人間はどこまで動物か                       日高敏隆

語釈

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 戦後いつのころだったか、動物としての1人間のことをカタカナでヒトと書くことが始まった。

 動物には種ごとに学名がつけられており、人間の学名はだれもが知っているとおり@ホモ・サピエンスである。生物分類学の2開祖であるスウェーデンのAカール・フォン・リンネが、人間を哺乳類霊長目の動物の一種に分類して、こういう学名をつけた。この学名をもつ動物としての人間を、ヒトと呼ぶことになったのである。

 人やひとでなく、なぜカタカナのヒトになったのかというと、それは他の動物の3例にならったからである。戦後、あまりむずかしい漢字を使うなという動きの中で、当用漢字などが定められていった。おそらくその4一環として、動物や植物の名前は漢字やひらがなでなく、カタカナで書くという習慣が定着していった。

 かつてB吉田茂首相が「国会には猿がいる。」といって5物議をかもしたときも、新聞には「国会にはサルがいる。」と報道された。

 だから、「動物として」ということを強調するためには、カタカナでヒトと書く必要があったのである。

 6これは7たいへん結構なことであった。人間もサルやイヌと並んでヒトという動物であることを示してくれるからである。ぼくもかつてこの書きかたをしばしば使っていた。

 けれどたちまちにして、8事態は奇妙な方向へ展開していった。9「ヒト」と「人間」ということばが区別して使われるようになったのである。

 

(注)@ホモ・サピエンス 「知恵ある人」の意。ラテン語。Aカール・フォン・リンネ 1707〜1778年。博物学者。B吉田茂 1878〜1967年。政治家。1946〜1954年にかけて五次にわたって内閣を組織しした。

 

一 次のカタカナは漢字に直し、漢字には読み仮名を記せ。

 

1 分類学のカイソ 2 そのイッカンとして 3 ブツギをかもした 4 キミョウな方向へ

 

二 次の1〜の傍線部の問いに答えよ。

 

1 なぜ「カタカナでヒトと書く」事が必要だったのか、十五字以上二十字以内で抜き出せ。

 

2 辞書で意味を調べよ。

 

3 辞書で意味を調べよ。

 

4 辞書で意味を調べよ。

 

5 辞書で意味を調べよ。

 

6 指示内容を記せ。

 

7 こう感じたのはなぜか。

 

8 どのようなことか。

 

9 (1)その背景について延べよ。

 

  (2)事態の展開に対する筆者の違和感が読み取れる語句を抜き出せ。

 

1 解答

一 1 開祖 2 一環 3 物議 4 奇妙

二 1 動物としてというため。2 一流派のもとを開いた人。

  3 同じようにする。4 全体としてのつながりの中の一部分。

5 人々の議論と世間の騒ぎ。

6 動物としての人間をカタカナで「ヒト」と書くようにしたこと。 

  7 人間も動物であることを示してくれるから。8 「ヒト」と「人間」が区別して使われるようになっ

たこと。9(1)人間はたしかに動物だが単なる獣としての動物ではないと考えた。

    (2)「ナンセンスな対比」

人間は生物学的にはたしかにヒトという動物である。けれど人間はヒトにはとどまらない。人間には動物と違って文化がある。言葉があり、思想がある……。人々の認識はこんなふうに発展していった。そして「1ヒトと人間」とか「ヒトと動物」というナンセンスな対比も、当然のことのように口にされる始末になった。

 2それと並んで、3「人間はどこまで動物か?」という表現が人々に大きな共感をもって迎えられ、一種の流行語となっていく。

 生理学や医学が進歩して、4人間の体が他の「動物」の体とほとんど違わないことがわかってくるにつれ、そしてチンパンジーの心理や知能の研究が進むにつれて人間と「動物」の差がどんどん小さくなっていくと、人間と動物はどこが違うかが次第にわからなくなっていった。人間と「動物」を区別する重要な違いと考えられていた「道具の使用」がチンパンジーに認められると、違いは「道具の製作」だ、ということになった。けれどまもなく、チンパンジーも道具を作ることがわかってしまった。

 そうなってくると5最後のとりでとして頼れそうなのは言語能力や6抽象能力であった。しかしこれもチンパンジーの言語能力や抽象能力が明らかにされるにつれて7くずれていった。そしてついに、@『サルはどこまで人間か』とかA『チンパンジーの政治学』とかいう本まで現れることになる。

 8このような経過の中に一貫して流れているのは、9「人間は単なるヒトではない。」という強固な信念である。人間と「動物」は違わなくてはならないのだ。

 10たしかに人間は他の動物とは違う。けれどイヌだって他のすべての動物と違う。ゾウもキリンもそうである。だからこそわれわれはゾウやキリンやイヌを認識できるのだ。11動物どうしの間のこの「違い」と、動物と人間との「違い」との間に、どのような違いがあるのだろうか?

