

  4 脊椎カリエス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2 頭はまだ何だかはっきりしない。物忘れが激しくなった。しかし気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持ちがしていた。稲の取り入れの始まるころで、気候もよかったのだ。

 一人きりでだれも話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前のいすに腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らしていた。散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった道にいい所があった。1山のすそを回っているあたりの小さなふちになった所に@やまめがたくさん集まっている。そしてなおよく見ると、足に毛の生えた大きな川がにが2石のようにじっとしているのを見つけることがある。夕方の食事前にはよくこの道を歩いてきた。冷え冷えとした夕方、寂しい秋の山峡を小さい清い流れについていく時考えることは3やはり沈んだことが多かった。4寂しい考えだった。しかし5それには6静かないい気持ちがある。7自分はよくけがのことを考えた。一つ間違えば、今ごろはA青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。祖父や母の死骸がわきにある。それももうお互いに何の交渉もなく、――こんなことが思い浮かぶ。8それは寂しいが、それほどに自分を恐怖させない考えだった。9いつかはそうなる。それがいつか?――今まではそんなことを思って、その「いつか」を知らず知らず遠い先のことにしていた。しかし今は、それが本当にいつか知れないような気がしてきた。自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ、――中学で習ったB『ロード・クライブ』という本に、クライブが10そう思うことによって激励されることが書いてあった。実は自分も11そういうふうに危うかった出来事を感じたかった。12そんな気もした。しかし妙に自分の心は静まってしまった。自分の心には、何かしら死に対する親しみが起こっていた。

 

(注)@やまめ サケ科の魚でサクラマスの陸封型。渓流にすむ。体長約30センチメートル、体側に黒い斑点がうかぶ。 A青山 東京都港区にある青山墓地。B『ロード・クライブ』 イギリスの歴史家・政治家トーマス・マこーれ―の著。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

  1 山だのオウライだのを

 

  2 死骸    3 ゲキレイされること

 

二 傍線部1〜12の問いに答えよ。

 

  1 主語を記せ。

 

  2 修辞法を記せ。

 

  3 品詞は何か。何を受けているか。

 

  4 「寂しさ」の内容は何か。

 

  5 指示内容を記せ。

 

  6 「静かさ」の内容は何か。

 

  7 この自称は「私」とどのように違うか。

 

  8 こう考えるのなぜか。

 

  9 「いつか」のニュアンスの違いを説明せよ。

 

 10 指示内容を記せ。

 

 11 指示内容を記せ。

 

  12 どのようなきがしたのか。

 

2 解答

一 1 往来 2 しがい 3 激励

二 1 小さい流れ。 2 比喩。 3 品詞 副詞 何 周囲の風景の持つムード。

  4 生きているものと対比させて死んでいるものをとらえた。

5 「寂しい考え」6 死んだという状態が持っていいる普遍多岐な永遠性。

7 自分自身を対象化している。 8 けがをして死が急に実感され死に親しみを感じたから。

9 いつか 漠然とした時刻。 「いつか」切実感が強い。

10 「自分は死ぬはずだったのを助かった、何かが自分を殺さなかった、自分にはしなければならぬ仕事があるのだ」 11 「クライブがそう思う」ように。 12 危うかった出来事を感じたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 自分の部屋は二階で、隣のない、わりに静かな座敷だった。読み書きに疲れるとよく縁のいすに出た。わきが玄関の屋根で、1それが家へ接続する所が羽目になっている。その@羽目の中に蜂の巣があるらしい。A虎斑の大きな太った蜂が天気さえよければ、朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根に下りた。そこで羽や触角を前足や後ろ足で丁寧に調えると、少し歩き回るやつもあるが、すぐ細長い羽を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなって飛んでいく。植え込みのやつでの花がちょうど咲きかけで蜂はそれに群がっていた。自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出入りを眺めていた。

 ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。2ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しく3そのわきをはい回るがまったく4拘泥する様子はなかった。忙しく立ち働いている蜂は5いかにも生きているものという感じを与えた。そのわきに一匹、朝も昼も夕も、見るたびに一つ所にまったく動かずにうつ向きに転がっているのを見ると、それがまたいかにも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日ほどそのままになっていた。それは見ていて、いかにも静かな感じを与えた。寂しかった。ほかの蜂がみんな巣へ入ってしまった日暮れ、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。

