公然の秘密    安部公房

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語釈

 半ば埋めたてられた掘り割りに、1古いコンクリートの橋がかかっている。しかし、その橋と平行に2新しい道路が建設され、今はもう使われていない。ときたま疲れたセールスマンや集金人などが、手摺にもたれて3一服したり、子どもがキャッチボールをしていたりするだけだ。いずれは取り壊されて、掘り割りの中に埋められてしまうのだろう。4掘り割りの底には、泥と汚水がねっとりとよどんでいる。捨てられた古自動車などが、薄い粘土の5被膜をかぶって、レリーフをつくっている。形がはっきりしているのは、その古自動車だけだ。あとはなんだかよく分からない。

 根もとからへし折られた街路樹のようなものが見える。風もないのに、かすかに動いている。いや、いくら風が吹いたって、泥に埋まった樹が動いたりするわけがない。6動くはずのないものが動いているのだ。

 しかし誰ひとり気にとめる者はいない。気にしていても、しないようなふりをしている。子どもに質問されたら、湧き上がるメタンガスのせいだとでも答えるつもりだろうか。むろん子どもだって、ちゃんと7真相を見抜いている。既に8公然の秘密なのだ。誰もが見て見ぬふりをしているだけのことである。動きやむまで待つしかない。いずれ埋め立て工事も再開されるだろうし、そうすればすべてがなかったことになってくれるのだ。

 動きが大きくなった。気のせいだろうか。気のせいのようでもあるし、事実のようでもある。9まずいのは、不審に思ったのがぼく一人ではなかったということだ。既に橋の上には人だかりができていた。人数は、はっきりしない。三人のようでもあるし、十人のようでもある。はっきりさせる必要もないし、させたくもなかった。ぼくはひたすら、水面の変化だけを追いつづけた。見ずにすませられれば、それに越したことはないが、見てしまった以上は仕方がない。気づいているのがぼく一人だと思い込むためにも、目をそらさないほうがよかったのだ。

 動いている。確かに動いている。白く乾いた泥の被膜に、裂け目ができた。黒く濡れた水面に形があらわれた。

 10樹の幹に見えた部分は、背骨だった。枝に見えた部分は、その背骨から左右にひろがった肋骨だった。骨と骨の間の、油紙のような皮。骨はもがいて起き上がろうとしている。そんなはずはない、11どうせ錯覚にきまっている。今更そんな余力が残っているわけがない。あれは12断末魔の13あがきなのだ。次の瞬間、ばらばらに砕けて、それで終わりにきまっている。

 誰もが息をひそめていた。ぼくも息をひそめて待った。14それ以外の結末なんてあるわけがない。

 だが、いっこうにあきらめる気配を見せないのだ。なおも泥の亀裂がひろがり、ついに背骨の前に大きな頭部が露出した。伏せた皿のような形をしていて、背骨がなければ、死んだ獣の腹のようにも見える。つづいて前脚をふんばり、そいつは肩からゆっくり起き上がった。やせ細った体から黒い汚水がしたたり、やっと全身の形が見分けられるようになった。

 15やはり飢えた仔象だった。白っちゃけた枯れ木色、多少緑がかった灰色の皮膚、不釣り合いに大きな頭、いつも微笑んでいるような小さな眼……鼻は腐って、すっかり短くなってしまっているが、もう疑う16余地はない。確かに飢えた仔象なのだ。

 誰かの声がした。

 「驚いた話だな。」

 すかさず別の声が答えた。

 「17しらばくれるんじゃないよ。」

 同感だった。18この事件に関するかぎり、驚いたと言っても嘘になるし、驚かなかったと言ってもやはり嘘になる。

 仔象はゆっくり、崩れた掘り割りの斜面をのぼりはじめた。見ると足先もやはり腐っている。といっても、肉の腐りかたではなく、植物の腐りかただ。地中に埋められた枯れ木の腐りかたに似ていた。とても上まではもたないだろうと思う。だが19期待に反して、仔象の足取りはしだいに軽くなる。痩せ細って、体重がほとんどなくなってしまったせいだろうか。それとも逆に、20腐っても象と考えるべきなのだろうか。

 21腹が立ちはじめた。22無邪気すぎる。誰ひとり仔象を泥の中に突き落とそうとしないのは、ほんのちょっとしたはずみにすぎないのに。こういう愚鈍さには全く我慢がならない。仔象の行為が見逃されているのは、見物人がつい呼吸を合わせる機会を失したという、偶然のせいにすぎないのに。

