*小説の扱いにおいては、全体通読の後左記の表を記入させる。語釈、構成、主題
の前に概要を付け加える。
題名( ) ( )組( )番氏名( )
感想 |
概要 |
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事件 |
登場人物 |
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舞姫 森 鴎外
語釈
一
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、@熾熱灯の光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。1五年前のことなりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をかうむり、このAセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文2日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりて思へば、幼き思想、身のほど知らぬ3放言、4さらぬも世の常の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげに記ししを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは5途に上りしとき、日記ものせむとて買ひし冊子もまだ白紙のままなるは、ドイツにて物学びせし間に、一種のBニル・アドミラリイの気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには6別に故あり。
げに東に帰る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなほ心に飽き足らぬところも多かれ、浮き世の7憂きふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは8言ふもさらなり、我と我が心さへ変はりやすきをも悟り得たり。9昨日の是は今日の非なる我が瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。
10ああ、Cブリンヂイシイの港を出でてより、はや二十日あまりを経ぬ。世の常ならばD生面の客にさへ交はりを結びて、旅の憂さを慰め合ふが航海の習ひなるに、E微恙にことよせて房の内にのみこもりて、同行の人々にも物言ふことの少なきは、人知らぬ恨みに頭のみ悩ましたればなり。この恨みは初め11一抹の雲のごとく我が心をかすめて、スイスの山色をも見せず、イタリアの古跡にも心をとどめさせず、中ごろは世を厭ひ、身をはかなみて、F腸日ごとに九廻すとも言ふべき惨痛を我に負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響きのごとく、限りなき12懐旧の情を呼び起こして、幾たびとなく我が心を苦しむ。ああ、いかにしてかこの恨みをG銷せむ。もしほかの恨みなりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ。これのみはあまりに深く我が心に彫りつけられたれば13さはあらじと思へど、今宵はあたりに人もなし、H房奴の来て電気線の鍵をひねるにはなほほどもあるべければ、いで、その概略を文につづりてみむ。
(注)@熾熱灯 エジソン発明の白熱電灯。Aセイゴン サイゴン。現在のベトナム社会主義共和国のホー・チミン市。Bニル・アドミラリイ 無感動。Cブリンヂイシイ ブリンジジ。アドリア海に臨むイタリアの港町。D生面 初対面。E微恙 ちょっとした病気。F腸日ごとに九廻す 悩みもだえることの例え。G銷せむ
H房奴 ボーイ。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 熾熱灯 2 今宵 3 アき足らぬ 4 ウき節 5 瞬間のカンショク 6 ウラみ
7 イチマツの雲 8 コり固まり 9 カイキュウの情け 10 そのガイリャクを
二 傍線部1〜13の問に答えよ。
1 小説が主人公の回想形式で語られることに注意。
2 口語訳せよ。
3 辞書で意味を調べよ。
4 口語訳せよ。
5 どういう時か。
6 別の「故あり」(1)別の「故」とは何をさしているか。(2)繰り返し言っている個所を抜き出せ。
7 辞書で意味を調べよ。
8 口語訳せよ。
9 どういうことか。
10 以下、「ああ」という感動詞に注意。
11 これに応ずる語句を抜き出せ。
12 辞書で意味を調べよ。
13 (1)「さ」の指示内容を記せ。 (2)どこにかかるか。
一 解答
一 1 しねつとう 2 こよい 3 飽 4 憂 5 感触 6 恨 7 一抹
8 凝 9 懐旧 10 概略
二
1 現在の時間から過去の出来事を回想する。
2 毎日どれほどたくさん書いただろうか。
3 思うままに言い放つこと。4 そうでなくても。5 帰国の途に就いた時。
6 (1)内面の重苦しさ。(2)「これには別に故あり」 7 辛いことかなしいこと。
8 言うまでもない。 9 昨日よしとしたことを今日はもう悪いとするようなその時々で変わりやすい自分
感じ方考え方。 10 あきらめきれない執着を表す。 11 「一点の翳」
12 昔のことを懐かしく思い出すこと。
13(1)「詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ。」
(2)「いで、その概略を文につづりてみむ。」
二1
余は幼きころより厳しき@庭の訓へを受けし1甲斐に、父をば早く失ひつれど、学問の荒み衰ふることなく、旧藩の学館に在りし日も、東京に出でてA予備黌に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりそのころまでにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三年ばかり、B官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我が名を成さむも、我が家を興さむも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて、五十を越えし母に別るるをもさまで悲しとは思はず、はるばると家を離れてベルリンの都に来ぬ。
余は2模糊たる3功名の念と、C検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこのヨオロツパの新大都の中央に立てり。なんらの光彩ぞ、我が目を射むとするは。なんらの色沢ぞ、我が心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、4幽静なる境なるべく思はるれど、このD大道髪のごときEウンテル・デン・リンデンに来て両辺なる石だたみの人道を行くF隊々の士女を見よ。胸張り肩そびえたる士官の、まだGウイルヘルム一世の街に臨める窓に倚りたまふころなりければ、様々の色に飾りなしたる礼装をなしたる、顔よき少女のパリまねびの粧ひしたる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲にそびゆる楼閣の少しとぎれたる所には、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井の水、遠く望めばHブランデンブルク門を隔てて緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮かび出でたる凱旋塔の神女の像、このあまたの景物I目睫の間に集まりたれば、初めてここに来しものの応接にいとまなきもうべなり。されど我が胸にはたとひいかなる境に遊びても、5あだなる美観に心をば動かさじの誓ひありて、つねに我を襲ふ外物を遮りとどめたりき。
余がJ鈴索を引き鳴らしてK謁を通じ、公の紹介状を出だして6東来の意を告げしLプロシアの官員は、みな快く余を迎へ、公使館よりの手つづきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、我がふるさとにて、ドイツ、フランスの語を学びしことなり。彼らは初めて余を見しとき、7いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
さて官事のいとまあるごとに、かねて公の許しをば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名をM簿冊に記させつ。
ひと月ふた月と過ぐすほどに、公の打ち合はせも済みて、取り調べもしだいにはかどりゆけば、急ぐことをば報告書に作りて送り、8さらぬをば写しとどめて、つひには幾巻をかなしけむ。大学のかたにては、幼き心に思ひ計りしがごとく、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、これかかれかと心迷ひながらも、二、三の法家のN講筵に連なることに思ひ定めて、謝金を納め、行きて聴きつ。E ウンテル・デン・リンデンF隊隊の子女
(注)@庭の訓へ 家庭の教育。A予備黌 東京大学の予備門。旧制第一高等学校の前身。B官長 役所の長官。C検束 ここでは自己抑制のこと。D大髪のごとき 真っすぐな道の形容。E ウンテル・デン・リンデン ベルリンの中心街を貫く大通り。F隊隊の子女 連れだって歩く男女。Gウイルヘルム一世 1797〜1888年。プロシア王のとき、フランスに戦勝し、ドイツ皇帝となった。「街に臨める窓」は応急の窓を挿す。Hブランデンブルク門 ウンテル・デン・リンデンの西端にある門。その西北に戦勝記念の凱旋門がある。I目睫の間 きわめてまじかなこと。J鈴索 予備利の紐。K謁を通じ 面会の取り次ぎを依頼し。Lプロシア ドイツ北東部にあった王国。ドイツ統一(1871年)の中心をなした最大強国だったので、日本ではそののちもドイツ全土をこの名で呼ぶことがあった。M簿冊 ここでゃ聴講者名簿。N講筵 講義の席。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 甲斐 2 なんらのコウサイ 3 菩提樹 4 ユウセイなる境 5 飾りなしたるレイソウ