 

(注)@『サルはどこまで人間か』 江原昭善変。1989年刊行。A『チンパンジーの政治学』 フランス・ドゥ・ブアールの著書。邦訳が『政治をするサル』(西だ利定訳)とう署名で1987年に刊行されている。

 

一 次のカタカナは漢字に直し、漢字には読み仮名を記せ。

 

1 人々のニンシキ 2 ナンセンスなタイヒ 3 口にされるシマツだ 4 シダイにわからなく

 

5 チュウショウノウリョク 6 イッカンして流れている 7 強固なシンネン

 

二 次の1〜11の傍線部の問いに答えよ。

 

1 なぜナンセンスなのか。

 

2 指示内容を記せ。

 

3 なぜか。

 

4 「  」はなぜついているか。

 

5 どういう意味か。

 

6 どのようなことを意味するか。

 

7 何を受けているのか。

 

8 どのような経過か。

 

9 「単なる」にこめられた人々の「動物」に対する認識はどのようなものか。

 

10 ここで筆者が言う「違い」とはどのようなものか。

 

11 前者と後者に「違い」があると考えているか。

 

 

 

 

 

 

2 解答

一 1 認識 2 対比 3 始末 4 次第 5 抽象能力 6 一貫 7信念

二 1 人間は動物としてのヒトを前提としておりヒトは動物の一種類なのでそれぞれ分けて比較することは

    出来ないから。 

2 人間は単なる動物ではないという認識から「ヒト」と「人間」が区別してとかわれるようになった。。

3 単なる動物ではない「人間」の部分を明らかにしたいと思ったから。

4 ここでいう「動物」に人間が含まれていない事を強調するため。

5 インゲンとヒトが違うことを証明するための最後の頼みの綱。

6 目の前にない物について頭の中でイメージできる力。

7 言語能力や抽象能力が人間とヒトが違うことの証明になりえなかった。

8 人間と動物の違いがわからなくなってきたという経過。

9 人間よりも「動物」が劣っているという認識。

10 考えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問題は1「人間はどこまで動物か?」という問いかけの中にある。「どこまで?」というとき、2スケール(尺度)は一本しかない。一本しかないスケールの上にいろいろなものを並べて、それぞれがどこまで到達しているか? という3発想に問題があるのである。

 アメーバに知能はない。昆虫にもほとんど知能はない。しかしカラスにはかなりの知能があるようだ。ネコやイヌになるともっと知能が発達している。チンパンジーはすばらしい知能の持ち主だ。しかし人間はもっとすごい。4格段に進んでいる──とくらべていく発想だと、どうしても「どこまで」を問いたくなる。

 イヌとネコは同じ食肉類のけものであり、ウシのような草食性の@有蹄類とくらべたら、互いによく似た動物である。けれど、5イヌはいろいろ人間の助けになるようなことをするから、知能の点ではイヌのほうが進んでいるようにみえる。

 しかし人は、「イヌはどこまでネコか?」という問いを発することはない。それは人々が無意識のうちに、イヌとネコはまったく違う動物であることを知っているからである。

6 この違いは同じスケールの上での「どこまで」という違いではなくて、いうなれば7ベクトル(方向)ないしパターンの違いである。たとえば、イヌは群れを作って遠くまで歩きまわりながら獲物を追いかけるようにできた動物だ。彼らにとって歩きまわったり追いかけたりすることは苦痛ではなく喜びである。だから飼い主はどんな雨降りの日にもイヌを散歩に連れていかなければならない。一方ネコはそう遠くまではいかず、獲物の存在を察知したら、気づかれぬようにじっと待ち伏せるようにできている。だからネコを散歩に連れ歩く必要はないし、そもそも本来的に無理である。