 夜の間にひどい雨が降った。朝は晴れ、木の葉も地面も屋根もきれいに洗われていた。蜂の死骸はもう6そこになかった。今も巣の蜂どもは元気に働いているが、死んだ蜂は雨どいを伝って地面へ流し出されたことであろう。足は縮めたまま、触角は顔へこびりついたまま、たぶん泥にまみれてどこかでじっとしていることだろう。外界に7それを動かす次の変化が起こるまでは死骸はじっとそこにしているだろう。それとも蟻に引かれていくか。8それにしろ、9それはいかにも静かであった。10せわしくせわしく働いてばかりいた蜂がまったく動くことがなくなったのだから静かである。11自分はその静かさに親しみを感じた。自分は12B『范の犯罪』という短編小説をその少し前に書いた。范というC支那人が過去の出来事だった結婚前の妻と自分の友達だった男との関係に対する嫉妬から、そして自身の生理的圧迫もそれを助長し、その妻を殺すことを書いた。それは范の気持ちを主にして書いたが、しかし今は范の妻の気持ちを主にし、しまいに殺されて墓の下にいる、その静かさを自分は書きたいと思った。

「殺されたる范の妻」を書こうと思った。それはとうとう書かなかったが、自分にはそんな要求が起こっていた。その前からかかっているD長編の主人公の考えとは、それはたいへん違ってしまった気持ちだったので弱った。

 

(注)@羽目 板を平にはって壁としたもの。A虎斑 黄色地に黒の縞のあるまだら模様。B『范の犯罪』 1913年十月に発表された。C支那人 中国人に対して、かつて日本人が用いた呼称。第二次世界大戦まで用いられた。D長編の主人公 のちに『暗夜行路』になる作品の主人公、時任謙作をさす。謙作は出生の秘密や妻の不倫に苦悩しながら自己回復を試みる。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

  1 羽やショッカク(     )を

 

  2 後ろ足でテイネイ(     )にトトノ(   )えると

 

  3 欄干   4 拘泥   5 嫉妬

 

二 傍線部1〜11の問いに答えよ。

 

1 指示内容を記せ。

 

2 修辞法を記せ。

 

3 どこか。

 

4 辞書で意味を調べよ。

 

5 多用されている表現効果を記せ。

 

6 指示内容を記せ。

 

7 はちの死骸を最初に動かした「変化」はなにか。

 

8 指示内容を記せ。

 

9 指示内容を記せ。

 

10 辞書で意味を調べよ。

 

11 どういう静かさか。

 

12 これはこの小説においてどういう効果を生み出しているか。

 

三 この段の小動物を図示せよ。

 