6 楼閣 7 凱旋 8 我をオソう 9 ショウカイジョウ 10 政治学をオサめんと
二 傍線部1〜8の問に答えよ。
1 辞書で意味を調べよ。
2 辞書で意味を調べよ。
3 具体的内容を抜き出せ。
4 辞書で意味を調べよ。
5 (1)あだなる 辞書で意味を調べよ。(2)なぜこの美観を「あだなる」というのか。
6 具体的に説明せよ。
7 どういうことを言っているか。
8 口語訳セよ。
二1 解答
一 1 かい 2 光彩 3 ぼだいじゅ 4 幽静 5 礼装 6 ろうかく 7 がいせん
8 襲 9 紹介状 10 修
二
1 したことの結果としてのききめ。 2 はっきりしないこと。
3「 我が名を成さむも、我が家を興さむも」 4 奥深く物静かなこと。
5 (1)まことのない。いいかげんな。(2)大都会の美観はっ豊太郎の生き方を踏み外させる危険なも
のだから。
6 東方の日本からやってきた目的など。7 ドイツ語が堪能であること。
8 そうでない。
二2
かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の@好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるがうれしさに怠らず学びしときより、官長のよき働き手を得たりと励ますが喜ばしさにたゆみなく勤めしときまで、ただ1A所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、すでに久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりし2まことの我は、やうやう表に現れて、3昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我が身の今の世に4雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、またよく法典をそらんじてB獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。余はひそかに思ふやう、我が母は余を5生きたる辞書となさむとし、我が官長は余を6生きたる法律となさむとやしけむ。辞書たらむはなほ堪ふべけれど、法律たらむは忍ぶべからず。今までは7瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらむには、8紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やうやくC蔗を嚼む境に入りぬ。
官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らむとしたりけめ。独立の思想を抱きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危ふきは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我が地位を覆すに足らざりけむを、日ごろベルリンの留学生のうちにて、ある勢力ある一群れと余との間に、おもしろからぬ関係ありて、かの人々は余を9猜疑し、またつひに余をD讒誣するに至りぬ。されどこれとても10その故なくてやは。
かの人々は余がともに麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる心と欲を制する力とに帰して、かつは嘲りかつは嫉みたりけむ。されどこは余を知らねばなり。ああ、この11故よしは、我が身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。我が心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けむとす。我が心は処女に似たり。余が幼きころよりE長者の教へを守りて、学びの道をたどりしも、仕への道をあゆみしも、みな12勇気ありてよくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一筋にたどりしのみ。よそに心の乱れざりしは、外物を捨てて顧みぬほどの12勇気ありしにあらず、ただ外物に恐れて自ら我が手足を縛せしのみ。故郷を立ち出づる前にも、我が13有為の人物なることを疑はず、また我が心のよく耐へむことをも深く信じたりき。14ああ、彼も一時。舟の横浜を離るるまでは、あつぱれ豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾をぬらしつるを我ながら怪しと思ひしが、これぞなかなかに15我が本性なりける。16この心は生まれながらにやありけむ、また早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけむ。
かの人々の嘲るは17さることなり。されど嫉むはおろかならずや。18この弱くふびんなる心を。
赤く白く面を塗りて、F赫然たる色の衣をまとひ、珈琲店に座して客を引く女を見ては、行きてこれに就かむ12勇気なく、高き帽をいただき、眼鏡に鼻を挟ませて、プロシアにては貴族めきたる鼻音にて物言ふGレエベマンを見ては、行きてこれと遊ばむ12勇気なし。これらの12勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらむやうもなし。この交際の疎きがために、かの人々はただ余を嘲り、余を嫉むのみならで、また余を猜疑することとなりぬ。これぞ余がH冤罪を身に負ひて、19暫時の間に無量の艱難をI閲しつくすなかだちなりける。
(注)@好尚 好み。A所動的 受動的。B獄を断ずる 判決を下す。C蔗を嚼む境 物事のよさやおもしろみがわかる境地。D讒誣 事実を偽って他人を悪き言うこと。E長者 年長者。F赫然 ここでは、けばけばしく刺激的なさま。Gレエベマン 上流階級の遊び人。H冤罪 無実の罪。I閲し ここでは経験するの意。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 父のユイゴン 2 ホむる 3 世にユウヒする 4 讒誣 5 手巾 6 我がウイの人物
7 余をサイギする 8 冤罪 9 暫時 10 艱難
二 傍線部1〜の問に答えよ。
1 どんな人物か。
2 どんな「我」か。
3 どういうものか。
4 辞書で意味を調べよ。
5 どういう意味か。他にどういう言い方があるか。
6 どういう意味か。
7 どういう意味か。
8 口語訳せよ。
9 辞書で意味を調べよ。
10 どこに説明されているか。
11 辞書で意味を調べよ。
12(1)内容はどういうものか。(2)『羅生門』の下人の勇気はどういうものだったか。
13 辞書で意味を調べよ。
14 「かれ」の指示内容。
15 どういうものか。
16 具体的にどう言う心か。
17 口語訳せよ。
18 どういう心か。
19 辞書で意味を調べよ。
二2 解答
一
1 遺言 2 褒 3 雄飛 4 ざんぶ 5 しゅきん 6 有為 7 猜疑 8 えんざい
9 ざんじ 10 艱難
二
1 受動的で自己主張をすることのない人物。 2 主体性を持った自我。
3 期待されたものに合わせて生きてきた「私」。 4 勢いよく活動すること。
5 知識だけを詰め込んだ人間。「生き字引」。6 法律にだけ詳しい人間。7 細かいさま。
8 ごたごたしてわずらわしいいことは、刃物で竹を割るように簡単明快に解決するだろう。
9 そねみ疑う。 10 「かの人々は余を猜疑し、またつひに余を讒誣するに至りぬ。」
11 理由。12 (1)自ら決断すること。(2)盗人になるかどうか。
13 ○ユウイ 才能のあること。ウイ 様々の因縁によって生じた現象。
14 「我が有為の人物なることを疑はず、また我が心のよく耐へむことをも深く信じたりき。」
15 自分で決断できない性格。 16 船が横浜を出た時、涙があふれた弱い心。
17 1 そのようなこと ○2 もっともなこと。 3 言うまでもないこと。
18 涙もろい心。 19 しばらくの間。
三1 ある日の夕暮れなりしが、余は@獣苑を漫歩して、ウンテル・デン・リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街のA僑居に帰らむと、Bクロステル巷の古寺の前に来ぬ。余はかの1灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、頬髭長きCユダヤ教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯はただちに楼に達し、他の梯は穴蔵住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引き込みて建てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の2恍惚となりてしばしたたずみしこと幾度なるを知らず。
3今この所を過ぎむとするとき、閉ざしたる寺門の扉に倚りて、声をのみつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六、七なるべし。かむりし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我が足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に覆はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我が心の底までは徹したるか。
4彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は5憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに6係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあらむ。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれたり。
彼は驚きて我が黄なる面をうち守りしが、我が7真率なる心や色に現れたりけむ。「君は善き人なりと見ゆ。8彼のごとくむごくはあらじ。また我が母のごとく。」しばし涸れたる涙の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。
「我を救ひたまへ、君。9我が恥なき人とならむを。母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」
あとはD欷歔の声のみ。我が眼はこのうつむきたる少女の震ふ10項にのみ注がれたり。
「君が家に送り行かむに、まづ心を鎮めたまへ。11声をな人に聞かせたまひそ。ここは往来なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我が肩に倚りしが、このときふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。
人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の跡につきて、寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上りて、四階目に腰を折りてくぐるべきほどの戸あり。少女はさびたる針金の先をねぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中にはしはがれたる老媼の声して、「誰ぞ。」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあららかに引き開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面の老媼にて、古きE獣綿の衣を着、汚れたる上靴を履きたり。エリスの余に会釈して入るを、彼は待ちかねしごとく、戸を激しくたて切りつ。
余はしばし茫然として立ちたりしが、ふと油灯の光に透かして戸を見れば、エルンスト・ワイゲルトと漆もて書き、下に12仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞こえしが、また静かになりて戸は再び開きぬ。先の老媼は13慇懃におのが無礼の振る舞ひせしをわびて、余を迎へ入れつ。戸の内は厨にて、右手の低き窓に、真白に洗ひたる麻布を掛けたり。左手には粗末に積み上げたる煉瓦のかまどあり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を覆へる臥床あり。伏したるはなき人なるべし。かまどのそばなる戸を開きて余を導きつ。この所はいはゆるFマンサルドの街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向かひて斜めに下がれる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭のつかふべき所に臥床あり。中央なる机には美しきG氈を掛けて、上には書物一、二巻と写真帳とを並べ、陶瓶にはここに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍らに少女は羞を帯びて立てり。
彼は優れて美なり。乳のごとき色の顔は灯火に映じて微紅を潮したり。手足のか細くたをやかなるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でし後にて、少女は少しなまりたる言葉にて言ふ。「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎みたまはじ。明日に迫るは父の葬り、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさむ。彼はHヴイクトリア座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けむと思ひしに、人の憂ひにつけ込みて、14身勝手なる言ひ掛けせむとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金をさきて返しまゐらせむ。よしや我が身は食らはずとも。15それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ16媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。
我が隠しには二、三Iマルクの銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急をしのぎたまへ。質屋の使ひのモンビシユウ街三番地にて太田と訪ね来む折には価を取らすべきに。」
少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出だしたる手を唇に当てたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背に注ぎつ。
(注)@獣苑 ブランデンブルグ門に隣接する大公園。A僑居 仮住まい。ここでは下宿。 Bクロステル巷界隈。古い寺院が多い。Cユダヤ教徒 エホバの神を信じる一神教の教徒。当時ヨーロッパでは、迫害の対象となっていた。D欷歔 すすり泣き。E獣綿 厚地の毛織物。羅紗。Fマンサルド 屋根裏部屋。Hヴイクトリア座 主にレビューや軽演劇を上演した劇場。Iマルク ドイツの貨幣単位。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 僑居 2 襦袢 3 頬 4 鍛冶 5 三百年前のイセキ 6 恍惚 7 睫毛
8 前後をカエリみる 9 臆病 10 憐憫 11 酷く 12 少女の震ふウナジ
13 靴を履く 14 茫然 15 慇懃 16 詫びて 17 竈 18 梁
19 訛り 20 媚態
二 傍線部1〜16の問に答えよ。
1 「灯火の海」から「狭き薄暗き巷」へと豊太郎が歩いたコースを地図で確認せよ。
2 辞書で意味を調べよ。
3 ここで「今」と記す書き手の意識に注意せよ。
4 指示内容を記せ。
5 辞書で意味を調べよ。
6 辞書で意味を調べよ。
7 辞書で意味を調べよ。
8 「彼」がどのような人物か、,まだ明らかでない事に注意する。
9 具体的にどういうことを意味しているか。
10 辞書で意味を調べよ。
11 口語訳せよ。
12 辞書で意味を調べよ。
13 辞書で意味を調べよ。
14 この内容は何か。この時エリスはどのような状況におかれているか。
15 どういうことか。
16 辞書で意味を調べよ。
三1 解答
一 1 きょうきょ。 2 じゅばん。 3 ほほ。 4かじ。 5 遺跡。 6 こうこつ。7 まつげ。
8 顧。 9 おくびょう。 10 れんびん。 11 むご。 12 項。 13 は。 14 ぼうぜん。15 いんぎん。 16 わ。 17 かまど。 18 はり。 19 なま 20 びたい。
二 1(略)
2 物事に心を奪われてうっとりすること。
3 過去の出来事としてでなく、眼前にエリスの姿を思い出そうとする。
4 エリス。5 憐みの気持ち。6 (親・妻子など)面倒を見なければならない家族たち。
7 正直で飾り気がないこと。
8 「彼」=シャウムベルヒ。追い詰められているので知らない人にも口走る。
9 座頭の情婦になること。10 首の後ろの部分。11 声を人に聞かせなさるな。
12 裁縫。13 へり下ってていねいなこと。
14 シャウムベルヒ。は金銭の援助をする代わりに情婦になることを強要している。母もそう迫る。エリス
は承諾しなくてはならない瀬戸際にいる。
15 金を貸してくれ。貸してくれなければ情婦になるしかない。
16 こびる様子。
三2
1ああ、なんらの悪因ぞ。この恩を謝せむとて、自ら我が僑居に来し少女は、@シヨオペンハウエルを右にし、Aシルレルを左にして、終日B兀坐する我が読書の窓下に、2一輪の名花を咲かせてけり。このときを初めとして、余と少女との交はりやうやくしげくなりもてゆきて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らはC速了にも、余をもて色を3舞姫の群れに漁するものとしたり。我ら二人の間にはまだD痴駭なる歓楽のみ存じたりしを。
その名を指さむは憚りあれど、同郷人の中にE事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の4岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふるとき余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、5路用を給すべけれど、もしなほここに在らむには、6公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我が生涯にてもつとも悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時に出だししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は7母の書中の言をここに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運びを妨ぐればなり。
