Novel

ある北国の物語改_9

 シグ・テルトゥルは、クローヴルの南から山を越えてやってきた出稼ぎ労働者だ。男性的な吊前に反して三十路に行くか行かないかの気骨ある女性であり、造船関係の職に就くだけあって大柄だ。正しくサイの証言に一致する人物である。
 彼女は青皮造船所と白鳥造船所が一堂に会した聖堂の中で、ただ一人中央の教壇の前に立って、その場の全員の視線を一身に受けていた。
「シグ・テルトゥル、告発がある。お前が燃料を盗んだのか?《
 青皮造船所と白鳥造船所の立会人となった、赤犬織布所の所長オクタヴィア・トカチョーヴァが言った。シグは何も言わなかった。
「何も言いたくないならそれでいいとも、だがこれだけは念頭に入れておくといい。お前が何も言わないと、我々はお前を庇うことすらできなくなると《
 オクタヴィアの言葉に、シグはこぶしを握り締めた。やがて集会は裁判の様相を呈してきて、シグが属する白鳥造船所が彼女を擁護し、逆に白鳥造船所に疑われる形で招集された青皮造船所がシグを糾弾する流れとなっていった。
「そもそも、彼女を軍に突き出せばそれで終わる茶番ではないか!《
「茶番だと! 貴様、同じ立場になっても同じことが言えるのか《
「疑われたこちらの身にもなってください!《
 お互いに鬱憤が溜まっていた。それが今回の事件で噴出したという形だろう。シグが取引していた当時のことを証言して以降、その場の空気にのまれて黙り込んでいたサイは耳を覆いたくなった。サイには聞き取れないほどの罵声が飛び交っていることもそうであるし、なまじ青皮造船所の事情も、仲間を庇いたい白鳥造船所の気持ちも察するに余りあるからだ。
 このままではお互いに傷を抉るだけ抉りあって、乱闘騒ぎになる。そう思ってサイは口を開こうとした。
「落ち着けお前たち!《
 オクタヴィアの一喝に、一瞬聖堂がしんと静まり返る。その刹那を突くように、オクタヴィアは言葉を続けた。
「いいか、ここがどこかよく思い出せ。お前たちのその様は、女神さまにお見せできるものか?《
 縮こまったシグを背後にかばいながら、オクタヴィアはさらに続けた。
「シグの身柄は、結論が出るまで我々赤犬織布所が一時預かりとする《
 言外によく考えろと言い放って、オクタヴィアは口を閉ざした。ここで聖堂を出て行かなかったのは、放置しておくと聖堂が破壊されるかもしれない、という危機感があったからだろう。
 再び喧々諤々の議論が始まったが、今度は暴力的なものには発展しなかった。
 シグを一体どう扱うか、議題は終始それに尽きた。無論青皮造船所も白鳥造船所も、敢えてシグを憲兵に突きだそうとはしないし、もし憲兵の捜査が彼女に及んだ場合には彼女 をかくまうつもりですらいたようである。
 憲兵が乗り込んでくる、その瞬間までは。
 上意に聖堂の扉が乱暴に開かれたかと思うと、憲兵達が組織立った動きで侵入してくる。職人達は身の危険を覚えたか、それとも別の意思でか、教壇の方へと集まっていった。サイは椅子の間に身を隠して、騒動をやり過ごそうとしていた。そのおかげで憲兵を指揮するように、後方からゆっくりと現れた人物の顔がよく見えた。
 石炭のような乾いた黒い目に黒髪。低い背ではあるが、堂々としているせいか実際よりも高く見える。理知的で、どこか諦念を浮かべたようなその人は間違えるはずもない。ノリネン軍曹だ。
 彼は憲兵が配置についたのを見ると、口を開いた。
「皆様、お集まりのようで《
 ノリネン軍曹の言葉を遮るように、白鳥造船所の所長ヴィーカが怒鳴った。
「何をしに来た!《言ってから、はっとしたようにキールピ達青皮造船所の方を向いた。
「まさかお前達、裏切ったのか!《
「言いがかりは止めてもらえないか!《
 そのまま言い合いが起こりかけるのは、銃声によって防がれた。
「口論は結構ですが、こちらの話も聞いていただきたい《
 有無を言わさぬノリネン軍曹の調子に、聖堂がしんと静まり返る。それに気をよくしたのか、ノリネン軍曹は口元にうっすらとした笑みを浮かべると、側にいた憲兵に一言、やれ、と言った。
 憲兵達は職人達を押し分け、その向こうにいたシグの腕を掴んだ。シグがそれに悲鳴を上げて抵抗する。やめないか、この×××め! そう怒鳴るオクタヴィアの罵声も聞こえた。
 憲兵達は、藻掻くシグを無理矢理に聖堂の外へ連れ出そうとした。助けて! 離して!悲痛なシグの叫び声が響く。
「墜ちたものだな。罪人には言い訳もさせないってのかい《
「……ええ《
 吐き捨てるようなオクタヴィアに対して、油断なく銃を構えながらノリネン軍曹は言った。声を出すまでの沈黙に、彼が何を思っていたのかは誰もわからない。何か抵抗を示したら撃つと言わんばかりの態度に、職人達は委縮してシグを助けることもままならない。サイはシグを助ける時機を窺うものの、隙のなさに動くことが出来なかった。
 そうして、そのままシグは聖堂の外に連れ出されていった。
 聖堂の扉の隙間から、シグの声が遠ざかっていく。その先にはきっと絶望しかないだろうことが想像されて、聖堂の中は音が殺されてしまったかのように静まり返っていた。
 そのまま、必死な様子のシードルとナージャが駆け込んでくるまで、口を開く者はいなかった。
 いつの間にかいなくなっていたと思われたシードルが、ナージャを伴って戻ってきたのだった。
「シグは、シグ・テルトゥルは?《
 転がり込むように聖堂に駆け込んで来て、咳き込みながらシードルが言った。聖堂の中にシグの姿がないのを見て取って、二人はざっと顔を青くした。今しがた二人が駆け込んできた扉を見て、そちらのほうへ駆けていこうとする。あまりにも必死なその様子に、二人と年の近いソーニャがなんなんだよ、と声を漏らした。
「違うんです、間違いなんです《
 うわごとのように、シードルが言った。彼の手は開きかけの扉の取っ手をつかんでいた。
「『シグ』、シグじゃない《
 聖堂の外を窺って、暗澹とした返事をしたのはナージャだった。 「何を言っているんだ《
 二人の言葉に、戸惑ったようにヴィーカが言った。そして、聖堂に集まった者の視線が、サイへと向いた。