3 解答

一 1 触覚 2 丁寧 調える 3 らんかん 4 こうでい 5 しっと

二 1 植え込みのやつでの花。 2 擬人法。 3 はちの死骸のわき。 

4 ほかに選びようもあるのに、一つのことにこだわること。 

5 死んだはちの不動不変を印象付け、生死の対照を明確にしている。 6 屋根の上。

7 雨。 8 はちの死骸がありに惹かれて行くこと。 9 はちの死骸。 10 せかせかする気持だ。

11 死のもつ絶対的な静かさ。 12 自分の感情が死んだ者の静かさに共鳴していること。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4 蜂の死骸が流され、自分の眼界から消えて間もない時だった。ある午前、自分は円山川、それからそれの流れ出る日本海などの見える東山公園へ行くつもりで宿を出た。A「一の湯」の前から小川は往来の真ん中をゆるやかに流れ、@円山川へ入る。ある所まで来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中のものを見ながら騒いでいた。それは大きなねずみを川へ投げ込んだのを見ているのだ。ねずみは一生懸命に泳いで逃げようとする。ねずみには首のところに七寸ばかりの魚ぐしが刺し通してあった。頭の上に三寸ほど、のどの下に三寸ほどそれが出ている。ねずみは石垣へはい上がろうとする。子供が二、三人、四十くらいの車夫が一人、それへ石を投げる。なかなか当たらない。カチッカチッと石垣に当たって跳ね返った。見物人は大声で笑った。ねずみは石垣の間にようやく前足をかけた。しかし入ろうとすると魚ぐしがすぐにつかえた。そしてまた水へ落ちる。ねずみはどうかして助かろうとしている。1顔の表情は人間にわからなかったが動作の表情に、それが一生懸命であることがよくわかった。ねずみはどこかへ逃げ込むことができれば助かると思っているように、長いくしを刺されたまま、また川の真ん中の方へ泳ぎ出た。子供や車夫はますますおもしろがって石を投げた。2「わきの洗い場の前で餌をあさっていた二、三羽のあひるが石が飛んでくるのでびっくりし、首を伸ばしてきょろきょろとした。スポッ、スポッと石が水へ投げ込まれた。あひるは3頓狂な顔をして首を伸ばしたまま、鳴きながら、せわしく足を動かして上流の方へ泳いでいった。」4自分はねずみの最期を見る気がしなかった。ねずみが殺されまいと、死ぬに決まった運命を担いながら、全力を尽くして逃げ回っている様子が妙に頭についた。自分は5寂しい嫌な気持ちになった。あれが本当なのだと思った。自分が願っている静かさの前に、ああいう苦しみのあることは恐ろしいことだ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいうB動騒は恐ろしいと思った。自殺を知らない動物はいよいよ死に切るまでは6あの努力を続けなければならない。今自分にあのねずみのようなことが起こったら自分はどうするだろう。自分はやはりねずみと同じような努力をしはしまいか。自分は自分のけがの場合、7それに近い自分になったことを思わないではいられなかった。自分はできるだけのことをしようとした。自分は自身で病院を決めた。それへ行く方法を指定した。もし医者が留守で、行ってすぐに手術の用意ができないと困ると思って電話を先にかけてもらうことなどを頼んだ。半分意識を失った状態で、いちばん大切なことだけによく頭の働いたことは自分でも後から不思議に思ったくらいである。しかもこの傷が致命的なものかどうかは自分の問題だった。しかし、致命的のものかどうかを問題としながら、ほとんど死の恐怖に襲われなかったのも自分では不思議であった。「Cフェータルなものか、どうか? 医者は何といっていた?」こうそばにいた友に聞いた。「フェータルな傷じゃないそうだ。」こう言われた。こう言われると自分はしかし急に元気づいた。8興奮から自分は非常に快活になった。フェータルなものだともし聞いたら自分はどうだったろう。その自分はちょっと想像できない。自分は弱ったろう。しかしふだん考えているほど、死の恐怖に自分は襲われなかったろうという気がする。そして9そう言われてもなお、自分は助かろうと思い、何かしら努力をしたろうという気がする。それはねずみの場合と、そう変わらないものだったに相違ない。で、またそれが今来たらどうかと思ってみて、なおかつ、10あまり変わらない自分であろうと思うと11「あるがまま」で、気分で願うところが、そう実際にすぐは影響はしないものに相違ない、しかも12両方が本当で、影響した場合は、それでよく、しない場合でも、それでいいのだと思った。13それはしかたのないことだ。

 

(注)@円山川 兵庫県と鳥取県の境にある氷ノ山に発し、豊岡盆地を通って日本海に注ぐかわ。A「一の湯」 城崎温泉に何箇所かある外湯の一つ。B動騒Cフェータル

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

1 頓狂  2 イッショウケンメイ

 

  3 サビしい  4 死のキョウフ  5 エイキョウした

 

二 傍線部1〜の問いに答えよ。

 

1(1)「表情」という語は普通からだのどの部分の場合に用いられるか。

 

 (2)「動作の表情」という表現はねずみのどのような姿をとれているか。

2 ここに描かれた「あひる」の描写はこの場面においてどのような効果をあげているか。

 

3 辞書で意味を調べよ。

 

4 なぜか。

 

5 わかりやすく説明せよ。

 

6 説明している部分を抜き出せ。

 

7 どのような自分か。

 

8 何から起こったか。

 

9 どのように言われた場合のことか。

 

10 具体的にどういう自分か。

 

11 「 」がつけてある理由を述べ、この部分の意味を述べよ。

 

12 指示内容を記せ。

 

 13 指示内容を記せ。

 

三 この段の小動物を図示せよ。

 

 

 

 

 

 