余とエリスとの交際は、このときまではよそ目に見るより清白なりき。彼は父の貧しきがために、充分なる教育を受けず、十五のとき舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業を教へられ、Fクルズス果てて後、ヴイクトリア座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人Gハツクレンデルが当世の奴隷と言ひしごとく、はかなきは8舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふものはその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、卑しき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼は幼きときより物読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しきHコルポルタアジユと唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相知るころより、余が貸しつる書を読みならひて、やうやく趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄する文にも誤字少なくなりぬ。かかれば余ら二人の間にはまづ9師弟の交はりを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事にかかはりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かひて母にはこれを秘めたまへと言ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜむを恐れてなり。
ああ、詳しくここに写さむも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに強くなりて、つひに離れ難き仲となりしは10この折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに11危急存亡の秋なるに、この行ひありしをあやしみ、またそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、初めて相見しときよりあさくはあらぬに、今我が数奇を哀れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせむ。
12公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ。このままにて郷に帰らば、学成らずして13汚名を負ひたる身の浮かぶ瀬あらじ。さればとてとどまらむには、学資を得べき手だてなし。
(注)@シヨオペンハウエル 1788~1860年。ドイツの哲学者。「意思と表象としての世界」など。Aシルレル 1759~1805年。シラー。ドイツの詩人、劇作家。戯曲「ドン=カルロス」「ウィルヘルム=テル」など。B兀坐 じっと座っていること。C速了 早合点。D痴駭なる 幼稚でたわいないさま。E事を好む 事件を待ち構えて、荒立てたがる。Fクルズス 講習。Gハツクレンデル 1816~1877年。ドイツの作家。著書に「ヨーロッパの奴隷的生活」など。Hコルポルタアジユ 書籍類の行商。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 カンラクのみ存したりし 2 ムネを公使館に伝えて 3 一週間のユウヨ
4 ここにハンプクする 5 奴隷 6 そのシンクいかにぞや 7 訛り
8 免官 9 危急存亡 10 誹る
二 傍線部1〜13の問に答えよ。
1 (1)悪因 辞書で意味を調べよ。
(2)「悪因」と言う言葉に注意する。
2 この比喩を説明せよ。
3 「舞姫」と言う言葉が初めて登場することに注意する。
4 辞書で意味を調べよ。
5 辞書で意味を調べよ。
6 具体的に何のことか。
7 どのようなものであったと推測されるか。
8 当時の「舞姫」の社会的地位の低さに注意する。
9 具体的内容を抜き出せ。
10 どういう時か。
11 口語訳せよ。
12 どのような日だったのか。
13 辞書で意味を調べよ。
三2 解答
一 1 歓楽 2 旨 3 猶予 4 反復 5 どれい 6 辛苦
7 なま 8 めんかん 9 ききゅうそんぼう 10 そし
二 1 (1)悪い結果をもたらす原因。(2)エリスとの交際の始まりが全ての悪因。
2 美人のエリスが豊太郎の部屋に来たこと。3 踊り子=普通 舞姫=仰々しい
4 分かれ道。 5 旅費。6 政府からの経済的援助。7 愛と祝福(𠮟責ではない)。
8 身分は低い。
9 「余が貸しつる書を読みならひて、やうやく趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく
余に寄する文にも誤字少なくなりぬ。」 10 免官の時。
11 危機が迫って現在のまま生き残れるか滅びるカの瀬戸際。
12 帰国するかとどまるかを決める最終日。13 わるい評判。
三3
このとき余を助けしは1今我が同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、すでに@天方伯の秘書官たりしが、余が免官のA官報に出でしを見て、某新聞紙の編集長に説きて、余を社の通信員となし、ベルリンにとどまりて政治学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。
社の2報酬は言ふに足らぬほどなれど、すみかをもうつし、午餐に行く食店をもかへたらむには、かすかなる暮らしは立つべし。とかう思案するほどに、心の誠を顕して、助けの綱を我に投げ掛けしはエリスなりき。彼はいかに母を説き動かしけむ、余は彼ら親子の家に3寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合はせて、憂きが中にも楽しき月日を送りぬ。
朝の珈琲果つれば、彼は温習に行き、さらぬ日には家にとどまりて、余はBキヨオニヒ街の間口狭く奥行きのみいと長きC休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。この切り開きたる引き窓より光を取れる室にて、定まりたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に貸して己は遊び暮らす老人、取引所の業の暇を盗みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷ややかなる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小女が持てくる一盞の珈琲の冷むるをも顧みず、空きたる新聞の細長き板ぎれに挟みたるを、幾種となく掛け連ねたるかたへの壁に、幾度となく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けむ。また一時近くなるほどに、温習に行きたる日には帰り路によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず軽き、D掌上の舞をもなし得つべき少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし。
我が4学問は荒みぬ。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子に寄りて縫ひ物などするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔の法令条目の枯れ葉を紙上にかき寄せしとは殊にて、今は活発々たる政界の運動、文学美術にかかはる新現象の批評など、かれこれと結び合はせて、力の及ばむ限り、EビヨルネよりはむしろFハイネを学びて思ひを構へ、様々の文を作りし中にも、引き続きてウイルヘルム一世とGフレデリツク三世とのH崩殂ありて、新帝の即位、Iビスマルク侯の進退いかんなどのことにつきては、ことさらにつまびらかなる報告をなしき。さればこのころよりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業を尋ぬることも難く、大学の籍はまだ削られねど、謝金を納むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに行きて聴くことはまれなりき。
5我が学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにと言ふに、およそJ民間学の6流布したることは、欧州諸国の間にてドイツにしくはなからむ。幾百種の新聞雑誌に散見する議論にはすこぶる7高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学にしげく通ひし折、養ひ得たるK一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、8夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間にはドイツ新聞の社説をだによくは9え読まぬがあるに。
