鞄 安部公房
語釈
1
雨の中をぬれてきて、そのままずっと乾くまで歩きつづけた、といった感じのくたびれた服装で、しかし目もとが明るく、けっこう正直そうな印象を与える青年が、私の事務所に現れた。新聞の求人広告を見たというのである。
なるほど、求人広告を出したのは事実である。1しかし、その広告というのが、なにぶん半年以上も前のことなのだ。今ごろになって、ぬけぬけと応募してくるというのは、いくらなんでも非常識すぎる。まるで採用されないために、今日まで応募を引き延ばしたと言わんばかりではないか。
あきれてものも言えないでいる私を2尻目に、
「やはり、駄目でしたか。」
と、むしろほっと3肩の荷をおろした感じで、来たときと同じ4唐突さで引き返しかけるのだ。5はぐらかされた私は、ついあわてて引き留めにかかっていた。
「まあ、待ちなさい。6私だってこだわるのが当然だろう。なぜ半年も前の求人広告に、7いまさら応募する気になったのかな。そこのところを、納得できるように説明してもらいたいね。納得できさえすれば、それでけっこう。ちょうど8欠員ができて、新規に9補充も考えていた10矢先だし、11考慮の余地はあるんだよ。いったい、どういうことだったのかな。」
「さんざん迷ったあげく、一種の12消去法と言いますか、けっきょくここしかないことが分かったわけです。」
言い方によっては、かなり思わせぶりになりかねない13口上を、青年はさりげなく言ってのけ、14私も妙に素直な気持ちになっていた。
「具体的に言ってごらんよ。」
「15この鞄のせいでしょうね。」と、相手は足元に置いた、職探しに持ち歩くにはいささか不似合いな――赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそうな――大きすぎる鞄に視線を落とし、「ぼくの体力とバランスがとれすぎているんです。ただ歩いている分には、楽に運べるのですが、ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目なんです。おかげで、選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、ぼくの行き先を決めてしまうのです。」
私はいささか16気勢をそがれ、
「すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか。」
「鞄を手放すなんて、そんな、17あり得ない仮説を立ててみても始まらないでしょう。」
「手から離したからって、べつに爆発するわけじゃないんだろう。」
「もちろんです。ほら、今だってちゃんと手から離して床に置いている。」
「分からないね。なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか……。」
「無理なんかしていません。あくまでも18自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんな馬鹿なことができるものですか。」
「うちで採用してあげられなかったら、どうするつもり。」
「振り出しに戻ってから、またあらためてお願いに上がることになるでしょうね。地形に変化でも起きないかぎり……。」
「しかし、君の体力に変化が起きるとか、鞄の重さに変化が起きて、ぜんぜん歩けなくなるとか、19宅地造成で新しい道を選べるようになるとかすれば……。」
「そんなにぼくを雇いたくないんですか。」
「可能性を論じているだけさ。君だって、もっと自由な立場で職選びができれば、それに越したことはないだろう。」
「この鞄のことは、だれよりもぼくがいちばんよく知っています。」
「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか。」
「まさか、そんなあつかましいこと……。」
「なかみは何なの。」
「大したものじゃありません。」
「20口外をはばかられるような物かな。」
「つまらない物ばかりです。」
「金額にしたら、いくらぐらいになるの。」
「べつに貴重品だから、21肌身離さずってわけじゃありません。」
「しかし、知らない人間が見たら、どう思うかな。君はそう、22腕っ節の強いほうでもなさそうだし、ひったくりや強盗に目をつけられたら、23お手上げだろう。」
青年は小さく笑った。私の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ているような、24年寄りじみた笑いだった。笑っただけで、べつに返事はしなかった。
「25ま、いいだろう。」私も負けずに、声をたてて笑い、26額に手をあてがって相手の視線を押し戻し、「べつに言い負かされたわけじゃないが、君の立場も、なんとなく分かるような気がするな。いちおう、働いてもらうことにしよう。それにしても、その鞄は大きすぎる。君を雇っても、鞄を雇うわけじゃないんだから、事務所への持ち込みだけは遠慮してもらいたい。その条件でよかったら、今日からでも仕事を始めてもらいたいんだが、どうだろう。」
「けっこうです。」
「勤務中、鞄はどこに置いておくつもり。」
「下宿が決まったら、下宿に置いておきます。」
「27大丈夫かい。」
「どういう意味ですか。」
「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな。身軽になりすぎて、途中で28脱線したりするんじゃないのかい。」
「下宿と勤め先の間なんて、道のうちには入りませんよ。」
青年はやっと、29表情にふさわしいさわやかな笑い声をたて、私もほっと肩の30荷をおろした思いだった。知り合いの周旋屋に電話で紹介してやると、彼はさっそく31下見に出向いて行った。ごく自然に、32当然のなりゆきとして、後に例の鞄が残された。
2
なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた。ずっしり33腕にこたえた。こたえたが、持てないほどではなかった。ためしに、二、三歩、歩いてみた。もっと歩けそうだった。