4 解答

一 1 とんきょう 2 一生懸命 3 寂 4 恐怖 5 影響

二 1 (1)顔。(2)必死な動作をねずみの懸命な願望の表れととらえた。

  2 あひる=のんびり ねずみ=悲惨な運命。 3 だしぬけで調子はずれなこと。

4 死んでゆくねずみの苦しみに恐怖を感じたから。

  5 死ぬまでの騒ぎが寂しくいや。 6 全力で逃げ回っている様子。 7 ねずみのような自分。

  8 死の恐怖から逃れた安堵感。 9 自分の傷がフエータルなものだと言われた場合。

  10 助かろうと努力する自分。 

11 静かに死のうともがき苦しんで死のうとどうでもいい。

12 「気分で願うところ」「実際」。 

13 死を受けいれる事と生きようとあがくこととどちらにも決められない。

 

 

 

 

 

  

 

5 そんなことがあって、またしばらくして、ある夕方、町から小川に沿うて一人だんだん上へ歩いていった。山陰線のトンネルの前で線路を越すと道幅が狭くなって道も急になる、流れも同様に急になって、人家もまったく見えなくなった。もう帰ろうと思いながら、あの見える所までというふうに角を一つ一つ先へ先へと歩いていった。ものがすべて青白く、空気の肌ざわりも冷え冷えとして、もの静かさがかえって何となく自分をそわそわとさせた。1「大きな桑の木が道端にある。向こうの、道へ差し出した桑の枝で、ある一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ、同じリズムで動いている。風もなく流れのほかはすべて静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラヒラヒラヒラとせわしく動くのが見えた。自分は不思議に思った。2多少怖い気もした。しかし好奇心もあった。自分は下へいって3それをしばらく見上げていた。すると風が吹いてきた。そうしたらその動く葉は動かなくなった」。原因は知れた。何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

1 セイジャクの中に 2 フシギ 

 

二 傍線部1〜3の問いに答えよ。

 

1 この部分は小説全体の中でどのような役割を果たしているか。

 

2 なぜそう感じたか。

 

3 指示内容を記せ。

 

 

5 解答

一 1 静寂 2 不思議

二 1 死の予感を感じさせながらイモリの死の場面につないでいく。

  2 風が吹いてもいないのにある一つの葉が動いていたから。

  3 ヒラヒラ動く一つの葉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6 だんだんと薄暗くなってきた。いつまで行っても、先の角はあった。もうここらで引きかえそうと思った。自分は何気なくわきの流れを見た。向こう側の斜めに水から出ている半畳敷きほどの石に黒い小さいものがいた。@いもりだ。まだぬれていて、それはいい色をしていた。頭を下に傾斜から流れへ臨んで、じっとしていた。体から滴れた水が黒く乾いた石へ一寸ほど流れている。自分は1それを何気なく、しゃがんで見ていた。自分は先ほどいもりは嫌いでなくなった。とかげは多少好きだ。Aやもりは虫の中でも最も嫌いだ。いもりは好きでも嫌いでもない。十年ほど前によくB蘆の湖でいもりが宿屋の流し水の出る所に集まっているのを見て、自分がいもりだったらたまらないという気をよく起こした。いもりにもし生まれ変わったら自分はどうするだろう、そんなことを考えた。そのころいもりを見るとそれが思い浮かぶので、いもりを見ることを嫌った。しかしもうそんなことを考えなくなっていた。自分はいもりを驚かして水へ入れようと思った。不器用に体を振りながら歩く形が思われた。自分はしゃがんだまま、わきの小まりほどの石を取り上げ、それを投げてやった。自分は別にいもりをねらわなかった。ねらってもとても当たらないほど、ねらって投げることの下手な自分はそれが当たることなどはまったく考えなかった。石はこツといってから流れに落ちた。石の音と同時にいもりは四寸ほど横へ跳んだように見えた。いもりはしっぽを反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当たったとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。するとひじを張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾はまったく石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。自分は2とんだことをしたと思った。虫を殺すことをよくする自分であるが、その気がまったくないのに殺してしまったのは自分に妙な嫌な気をさした。もとより自分のしたことではあったがいかにも偶然だった。いもりにとってはまったく不意な死であった。自分はしばらくそこにしゃがんでいた。いもりと自分だけになったような心持ちがしていもりの身に自分がなってその心持ちを感じた。かわいそうに思うと同時に、3生き物の寂しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。4いもりは偶然に死んだ。自分は寂しい気持ちになって、ようやく足元の見える道を温泉宿の方に帰ってきた。遠く町外れの灯が見え出した。死んだ蜂はどうなったか。その後の雨でもう土の下に入ってしまったろう。あのねずみはどうしたろう。海へ流されて、今ごろはその水ぶくれのした体をごみと一緒に海岸へでも打ち上げられていることだろう。そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分は5それに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし6実際喜びの感じはわき上がってはこなかった。7生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。もうかなり暗かった。視覚は遠い灯を感ずるだけだった。足の踏む感覚も視覚を離れて、いかにも不確かだった。ただ頭だけが勝手に働く。8それがいっ9そうそういう気分に自分を誘っていった。