(注)@天方伯 天伯伯爵。伯爵は旧華族の称号の一つ。A官報 政府から一般に周知させるべき事項を編集して、毎日観光する文書。Bキヨオニヒ街 ケーニッヒ街。C休息所 新聞閲覧所を兼ねたコーヒー店。D掌上の舞 身のこなしの軽やかな舞。Eビヨルネ 1788~1837年。ドイツの作家。Fハイネ 1797~1856年。ドイツの詩人。評論家。詩集「歌の本」など。祖国へ「フランス通信」を送った。Gフレデリツク三世 1831~1888年。ウィルヘルム一世の跡を継ぎ、1888年王位についたが、六月没。「新帝」はその子、ウィルヘルム二世。H崩殂 帝位にあるものが死ぬこと。崩御。Iビスマルク 1815~1898年。ドイツの統一を達成したプロシアの宰相。ウィヘルム二世と対立して1890年に辞職した。J民間学 ジャーナリズムなど民間の学問。K一隻の眼孔 一隻眼。ひとかどの見識。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 シアンする 2 寄寓 3 オモムき 4 光をトれる 5 掌上の舞 6 椅子
7 崩殂 8 多くもあらぬゾウショ 9 ケズられねど 10 一種のケンシキ
二 傍線部1〜の問に答えよ。
1 どんな時か。
2 辞書で意味を調べよ。
3 辞書で意味を調べよ。
4 ここでいう「学問」とはどのようなものを指すか。
5 どのようなことか。
6 辞書で意味を調べよ。
7 辞書で意味を調べよ。
8 どういうものか。
9 口語訳せよ。
三3 解答
一 1 思案 2 きぐう 3 趣 4 採 5 しょうじょうのまい 6 いす 7 ほうそ
8 蔵書 9 削 10 見識
二 1 帰国の途上サイゴンで手記を書いている時。 2 お礼。返礼。
3他人の家に身を寄せること。4 国家有為の人物として習得すべき学問。
5 大学の学問から遠のいたことに対する責負の念と現実の中で生きた学問を身につけた琴に対する自負
心。6 世間に広まること。 7 俗っぽくなく程度の高いこと。8 知識が幅広く総括的になった
こと。9 読むことができない。
四1
1明治二十一年の冬は来にけり。表街の人道にてこそ2砂をも蒔け、鍤をもふるへ、クロステル街のあたりは@@凸凹坎珂の所は見ゆめれど、表のみは一面に凍りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、かまどに火をたきつけても、壁の石を通し、衣の綿をうがつ北ヨオロツパの寒さは、なかなかに堪へ難かり。エリスは二、三日前の夜、舞台にて3卒倒しつとて、人に助けられて帰り来しが、それより心地悪しとて休み、物食ふごとに吐くを、4悪阻といふものならむと初めて心づきしは母なりき。ああ、5さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もしまことなりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在れど、6心は楽しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小さきA鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉少なし。このとき戸口に人の声して、ほどなくB庖厨に在りしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余に渡しつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手はプロシアのものにて、消印にはベルリンとあり。7いぶかりつつも開きて読めば、とみのことにてあらかじめ知らするに由なかりしが、昨夜ここに着せられし天方大臣につきて我も来たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。汝が名誉を回復するもこのときにあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみ言ひやるとなり。読み終はりて8茫然たる面もちを見て、エリス言ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便りにてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならむ。「否、9心にな掛けそ。御身も名を知る相沢が、大臣とともにここに来て我を呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ。大臣に10まみえもやせむと思へばならむ、エリスはC病をつとめて起ち、D上襦袢も極めて白きを選び、丁寧にしまひ置きしEゲエロツクといふ二列ぼたんの服を出だして着せ、F襟飾りさへ余がために手づから結びつ。
「11これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。何故にかく12不興なる面もちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見捨てたまはじ。我が病は13母ののたまふごとくならずとも。」
「14何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でむの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ会ひには行け。」エリスが母の呼びし一等Gドロシユケは、輪下にきしる雪道を窓の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に覆ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。彼は凍れる窓を開け、乱れし髪をH朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
余が車を下りしはIカイゼルホオフの入り口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を上り、中央の柱にJプリユツシユを覆へるKゾフアを据ゑつけ、正面には鏡を立てたるL前房に入りぬ。外套をばここにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まで行きしが、余は少しM踟蹰したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、今日はいかなる面もちして出で迎ふらむ。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ、依然たる快活の気象、我が15失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を16細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に謁し、17委託せられしはドイツ語にて記せる文書の急を要するを翻訳せよとのことなり。余が文書を受領して大臣の室を出でしとき、相沢は後より来て余と午餐を共にせむと言ひぬ。
食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼がN生路はおほむね平滑なりしに、O轗軻数奇なるは我が身の上なりければなり。
余が胸臆を開いて物語りし18不幸なる閲歴を聞きて、彼はしばしば驚きしが、なかなかに余を責めむとはせず、かへりて他の凡庸なる諸生輩をののしりき。されど物語の終はりしとき、彼は色を正していさむるやう、19この一段のことはもと生まれながらなる弱き心より出でしなれば、今さらに言はむも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。今は天方伯もただドイツ語を利用せむの心のみなり。己もまた伯が当時の免官の理由を知れるが故に、20強ひてそのP成心を動かさむとはせず、伯が心中にてQ曲庇者なりなんど思はれむは、朋友に利なく、己に損あればなり。人を薦むるはまづその能を示すにしかず。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。21意を決して断てと。これその言のおほむねなりき。
22大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方針なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ行きつかむも、否、はたして行きつきぬとも、我がR中心に満足を与へむも定かならず。貧しきが中にも楽しきは今の生活、捨て難きはエリスが愛。我が弱き心には思ひ定めむよしなかりしが、23しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たむと約しき。余は守るところを失はじと思ひて、己に敵するものにはS抗抵すれども、友に対して否とはえ答へぬが常なり。
別れて出づれば風面を打てり。二重の玻璃窓を厳しく鎖して、大いなる21陶炉に火をたきたるホテルの食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さはことさらに堪へ難く、膚粟立つとともに、余は24心の中に一種の寒さを覚えき。
翻訳は一夜になし果てつ。カイゼルホオフへ通ふことはこれよりやうやくしげくなりもて行くほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近ごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げてうち笑ひたまひき。
(注)@凸凹坎珂A鉄炉B庖厨C病をつとめてD上襦袢EゲエロツクF襟飾りGドロシユケH朔風IカイゼルホオフJプリユツシユKゾフアL前房M踟蹰N生路O轗軻P成心Q曲庇者R中心S抗抵21陶炉
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 凸凹坎珂 2 ソットウしつ 3 悪阻 4 床にフす 5 テイネイにしまふ 6 襟飾り