 やがて仔象は掘り割りをはい上がり、道端に立った。骨格の標本に紙を張ったような体をゆすって、顎を突き出した。腐り落ちてさえいなければ、高々と鼻をかかげて見せるつもりだったのかもしれない。家並みにそって、ゆっくりと歩きだす。腐った足で、よろめきながら歩きだす。最初の商店の前に足をとめた。主人らしい中年の男が歩道に水を撒いていた。男は仔象を見て体をかたくした。首を左右にふって、視線をそらせ、さっさと奥に引っ込んでしまう。無理もない。その店は薬局で、象に食わせるようなものは何も売っていないのだ。仔象は23哀願するように店の中をのぞき込み、小さな両眼に涙をうかべた。それとも片眼だけだったろうか。

 橋の上では24苛立たしげに、25素早い会話がかわされていた。

 「あんなもの、幻想だと思ってなぜ悪い。もともと日本にいるわけはないんだからな。」

 「でも、象の化石は日本でも発見されていますよ。」

 「人間が住むようになる前に亡びてしまったんだ。責任なんかないさ。」

 「観念としての象なら、仏教といっしょに上陸しましたよ。」

 「じゃ、認めるってのかい、あいつがうろつきまわるのを……。」

 「認めはしないけど、26黙殺もできないな。とにかく、27目ざわりであることをはっきり主張するのが28先決じゃないですか。」

 「おまけに腐りかけている……。」

 「そう、出しゃばらせる必要はないよ。」

 「どぶの中だからって、油断したのがまずかったんだ。」

 「あそこに象がいることは、誰もが知っていた。いわば公然の秘密でしたね。しかし、いないも同然だと信じていたからこそ、許せもしたんだ。」

 「いるはずのないものが、いたって、いないも同然でしょう。」

 「しかし、存在しないものは、存在すべきじゃない。」

 「腐りきるまで、あの中でじっと待っていてくれりゃよかったのに……。」

 ふと仔象がこちらを振り向き、会話が29中断された。仔象の表情に別に敵意はなかったが、30誰もが狼狽を隠せない。それから腐り落ちた鼻先を突き出すようにして、ぎくしゃく体をゆすりながら、こちらに向かってやってきた。ひと足ごとに、バケツで撒いたように水がしたたり落ちる。風が吹くと体が傾いた。しだいに31空洞化していっているのだろう。

 「可哀そうに、見ちゃいられない……。」

 橋の上から誰かが何かを投げつけた。小さな箱のようだった。箱は相手まで届かなかった。仔象はうれしそうに駈けよって、ゆっくりと小さな口で齧りはじめた。

 「マッチだよ。」と32弁解がましく小声が言った。「ほかにやるものがなかったんだ。」

 「いいんじゃないの、どうせ象は草食なんだから……。」

 「それに、燐には、33防腐作用もあるしね。」

 つづいて幾つものマッチ箱が、一斉に仔象めがけて飛んだ。なかには既に火を吹いているやつさえあった。ガス・ライターも数箇はまじっていたような気がする。それでも橋の上を見上げた仔象の視線には、34感謝の色がこめられていた。まだしめっぽさが残っているので、多少の火の気くらいは平気だったのかもしれない。

 仔象は小さな口で食べつづけ、35ぼくらは待った。何を待っているのか、はっきりはしなかったが、とにかく待ちつづけた。仔象は無邪気に食べつづけ、ぼくらの間には、36しだいに殺気がみなぎりはじめていた。当然だろう、37弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。

 やがて仔象は、古新聞のように燃え上がり、燃えつきた。

 

一 次の漢字の読みを記し、カタカナは漢字に直せ。

 

1 ツカれた

 

2 手摺           3 汚水

 

4 ヒマクをかぶって     5 街路樹

 

6 ワきあがる        7 コウゼンのヒミツ  

 

8 フシンにおもった

 

9 サけ目          10 ヌれた

 

11 肋骨          12 断末魔

 

13 亀裂          14 頭部がロシュツした

 

15 痩せ細った       16 微笑んで

 

17 ヨチはない

 

18 嘘           19 クサる

 

20 ムジャyキ       21 グウゼンのせい

 

22 這い上がり

 

23 顎           24 水をマいていた

 

25 アイガンする      26 苛立たしげ

27 亡びて

二 次の1〜37の問いに答えよ。

T段

1将来どうなると予想されているか。

 

2どのようなものの象徴として描かれているか。

 

 

4どのようなものの象徴として描かれているか。

 

 

2段

6どのようなことが推測できるか。

 

7どんな内容か。なぜまずいのか。

 

8一般的な意味を答えよ。

 

9なぜか。

 

3段

10動くものの正体がどういうものであることがわかるか。

 

11ここで錯覚といっているのはなぜか。

 

12

 

13

 