 

(注)@いもり イモリ科の両生類。背面は黒く腹は赤い。Aやもり ヤモリ科のは虫類。夜間家の壁などにはりついて活動する。B蘆の湖 神奈川県、箱根山にある湖。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

1 半畳敷き 2 流れへノゾんで 3 蘆ノ湖 4 ブキヨウ 5 シタタレた

 

6 しっぽをソらし 7 ミョウな嫌な気 8 フイな死 

 

9 グウゼンに死んだ 10 リョウキョクではなかった

 

二 傍線部1〜9の問いに答えよ。

 

1 指示内容を記せ。

 

2 どのようなことか。

 

3 指示内容を記せ。

 

4 これを別の言い方で要約している箇所がある。五字以内で抜き出せ。

 

5 指示内容を記せ。

 

6 なぜか。

 

7 どういうことか説明せよ。

 

8 指示内容を記せ。

 

9 指示内容を記せ。

 

 

三 この段の小動物を図示せよ。

 

 

6 解答

一 1 はんじょうじ 2 臨 3 あしのこ 4 不器用 5 滴 6 反 7 妙

  8 不意 9 偶然 10 両極端

二 1 イモリに生まれ変わったらどうするだろうと言うこと。2 イモリを殺してしまったこと。

  3 生き物は偶然によって命を左右される。 4 「不意な死」 5 自分が死ななかったこと。

  6 偶然に左右される生き物の寂しさの方が「自分」をより強くとらえているから。

  7 生死の境界は不確定なもおだという思いになること。

  8 「頭だけが勝手にはたらく」

 9 「生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないよ

うな」。

 

 

 

7 1三週間いて、自分はここを去った。2それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。

 

一 次のカタカナは漢字になおし、漢字の読みを記せ。

 

1 脊椎

 

二 傍線部1〜2の問いに答えよ。

 

1 冒頭のどの部分と対応するか。

 

2 冒頭のどの部分と対応するか。

 

 

7 解答

一 せきつい

二 1 「三週間以上――我慢できたら五週間くらいいたいものだと考えて来た。」

  2 城の崎温泉でけがの治療を三週間してkら。

 

 

概要 時    大正二年(1913)

   場所   城崎温泉

   登場人物 自分 はち ねずみ いもり

   事件   小動物の死

 

 

三 構成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

城崎温泉

 

静かな風景

 

部屋 屋根 はち

 

ある午前

円山川

 

 

 

ある夕方

トンネルの前

 

薄暗い流れの中

帰って来る

 

三週間後

三年後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時・場所

 

電車にはねられ養生

 

ぼんやり 物忘れ

創作 読書 散歩

 

 

はちの死骸

 

 

散歩 

首に魚串をさされたねずみ 必死に助かろうとする

 

散歩

異常にもの静か

くわの葉がひらひら

 

いもり

石を投げると命中して死ぬ

 

 

去る

脊椎カリエスにならなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事 件

 

 

 

死ぬはずだったのに助かった

「死に対する親しみ」

 

 

「静かな感じ」「静かさに親しみ」 死の静けさ

 

「寂しい嫌な気持ち」

「ああいう動騒は恐ろしい」

「ねずみのような努力をした」

   死の恐怖

 

「そわそわ」

「怖い気」

「好奇心」

 

死「偶然」「不意」

「可愛そう」「生き物の寂しさ」

   死の偶然性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     感 想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主題 小動物の死を通した死生観