7 フウキになりたまふ 8 余はビショウしつ 9 外套 10 踟蹰 11 ゲキショウしたる
12 轗軻 13 不幸なるエツレキ 14 ボンヨウなる諸生輩 15 曲庇者 16 朋友
17 舵 18 ゼントの方針 19 オノレに敵する 20 キビしく閉ざして
二 傍線部1〜24の問に答えよ。
1 ここではじめて作品の時間が明示されることに注意する。
2 なぜこうするのか。
3 辞書で意味を調べよ。
4 辞書で意味を調べよ。
5 口語訳せよ。
6 なぜ楽しくないのか。
7 辞書で意味を調べよ。
8 なぜこうなるのか。
9 口語訳せよ。
10 口語訳せよ。
11 エリスのどういう心理がうかがえるか。
12 辞書で意味を調べよ。
13 何を指しているか。
14 こういう豊太郎の心情に注意する。
15 辞書で意味を調べよ。
16 辞書で意味を調べよ。
17 辞書で意味を調べよ。
18 具体的になにか。
19 相沢はどのような論理で豊太郎に忠告するのか。
20 辞書で意味を調べよ。
21 エリスとの絶縁を進めるが、その根拠は何か。
22 どういうことのたとえか。
23 彼のどのような心情がうかがえるか。
24 なぜか。
四1 解答
一
1 とうおうかんか 2 卒倒 3 つわり 4 臥 5 丁寧 6 えりかざ
7 富貴 8 微笑 9 がいとう 10 ちちゅう 11 激賞 12 かんか
13 閲歴 14 凡庸 15 きょくひしゃ 16 ほうゆう 17 かじ
18 前途 19 己 20 厳
二
1 読者はにわかに現実の歴史的時間の中に連れ戻される。2 道が凍結しているので滑らないようにする。
3 脳貧血・脳出血のために突然意識を失って倒れること。
4 妊娠二三カ月ごろ吐き気があり、食欲不振を起こす状態。5 そうでなくてさえ。
6 たえずエリスと顔を合わせなければならず、当惑と不安から逃れられないから。
7 不審がる。8 エリスの妊娠で動揺しているのに気持を見透かすようなタイミングで来たから。
9 心配するな。10 お目にかかるかもしれない。
11 夫を得意がる気持ちと捨てられるのでははないかという不安。12 機嫌がわるいこと。
13 エリスが妊娠していること。
14 エリスに具体的に「富貴」と言われてその実態を初めて認識した。
15 道に外れたおこない。過ち。
17 取引などを人に頼んで自分の代わりにしてもらうこと。
18 閲歴=経過してきたこと。 中傷によって免官になったこと、その後の生活など。
19 豊太郎をかばい、仲間を批判し、味方であることを印象づける。
20 むるやりに。 21
21 才能や学識を女のために無駄にしてはいけない。 22
22 前途に望みのない生活の中で、生きる目標を見出したことのたとえ。
23 自分の判断を保留し、態度決定を曖昧にしたままで友の言葉に身をゆだねる。
24 良心の痛み、エリスへの後ろめたさ、将来への不吉な予感から。
四2
一月ばかり過ぎて、ある日伯は突然我に向かひて、「余は明旦、@ロシアに向かひて出発すべし。従ひて来べきか。」と問ふ。余は数日間、かの公務にいとまなき相沢を見ざりしかば、この問ひは不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我が恥を表さむ。この答へはいち早く決断して言ひしにあらず。余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、1その答への範囲をよくも量らず、ただちに2うべなふことあり。さてうべなひし上にて、そのなし難きに心づきても、強ひて当時の心虚なりしを覆ひ隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。
この日は翻訳の代に、旅費さへ添へて賜りしを持て帰りて、翻訳の代をばエリスに預けつ。これにてロシアより帰り来むまでの費えをば支へつべし。彼は医者に見せしに3常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりし故、幾月か心づかでありけむ。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは4故あればなるべし。旅立ちのことにはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我が心を厚く信じたれば。
鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合はせて借りたる黒き礼服、新たに買ひ求めたるAゴタ板の魯廷の貴族譜、二、三種の辞書などを、小カバンに入れたるのみ。さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行く跡に残らむも物憂かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらむには5うしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて6知る人がり出だしやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入り口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
魯国行きにつきては、何事をか叙すべき。我が7B舌人たる任務はたちまちに余を拉し去りて、C青雲の上に落としたり。余が大臣の一行に従ひて、Dペエテルブルクに在りし間に余を8囲繞せしは、9パリ絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の粧飾、ことさらにE黄蠟の燭を幾つともなくともしたるに、幾星の勲章、幾枝のFエポレツトが映射する光、彫鏤の巧みを尽くしたるGカミンの火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇のひらめきなどにて、この間フランス語を最も円滑に使ふものは我なるが故に、H賓主の間に10周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日ごとに書を寄せしかば11え忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて灯火に向かはむことの心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまで物語りし、疲るるを待ちて家に帰り、ただちに寝ねつ。次の朝目覚めしときは、なほ独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でしときの心細さ、かかる思ひをば、生計に苦しみて、今日の日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書のあらましなり。
またほど経ての書はすこぶる思ひ迫りて書きたるごとくなりき。文をば12否といふ字にて起こしたり。否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。君はふるさとに頼もしき13族なしとのたまへば、この地によき世渡りの生計あらば、とどまりたまはぬことやはある。また我が愛もてつなぎ留めではやまじ。それもかなはで東に帰りたまはむとならば、親とともに行かむはやすけれど、かほどに多き14路用をいづくよりか得む。いかなる業をなしてもこの地にとどまりて、君が世に出でたまはむ日をこそ待ためと常には思ひしが、しばしの旅とて立ち出でたまひしよりこの二十日ばかり、別離の思ひは日にけに茂りゆくのみ。15袂を分かつはただ一瞬の16苦艱なりと思ひしは迷ひなりけり。我が身の常ならぬがやうやくにしるくなれる、それさへあるに、よしやいかなることありとも、我をばゆめな捨てたまひそ。母とはいたく争ひぬ。されど17我が身の過ぎしころには似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。我が東に行かむ日には、Iステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せむとぞ言ふなる。書きおくりたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば、我が路用の金はともかくもなりなむ。今はひたすら君がベルリンに帰りたまはむ日を待つのみ。
ああ、余は18この書を見て初めて我が19地位を明視し得たり。恥づかしきは我が鈍き心なり。余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさむとするときは、頼みし20胸中の鏡は曇りたり。
大臣はすでに我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。先に友の勧めしときは、大臣の信用はJ屋上の鳥のごとくなりしが、今はややこれを得たるかと思はるるに、相沢がこのごろの言葉の端に、本国に帰りて後もともにかくてあらば云々と言ひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明らかには告げざりしか。今さら思へば、余が21軽率にも彼に向かひてエリスとの関係を絶たむと言ひしを、早く大臣に告げやしけむ。
ああ、ドイツに来し初めに、自ら我が本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。先にこれを操りしは、我が某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行とともにベルリンに帰りしは、あたかもこれK新年の旦なりき。停車場に別れを告げて、我が家をさして車を駆りつ。ここにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習ひなれば、22万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらきらと輝けり。車はクロステル街に曲がりて、家の入り口に駐まりぬ。このとき窓を開く音せしが、車よりは見えず。L馭丁にカバン持たせて梯を上らむとするほどに、エリスの梯を駆け下るに会ひぬ。彼が一声叫びて我が項を抱きしを見て馭丁はあきれたる面もちにて、何やらむ髭のうちにて言ひしが聞こえず。