14指示内容を記せ。

 

p223

15 

  (1)「やはり」とあることからどういうことがわかるか。

 

  (2)「仔象」であったのは作者が「仔象」をどのようなものとし描こうとしたた

めか。

 

16

 

17

 

18なぜか。

19どういう期待か。

 

20元になった表現を記せ。

 

21何に対して腹をたてえいるのか。

 

22

 

22

 

4段

p224

24

 

25

 

26

 

27

 

28

 

5段

p226

29

 

30なぜ狼狽したか。

 

31

 

32弁解

 

33防腐

 

p227 

34なぜか。

 

35何をまえいたか。

 

36なぜか。

 

37殺意のこめられた行為とはどんな行為か。

概要   時      1976年

     場所     どぶ川

     登場人物   人々 仔象

     事件     仔象が燃える

 

構成

 

 

 

 

2 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

掘り割り

古いコンクリートの橋 泥 汚水

古自動車

街路樹 動く

大きく動く

三人か十人

水面の変化

裂け目

木の幹=

枝  =

骨=起き上ろう

泥の

起き上がる

飢えた

仔象=上る 腐る

這いあがる 立つ

歩き出す

掘割の上

 

 

 

 

 

 

仔象=振り向く

水が滴る。体が傾く。空洞化

仔象=感謝 燃える

 

訳のわからないもの

新しい道路  セールスマン 集金人

子ども キャッチボール

 

 

気にとめない

公然の秘密 見て見ぬふり

 

 

 

 

錯だ

息をひそめる

 

「驚いた話だ。」

「しらばっくれんじゃない。」

 

 

いらだつ会話

「幻想だ。」「象の化石は日本にもある。」

「1黙できない。」

「象がいることは誰もが知っていた。」

公然の秘密

「いるはずのないものがいたって、いないのも同然だ。」

 

 

誰もが狼狽

「可哀そう。」

何か投げる マッチを投げる

殺気 弱者への愛には殺意があるう

 

 

 

 

 

 

 人々の反応

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主題 公然の秘密による安定という構造により人は存在している。

 

「公然の秘密」誰もが知っているのに、皆が暗黙のうちに秘密にしていること。

解答

 

一 漢字練習

1 疲 2 てすり 3 おすい 4 皮膜  5 がいろじゅ 6 湧く

13 きれつ 14 露出 15 や 16 ほほえ 17 余地 18 うそ 19 腐

20 無邪気 21 偶然 22 は 23 あご 24 撒く 25 哀  26 いらだ

27 ほろ 2

一 

1 いずれは取り壊されて、掘り割りの中に埋められてしまう。

2 現代社会が必要としているものの象徴。

3 一休みすること。 4 すでに使われなくなったもの。

5 おおい包んでいる膜。

6 街路樹が実は生きている何かである。

7 掘り割りの街路樹が動いて見えるのは仔像が動き始めたせい。

8 誰もが知っていることなのに秘密であることが建前になっている。

9 動くものの正体を口にする者が一人でも出ると、「公然の秘密」とおうバランスが崩れるから。

10 やせ細った比較的大型の動物。 

11 「公然の秘密」であるものが見物人の前に姿を表そそうとしているさま。

12 死に際の苦しみ。

13 あがくこと。 14 ばらばらにくだけて、それで終わり。 

15 (1)「仔象」であることをすでに知っていた。(2 )緩やかさと狂暴差を併せ持っている。

16 入り込めることのできる場所。 17 知っているのに知らないふりをする。

18 仔象であることは知っていたから驚かないが、動き出したことには驚いたから。

19 仔象はとても上までは上れないだろうということを期待している。

20 腐っても鯛(本当によいものはだめになったようでもそれなりの価値があるということのたとえ)

21 仔象はいるはずなのだがいることはすでに秘密に決められているから。

22 いつわったりかざったりする気持ちがなく素直なこと。

23 同情を求めて切に願いたのむところ。

24 思い通りにならなくていらいらする感じだ。

26 無視して相手にしないこと。

27 ものをみるのに邪魔になること。

28 先に決めること。

29 一時的に途中でとぎれること。

30 仔象が「公然の秘密」のままであることや、消滅してほしいというほうに集約されようとしていた時だった。

31 形だけ残って中身がなくなること。

32自分のした言動のいいわけとすること。 33 腐るのを防ぐこと。

34 餌を与えてもらったことがうれしかったから。

35 仔象の中でマッチに引火しても燃えあがること。

36 マッチ棒やガスライターを食べつづける仔象をみているうちに、消滅を願う本心が表面化してきたから。

37 飢えた仔象に対し、火のついたマッチやガスライターを与えて、仔象が燃えるのを見ること。