しばらく歩きつづけると、さすがに肩にこたえはじめた。それでもまだ、我慢できないほどではなかった。ところが、急に腰骨の間に背骨がめり込む音がして、そうなるともう一歩も進めない。34気がつくと、いつの間にやら私は事務所を出て、急な上り坂にさしかかっているのだった。方向転換すると、また35歩けはじめた。36そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない。いくら道順を思い浮かべてみても、ふだんはまるで意識しなかった、坂や石段にさえぎられ、ずたずたに寸断されて使いものにならないのだ。やむを得ず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしかなかった。そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった。
べつに37不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。38私は嫌になるほど自由だった。
二 次の1〜38の問いに答えよ。
1この位置にあるのはなぜか。
2意味を辞書で調べよ。
3なぜか。
4意味を辞書で調べよ。
5なぜか。
6どのようなことにこだわっているのか。
7「青年」はその理由を短くどう述べているか。
8意味を辞書で調べよ。
9意味を辞書で調べよ。
10意味を辞書で調べよ。
11どのようなことを言いたいのか。
12意味を辞書で調べよ。
13意味を辞書で調べよ。
14なぜか。
15「青年」がこの鞄をいつも手にしていたのはなぜか。青年が語っている部分から抜き出せ。
16なぜか。
17と言うのはなぜか。
18どのようなことか。
19何を具体的に言い換えた言葉か。
20「どのような意味で、どのような物が想像されているか。
21意味を辞書で調べよ。
22意味を辞書で調べよ。
23意味を辞書で調べよ。
24どのようなものか。
25青年を雇うことにした際に条件として提示したことを説明せよ。
26「私」がこのようにしたのは「青年」がどのような様子だったからか。一文で抜き出せ。
27どのようなことをこう言ったのか。
28 どのようなことをこう言ったのか。
29どのような表情か、抜き出せ。
30意味を辞書で調べよ。
3意味を辞書で調べよ。
32意味を辞書で調べよ。
33意味を辞書で調べよ。
34「私」がどんな状態であることがわかるか。
35「歩き始めた」と書くのとどう違うか。
36簡潔に説明せよ。
37なぜか。
38どのような自由か。
概要
時 1975年
場所 都会
登場人物 私 青年
事件 鞄を持って歩く
構成
1 2 |
節 |
ものも言えない 引き留める 具体的には? 鞄を持たずにいれば? 手を離すと爆発 なぜ無理して? なかみは何? 口外をはばかられるような物? 金額にしたらいくら? 11雇うが鞄を持ち込まないように 鞄を持ち上げ歩き始める 歩ける方向に歩く 嫌になるほど自由 |
私 |
やはりだめでしたか 一種の消去法 この鞄のせい あり得ない仮説 今だって手を離している 無理でなく自発的大したものじゃない つまらない物 貴重品じゃない 下宿に置いておく |
青年 |
主題 鞄のもたらす自由は心地よい
鞄を持つ ー鞄の指示通りに歩く=道を選択しない自由
鞄を持たないー道順を選択する =不自由
一 次の漢字の読みを記し、カタカナは漢字に直せ。
1 カワ( )く
2 ぬけぬけとオウボ( )した
3 尻目
4 同じトウトツ( )さで
5 ナットク( )できるように
6 新規にホジュウ( )も考えていた
7 コウリョ( )のヨチ( )
8 ミョウ( )に素直 9 カバン( )
9 キセイ( )をそがれ
10 馬鹿 11 キンムチュウ( )
12 途中でダッセン( )する
13 コシボネ( )の間にセボネ( )がめり込む
14 ホウコウテンカン( )
15 ミチジュン( )を思い浮かべ
16 ミチビ( )てくれる
17 イヤ( )になる
18 ヤト( )う
19 周旋屋
解答
二
1 服装と印象が相反するから。
2 瞳を動かすだけでうしろをみやること。
3 面倒な説明から当面解放されたから。
4 だしぬけでその場にそぐわないこと。
5 採用をあまりにもあっさりあきらめたから。
6 半年以上も前の求人広告に今頃応募してきたのはなぜかということ。
7 「一種の消去法」
8 定員にまだ達していないこと。
9 補って不足を満たすこと。
10 何かをしようとする丁度その時。
11 採用の余地があるということ。
12 多様な選択のある場合、可能性の低いものから 順次消していき最後に残ったものを選ぶ方法。
13 口で言うさま。
14 青年の様子やさりげない言い方から内容が本物に思えたから。
15 「あくまでも自発的〜やめないのです。」
16「鞄のせい」という拍子抜けするような答が返ってきたから。
17 それ以外の歩き方は相像できなかったため。
18 積極的に道の選択からの自由を求めている。
19 「地形に変化」という言葉。
20 口に出して言うのはためらわれるようなもの。例 「赤ん坊の死体」
21 肌と身を重ねて肌を強調した言い方。
22 腕力の強さ。
23 全くどうにもしようがなくなること。
24 なにもかも分かっているような落ち着いた笑い。
25 鞄を事務所に持ちこむことはしないという条件。
26 私の額に開いた穴をとおして、どこか遠くの風景でも見ている。
27 下宿から会社まで鞄無しでたどりついたこと。
28 鞄によって決められる青年の道。
29 「目元が明るく、結構正直そうな印象」
30 責任や負担から解放されて楽になること。
31 下見分。
32 あたりまえ。
33 腕に外からの刺激を強く感じた。
34 主体性を失われ鞄によって動かされている状態。
35 歩ける+はじめた=あるくことができるようになった
単に、あるきはじめたのでhない。
36 鞄を持って歩くことで、坂や石段にさえぎられ思い浮かべた道順が役に立たなかったから。
37 どこに歩いて行けばよいのかは靴が導いてくれるから。
38 選択からの自由。
一
1 乾 2 応募 3 しりめ 4 唐突 5 納得 6 補充 7 考慮 余地
8 妙 9 鞄 10 ばか 11 勤務中 12 脱線 13 腰骨 14 方向転換名
15 道順 16 導 17 嫌 18 雇 19 しゅうせんや 20 紹介