「よくぞ帰り来たまひし。帰り来たまはずば我が命は絶えなむを。」
23我が心はこのときまでも定まらず、故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せむとせしが、ただこの一刹那、24低徊踟蹰の思ひは去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。
「幾階か持ちて行くべき。」と鑼のごとく叫びし馭丁は、いち早く上りて梯の上に立てり。
戸の外に出で迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひたまへと銀貨を渡して、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。25一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白きレエスなどをうづたかく積み上げたれば。
エリスはうち笑みつつこれを指して、「何とか見たまふ、この心がまへを。」と言ひつつ一つの木綿ぎれを取り上ぐるを見れば襁褓なりき。「我が心の楽しさを思ひたまへ。産まれむ子は君に似て26黒き瞳をや持ちたらむ。この瞳。ああ、夢にのみ見しは君が黒き瞳なり。産まれたらむ日には君が正しき心にて、よもMあだし名をば名のらせたまはじ。」彼は頭を垂れたり。「幼しと笑ひたまはんが、N寺に入らむ日はいかにうれしからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。
(注)@ロシア 当時はニコライ一世の治下で帝政時代。 Aゴタ板 ヨーロッパ各地の貴族系図や宮廷行事などを書いたシリーズものの本。ドイツ中部のゴタ市で刊行された。「露廷」はロシアの宮廷。B舌人 通訳。C青雲 ここでは宮廷。Dペエテルブルク 帝政ロシアの首府。今のサンクトペテルブルクE黄蠟 ミツバチの巣から製下黄色の蠟。Fエポレツト 肩章。Gカミン ヶ紅取り付けてある暖炉。H賓主 客と主人。Iステツチン ドイツ北部の都市。J屋上の鳥 捕えがたいもののたとえ。K新年の旦 作中の時間では、1889年(明治22年)@1月1日。
L馭丁 馭者。Mあだし名 ここでは豊太郎の太田と違う姓。つまり私生児にすること。N寺に入らむ日 生まれた子に洗礼を受けさせるため、教会に行く日。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 咄嗟の間 2 覆ひ隠し 3 セキを除きぬ 4 イツワりなき 5 カギ 6 クツヤ
7 驕奢 8 黄蠟の燭 9 彫鏤 10 周旋 11 苦艱 12 鈍き心 13 云々
14 ケイソツにも 15 寂然 16 項 17 髭 18 低徊踟蹰 19 一瞥 20 襁褓
二 傍線部1〜26の問に答えよ。
1 どういう意味か。
2 辞書で意味を調べよ。
3 具体的にどういうことか。
4 座頭の厳しさはどのような「故」であると考えられるか。
5 口語訳せよ。
6 口語訳せよ。
7 具体的内容を抜き出せ。
8 辞書で意味を調べよ。
9 口語訳せよ。
10 辞書で意味を調べよ。
11 口語訳せよ。
12 手紙の中で最も言いたかったことを十五字以内で抜き出せ。
13 エリスの気持はどういうものか。
14 辞書で意味を調べよ。
15 辞書で意味を調べよ。
16 辞書で意味を調べよ。
17 どういうことか。
18、19 彼はエリスの手紙から、自分がどのような「地位」にいることを知ったか。
20(1)対照的な表現を抜き出せ。(2)どういうことをたとえているか。
21 辞書で意味を調べよ。
22 口語訳せよ。
23 何と何の間でゆれていたか。
24 口語訳せよ。
25 口語訳せよ。
26 誰が見ている、誰の瞳か。
四2 解答
一1 とっさ 2 おお 3 籍 4 偽 5 鍵 6 靴屋 7 きょうしゃ
8 おうろう 9 ちょうる 10 しゅうせん 11 くかん 12 にぶ 13 うんぬん
14 軽卒 15 せきぜん 16 うなじ 17 ひげ 18 ていかいちちゅ 19 いちべつ
20 むつき
二
1 答の影響する範囲。
2 いかにもっともだと思って承知する。3 エリスが妊娠していること。
4 もくろみを拒絶された事。エリスが妊娠していること。5 きがかりになるだろうから。
6 知っている人のもとへ。7 賓主の間に周旋して事を弁ずる者。8 囲みめぐらすこと。
9 パリの最も華やかで贅沢な様子がそのまま氷雪に埋もれたペテルブルグの王宮に移されたようなはなやか
さであること。10 売買・雇用などで、仲に立ってとりもちをすること。
11 忘れることができなかった。12「我をばゆめな捨てたまひそ」 13 ここでともに暮らしたい。
14 旅費。 15 人と別れること。16 苦しみ。
17 妊娠していないころ。 18、19 帰国を選ぶか、エリスを選ぶか二者択一を迫られる地位。
20(1)「我が鈍き心」(2)決断すること。 21 かるはずみ。
22 町全体がひっそり静まりかえっていること。
23 帰国して立身の道を歩むか、恋を貫きベルリンにとどまるか。 24 あれかこれかと思い悩むこと。
25 ちょっと見ること。
26 エリスが見ている豊太郎の瞳。
五1
二、三日の間は大臣をも、旅の疲れやおはさむとてあへて訪はず、家にのみこもりをりしが、ある日の夕暮れ使ひして招かれぬ。行きてみれば待遇殊にめでたく、ロシア行きの労を問ひ慰めて後、我とともに東に帰る心なきか、君が学問こそ我が測り知るところならね、1語学のみにて世の用には足りなむ、滞留のあまりに久しければ、2様々の係累もやあらむと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて@落ちゐたりとのたまふ。その気色いなむべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相沢の言を偽りなりとも言ひ難きに、もし3この手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉を引きかへさむ道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られむかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。ああ、なんらの4A特操なき心ぞ、「承りはべり。」と答へたるは。
B黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とか言はむ。ホテルを出でしときの我が心の錯乱は、たとへむに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思ひに沈みて行くほどに、行き合ふ馬車の馭丁に幾度か叱せられ、驚きて飛びのきつ。しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑の傍らに出でたり。倒るるごとくに道の辺の腰掛けに倚りて、焼くがごとく熱し、槌にて打たるるごとく響く頭を榻背に持たせ、死したるごときさまにて幾時をか過ごしけむ。激しき寒さ骨に徹すと覚えて覚めしときは、夜に入りて雪はしげく降り、帽のひさし、外套の肩には一寸ばかりも積もりたりき。
もはや十一時をや過ぎけむ、Cモハビツト、カルル街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯灯は寂しき光を放ちたり。立ち上がらむとするに足の凍えたれば、両手にてさすりて、やうやく歩み得るほどにはなりぬ。
足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来しときは、D半夜をや過ぎたりけむ。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル・デン・リンデンの酒家、茶店はなほ人の出入り盛りにて5にぎはしかりしならめど、Eふつに覚えず。我が脳中にはただただ我は許すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。
四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずとおぼしく、F炯然たる一星の火、暗き空にすかせば、明らかに見ゆるが、降りしきる鷺のごとき雪片に、たちまち覆はれ、たちまちまた顕れて、風にもてあそばるるに似たり。戸口に入りしより疲れを覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふごとくに梯を上りつ。庖厨を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ。」と叫びぬ。「いかにかしたまひし。御身の姿は。」
驚きしも6うべなりけり、7蒼然として死人に等しき我が面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪はGおどろと乱れて、幾度か道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汚れ、所々は裂けたれば。
余は答へむとすれど声出でず、膝のしきりにをののかれて立つに堪へねば、椅子をつかまむとせしまでは覚えしが、そのままに地に倒れぬ。
