あっという間に一人路地裏に取り残される形となったフィリクスは、遠ざかるサイの背中に向かって声をかけた。
「ちょっと待ってください!《
尋常ではなかったサイの様子に、追いすがるようにフィリクスもサイの後を追う。しかし、サイの飛ぶような足の速さには敵わない。気がつけばサイの姿は見えなくなっていて、フィリクスは一人ぽつねんとその場に立ち尽くした。
放置して大丈夫だろうかと思案する。サイが一瞬浮かべた、切羽詰まった表情が気に掛かって仕方なかった。宿舎に帰る途中、黒猫亭によるのでいいだろう。考えを巡らせた結果、そんな結論に落ち着いた。
さて、結果としてサイは黒猫亭に無事たどり着けたようである。愚兄によれば、サイは黒猫亭でかなり厚遇されているらしい。アルファードが保護している子ども達はわからないが、マールファは間違いなく心配するだろう。そこまで受け入れている人間の帰りが遅くなったら。それこそ店の外に出て帰りを待ち受けるはずである。
それがないと言うことは、サイは無事に黒猫亭に辿り着くことが出来たと言う推測が成り立つわけだ。フィリクスは宿舎まで歩きながら、そう結論づけた。
論理をこねくり回す前に黒猫亭に直接顔を出せばいい話だが、そも、フィリクスには黒猫亭に顔を出したくない理由が二つほどあった。
一つには、アルファードが保護しているスクルドの子ども達の存在。
二つに、叔母マールファの存在である。
どちらも、母親から敬虔なる女神の教えを説かれた――また別の言葉で、「過激派《と言い換えることも出来るが――フィリクスにとっては疎ましいことこの上なかった。
ノリンと敵対関係にあるスクルドを疎むのは言わずもがなであるが、叔母を疎むのはもっと別の所にあった。
マールファはクローヴルにおいて大多数を占めるルス民族の出身である。それがフィリクスの癇に障るのだった。彼女の夫はケルビム・ノリネン准将。フィリクスの母セラフィマの弟、フィリクスの叔父であった。
「敬虔な《ノリンとして、これは看過できることではなかった。しかし物心ついたときには既に従姉妹のエフィがいて、フィリクスにどうにかできるところを超えていた。かつて父に聞いたところでは、叔父夫婦の結婚は母に大反対されたらしい。当然である。
そんなことをつらつら考えているうちに、宿舎へ辿り着く。門番に敬礼をして、胸元の階級章を見せればすんなり通される。ここに案内された初日は、二度(ふたたび)の集団行動に頭が痛くなったが、任務の都合でアルファードと過ごす訳ではないと知ると気も楽だ。
初めての都会に気分が高まるかと聞かれると、案外そうでもない。どこに行っても人が沈んでいて、陰鬱なのは変わらない。いつもエフィが手紙で語って聞かせてくれるような、刺激的な生活は、ここには見いだせないように思えた。
宛がわれた部屋は六人共同部屋で、二段ベッドが三つ並ぶ。フィリクスはそのうちの自分のベッドに座って、おもむろに手紙を取り出した。少し前に西部に配属されたエフィの手紙は、日頃の憂さ晴らしだったり、先行きの上安だったりする。いかにも明け透けなエフィらしい手紙だった。そんな内容であっても、フィリクスへの気遣いが透けて見えるのだから、エフィは優しい。
新しい出会いはあった? 一番新しい手紙の、その一文が目についた。
「出会いは、あったよ。エフィ《
ぼそりと口に出しても、返す者はいない。独り言は北部の国境警備をしていた頃からのフィリクスの癖だった。
――出会いはあった。紅い髪に、青い瞳をした鮮烈な美女。フィリクス直属の上司、アニーシヤ・コーネヴァ大佐である。
手書きで「司令室《と書かれたドアの向こうで、彼女はフィリクスを待っていた。
「アニーシヤ・コーネヴァ大佐だ。アルファード少佐から話は聞いているだろう《
コーネヴァ大佐に聞かれて、フィリクスは肩をすくめた。
「上辺だけは《
「まあ当分はそれでも構わないだろう。フィリクス・ソロムヴィチ・ノリネン軍曹、貴官には私の下について動いてもらう《
下士官たるフィリクスにはそもそも拒否権がないのだから、姿勢を正して、了解、という他にになかった。
フィリクスが頷いたのを見て、大佐はわずかに姿勢を崩した。
「すまないが、変なことを聞いてもいいだろうか《
「はあ《
「軍曹、どこかで私と会ったことはないだろうか《
「は?《
彼女の言葉通り妙な質問に、間の抜けた声しか出なかった。咄嗟に新手のナンパか、という言葉が脳裏に浮かんだ。けれども、大佐がそれをするとは思えないし、フィリクスはそれを指摘するには少々差し障りのある立場なので、口には出さなかった。
「僕は生まれて初めて東部に来たので、会ったことはないはずです。大佐が北部へいらっしゃったことがあるならまた別ですが《
「私も北部へ行ったことはないな《
フィリクスの言葉に、大佐は考え込むような表情を浮かべて、独語するような調子でこたえた。そしてなにやらぶつぶつと呟いた。
「すまない、軍曹が知り合いにひどく似ていたものでな《
「はあ《
大佐との「謁見《はこんな調子で終わった。彼女はとても美しい人だった。だが、それだけだ。
「それだけの、はずだ《
まさか叔父の二の舞だなんて考えたくもない。彼女に言われるがまま、斥候のような役割を受け容れてしまったのは立場故だ。そう思いながら、フィリクスはベッドに横になって、固く目を閉じた。