 動物行動学の研究が示してくれたのは、どの動物もそれぞれの個体が自分自身の子孫をできるだけたくさん8後代に残そうとしていることは同じだが、そのやりかたは種によってまったく違うということである。

 イヌはイヌなりの、ネコはネコなりの、そしてゾウはゾウなりのやりかたで生き、それぞれに子孫を残してきた。自分自身の子孫を残すという点ではまったく同じだが、そのやりかたはまったく違うのである。同じスケールの上で、どれがどこまで、という問題ではない。9「ゾウはどこまでライオンか?」という問いは存在しえないのである。そしてそのことは10だれでも無意識のうちにちゃんと知っている

 それなのに人は、なぜ「人間はどこまで動物か?」と問いつづけるのだろう? そこには常に11一本のスケールの上での到達度を問題にしようとする近代の発想の呪縛があるようにしか思えない。

 

(注)@有蹄類 ほ乳類で蹄をもつもの。

 

一 次のカタカナは漢字に直し、漢字には読み仮名を記せ。

 

1 コンチュウ 2 カクダンにすすんでいる 3 有蹄類 4 エモノをおいかける 5 クツウではなく

 

6 サッチしたら 7 待ちブせ 8 コウダイに残そう 9 トウタツド 10 呪縛

 

二 次の1〜11の傍線部の問いに答えよ。

1 どのようなことか。

2 文脈上同義の語を記せ。

3 それは端的にどういう点が問題なのか。

4 辞書で意味を調べよ。

5 どんなことをするか、具体的に記せ。

6 どういう違いか。

7 (1)文脈上同義の語を記せ。

  (2)「スケール」と「ベクトル(方向)ないしパターン」と言う語をどう使い分けているか。

8 辞書で意味を調べよ。

9 なぜか。

10 どういうことか。

11 なぜ「近代」は「一本のスケールの上での到達度を問題にしようとする」のか。

 

3 解答

一 1 昆虫 2 格段 3 ゆうているい 4 獲物 5 苦痛 6 察知 7 伏 8 後代

  9 到達度 10 じゅばく

二 1 人間と動物は同じではないという視点に立つ。2 基準。

  3 一本しかないスケールで判断しようとしている点。

  4 特別に程度が著しいこと。 5 盲導犬。警察犬。災害救助犬。麻薬探知犬。牧羊犬。

  6 イヌとネコの違い。

  7 (1)性質。(2)「スケール」大きさの程度をはかるものさし、その尺度。

    二次元的な平面上での距離を測る場合に用いる。平面的な広がり。

    「ベクトル」大きさと方向とを持つ量。三次元的な空間を前提とする。

「パターン」特長によって分類した型、様式。 

「ベクトル」「パターン」空間的な広がりの中で表現できるもの。

  8 後世。後の時代。

  9 ゾウとライオンは違うやり方で子孫を残す違う動物で、同じ基準でははかれないことを当然のことと

して受け止めているから。

  10 ゾウとライオンは全く別の動物であること。

  11 近代では、経済効率、数字が重要視され唯一のスケールとされるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3 

 

 

 

 

人間 文化 言語 思想

「人間はどこまで動物か?」          

          体

          心理・知能

          動物の差

          道具の使用・制作

          言語能力・抽象能力

 

「人間はどこまで動物か?」          

一本のスケールで到達度を見ることに問題

 

ベクトル パターンの違い

 

「人間はどこまで動物か?」と問い続ける          

 

一本のスケールで到達度を見ることに問題

 

人間

動物としての人間

 学名の動物としての人間

 サルイヌ ヒト

 

ヒト ヒトという動物 

 

ほとんど違わない

差がない

小さくなる

チンパンジーもする

チンパンジーいもある

 

(例)アメーバ 昆虫

   烏 ネコ イヌ

   チンパンジー

イヌ 遠くまで歩く

ネコ 待ち伏せ

イヌなり ネコなり ゾウなり 

動物

構成

 

 

主題 「人間はどこまで動物か?」には、一本のスケールで到達度を見ることに問題がある。

 

筆者 日高敏隆 1930〜20009年 動物行動学者

 

        アガハチョウをはじめとする生物の研究で知られる。

 

        軽妙なエッセイに定評

 

       『チョウはなぜ飛ぶか』『動物と人間の世界認識』

 

        本文 2004年刊『人間はどこまで動物か?』に収められている。