(注)@落ちゐたり 安心した。A特操 堅く守って変わることのない志。B黒がねの額 厚かましいこと。鉄面皮。Cモハビツト ベルリン北西部の郊外。D半夜 真夜中。Eふつに まったく。F炯然たる一星の火 輝くように明るい一つの灯火。「星」は光る物を数える単位。Gおどろと ぼうぼうと。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 タイグウことにめでたく 2 ナグサめて 3 衝いて 4 傍ら 5 寒さ骨にテッす
6 炯然 7 鷺 8 蒼然 9 膝 10 タオれぬ
二 傍線部1〜7の問に答えよ。
1 口語訳せよ。
2 口語訳せよ。
3 この表現には、豊太郎のどのような心情が託されているか。
4 どのような心か。
5 口語訳せよ。
6 辞書で意味を調べよ。
7 辞書で意味を調べよ。
五1 解答
一 1 待遇 2 慰 3 つ 4 かたわ 5 徹 6 けいぜん 7 さぎ
8 そうぜん 9 ひざ 10 倒
二 1 語学力だけでも立派に世の中の役に立つ。2 いろいろな人間関係のつながり。
3 焦燥感。4 エリスとの約束を反故にしようとしていることを決めたこと。
5 にぎやかであったらしいが。 6 当然である。7 色が青いさま。
五2
1人事を知るほどになりしは数週の後なりき。熱激しくて譫語のみ言ひしを、エリスが2懇ろにみとるほどに、ある日相沢は訪ね来て、3余が彼に隠したる顚末を@つばらに知りて、大臣には病のことのみ告げ、よきやうに繕ひおきしなり。余は初めて病床に侍するエリスを見て、その変はりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたくやせて、血走りし目はくぼみ、灰色の頬は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計には窮せざりしが、4この恩人は彼を精神的に殺ししなり。
5後に聞けば彼は相沢に会ひしとき、余が6相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」と叫び、その場に倒れぬ。相沢は母を呼びて共に助けて床に臥させしに、しばらくして覚めしときは、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、我が名を呼びていたくののしり、髪をむしり、布団を噛みなどし、またにはかに心づきたるさまにて物を探り求めたり。母の取りて与ふる物をばことごとく投げうちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押し当て、涙を流して泣きぬ。
これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴なること赤児のごとくなり。医に見せしに、過激なる心労にて急に起こりしAパラノイアといふ病なれば、治癒の見込みなしと言ふ。BダルドルフのC癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出だしては見、見ては7欷歔す。余が病床をば離れねど、これさへ8心ありてにはあらずと見ゆ。ただ折々思ひ出したるやうに「薬を、薬を。」と言ふのみ。
(注)@つばらに 詳しく。Aパラノイア 現在では一般に体系だった妄想を抱く精神病をさし、妄想症と呼ばれているが、その定義は時代や人によりさまざまである。「生ける屍」と形容されるエリスの症状とは合致しない点がある。 Bダルヅルフ ベルリンの北にある町。C癲狂院 精神病院。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 顚末 2 オドり上がり 3 面色 4 アザムき 5 目はチョクシしたる 6 フトンをかみ
7 カゲキなる心労 8 治癒 9 癲狂院 10 欷歔
二 傍線部1〜8の問に答えよ。
2 辞書で意味を調べよ。
3 どういうことか。
4 エリスは結局どのような人間になったか、五字以内で抜き出せ。
5 内容はどこまでか。
6 (1)一諾 辞書で意味を調べよ。
(2)「相沢に与へし約束」「大臣に聞こえ上げし一諾」とは何であったか。
7 辞書で意味を調べよ。
8 口語訳せよ。
五2 解答
一 1 てんまつ 2 躍 3 めんしょく 4 欺 5 直視 6 布団
7 過激 8 ちゆ 9 てんきょういん 10 ききょ
二
1 意識が回復する。 2 親切で丁寧なさま。3 エリスが豊太郎の子を妊娠していること。
4 「生ける屍」5 「かれは相沢に・・・と言ふのみ」
6(1)ひとたび承知すること。
(2)エリスと別れること、帰国すること。
7 悲しんですする泣くこと。
8 正気あってのことではない。
六
余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を注ぎしは幾度ぞ。大臣に従ひて帰東の途に上りしときは、相沢と議りてエリスが母にかすかなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の1胎内に遺しし子の生まれむ折のことをも頼みおきぬ。
ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が2脳裏に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。
一 次の漢字の読みを記し、カタカナを漢字に直せ。
1 癒えぬ 2 シホンを与え 3 タイナイにのこしし 4 我がノウリ
二 傍線部1〜2の問に答えよ。
1 辞書で意味を調べよ。
2 辞書で意味を調べよ。
六 解答
一
1 い 2 資本 3 胎内 4 脳裏
二
1 子がはらまれる母の腹の中。 2 頭の中。
概要 時 明治21年頃(森鴎外ドイツ留学明治17〜21年 1884~1888年)
場所 ドイツ ベルリン
登場人物 太田豊太郎 エリス 相沢 天方伯
事件 豊太郎と「エリスの恋愛
構成(生徒にはこの表の枠と項目だけのものを別途渡し記入させる)
一 二 三 |
段 |
1 2 1 2 |
節 |
Q1 五年前と現在の違い A1 五年前 洋行 新鮮な感動 現在 船室 苦悩 Q2 なお筆を執る気になった理由 A2 故国が目前 体験を整理して一定の決着 Q1 人物像 受身 出世 臆病 A1 母の教育で成績優秀 19才 法学部卒 三年役人 ドイツ留学 エリート Q2 ベルリン到着時の様子 A2 華麗さに幻惑 抗して勉強 Q1 三年後の様子 A1 受動的→主体的 (理由)母・官長から解放 大学の自由な学風 Q2 中傷の理由 A2 仲間と遊ばない (理由)勇気なし Q1 エリスとの交際 憐憫 → 同情 → 魅力 → 清 Q1 何をきっかけに深まったか? 免官される 母死去 不安・絶望 離れ |
豊太郎の言動・心情 |
Q1(エリス) 人物像 167歳 目 睫毛 貧しさ 父の死 媚態 白 Q1(同郷人)非難 ←中傷 がたき仲 |
その他の人物の言動・心情 |
三 四 |
段 |
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2 3 1 2 3 |
節 |
|
Q2 母の意味 A2 努力の背景 家・祖国=豊太郎の絆 Q3 母死去の意味 自己解放 Q1 どうなったか? 同 新聞社の通信院 学問は荒む ヨーロッパ諸国の現実に精 通
明治一年冬 Q1 相沢との再会の意味 A1 相沢=祖国の姿 立身出世 Q2 「情縁を断たん」約した理由 A2 性格=弱い心 親友の示す前途の指針 一月後 Q1 ロシア行きの意味 A1 才能発揮=祖国帰還の契機 エリスの愛の深さを確認 Q2 エリスに対する気持 生き方が伯の手中に 迷い 出世か愛か? Q3 自分の性質本性についてどう 思ったか? 受動的 自由な生き方も、国家に対 する帰属意識をかえられない |
豊太郎の言動・心理 |
|
Q2(エリス)人物像 A2 17才 舞姫 低賃金 美しい いじらしい 棲 Q1 (相沢)人物像 天方伯の秘書官 エリート Q2 (エリス)言動 ダンスの練習 劇場 縫物 Q1 (エリス)様子 妊娠 Q2 (相沢)言動 ←手紙 Q3 (相沢)考え 才能を発揮せよ=功利的 人柄でなく惰性だ=封建的 ◎背景 当時留学生妻の習慣 Q1(エリス)どうなったか? A1 免職 Q2(天方伯)反応 ←信用 Q3(エリス)言動 ←手紙 愛情 別れを予感 Q4(エリス)言動 ←再会の喜び 出産の準備 |
その他の人々の言動・心理 |
人物のまとめ 豊太郎 受動的 優柔不断 エリス 清純 愛 相沢 世話好き 快活 現実的 行動的 封建的 天方伯 政治力 外交力 広い度量 主題 自我に目覚めた青年が封建的明治に迎合する。 筆者 森鴎外(1862〜1922年) 小説家 評論家 軍医 高踏派 陸軍軍医となり、ドイツへ留学する。帰国後、医学・文学両面で活躍し陸軍軍医総監となった。 『青年』『阿部一族』『舞姫』『雁』 ヨーロッパの近代文芸思潮を紹介し、浪漫主義文学の先駆となり、近代文学形成に大きな影響 を 与えた。 |
五 六 |
段 |
1 2 |
節 |
|
Q1 「承りはべり」答えた事情 A1 拒否できない いまさら否定できない 不安=祖国 名誉挽回 欧州大都に埋没 Q2 どういう苦悩か? エリスとの愛を裏切ること になる罪悪感
放浪 病気 数週間意識不明 治癒 帰国 Q1 帰国するのはなぜか? 帰国・出世=国家・家族の 期待 封建 ≦ 愛 =個人の意思 近代 |
豊太郎の言動・心理 |
|
Q1 (天方伯)言動 帰国を信じている Q2 (相沢)言動 約束(絶縁)を伯に次げている Q3 (エリス)どういう苦悩か? 愛が虚構のものとして崩壊したので 絶望 発狂 Q4 (相沢)言動 豊太郎との約束 豊太郎と伯との約束 ◎作者の意図=離別・帰国 二人を病気にする 相沢の助力で解決 エリスに直接継げない 未解決で終了 帰国・出世か愛かの決着を避けた |
その他の人々の言動・心理 |