Novel

ある北国の物語改_7

 ふらついた気分のまま思い浮かぶのは、あの日シードルとともにバルナの所へ行った記憶だ。それを思い出して、サイは黒猫亭とは逆の方向へ足を向けた。少し路地を行ったところで、上意に誰かにぶつかった。男はなにやら大事そうにトランクを抱えていた。見覚えのあるトランクだ。瞬きの間にサイは体の向きを変えて、男を追いかけていた。
 あのトランクをどこで見たことがあるのか。考えるまでもない。あれはクローヴルに着いたその日に盗まれた、サイ自身のトランクだ。あの中に入っていたものを思い出して、自然と駆ける足が速くなる。
「止まれ! 返せ!《
 サイの怒鳴り声に、男は一瞬こちらを向くと、ぞっとしたような表情を浮かべて脇道に入り込んだ。サイもすぐにその後を追う。びゅうおうと強い風が吹いて、サイを邪魔する障害物を吹き飛ばしていく。
 トランクの中には、両親の遺品を入れていた。あのときは帰ってこないと諦めたけれども、今は違う。そう思うだけで、地を蹴る足の力が増す。それに、遺品を見ず知らずの、しかも金目当ての人間に触れられているかと思うと、嫌悪と怒りでどうにかなってしまいそうだった。
「雲下(ウンカ)が。それはお前が触れていいものじゃない!《
 サイは叫んだ。怒りのあまりそれを標準クローヴル語で繕うことが出来なかった。路地裏に一等強い風が吹きつける。
 男には通じなかったろうが、それでいいとすら思っていた。寧ろ男がこれを聞き取っていたら、それこそ腰に提げたレイピアを抜いて、衝動のまま彼を殴り殺していただろう。
 サイにとって両親の――特に父との繋がりは聖なるものだった。男はそれを土足で踏みにじったのだから、そのくらいの罰則はあってしかるべきだとサイは思っていた。走り続けて高揚した頭は、まともな判断を下せなくなっていた。
 そうやって男の処罰を考えていたせいだろうか。視界から、唐突に男の姿が消えた。
 目的を見失った体は蹈鞴(たたら)を踏んだ。情動に任せて、近くの木屑を蹴り飛ばす。息は上がっていて、膝は僅かに震えていた。それでも収まらない感情がぐるぐると胎の中でとぐろを巻いていた。
「くそが《
 低く呟いて、もう一度木片を踏みしめる。湿気た木は、音も立てずにひびを入れた。まるで骨みたいだな。冷静さを取り戻した頭でぼんやりと思った。
 ゆるりと周囲を見渡せば、見覚えのない土地に来てしまっていた。何せ男を追いかけるのに夢中で、周りのことをかえりみている余裕などなかったのだ。
 ――とりあえず、歩こう。
 歩いて、分かるところに出れば僥倖。そうでなくても、誰かその辺にいる人間に金子を渡して道を教えてもらえばいい。
 そうして、いくらも歩かない内だった。上意にどこかで聞いたことがあるような声がうっすらと聞こえてくる。知り合いかもしれない。そう思ってサイはその声のする方へ歩き出した。
「ええ、シグ、後は君が手筈通りに事を進めてくれれば《
 物陰からそうっと様子を窺うと、そこにいたのは北部にいるはずのフィリクスだった。誰かと話しているようだが、相手の声は聞こえない。せいぜい分かるのは相手がフィリクスよりも背が高いと言うことぐらいだろうか。
「まあ、怖じ気づくのは分かります。大丈夫ですよ、ちゃんとばれないようにしますから《
 その言葉の後、短いやりとりが二三あって、二人は何事もなかったかのように別れていった。一人になったフィリクスがこちらに向かって歩いてくる。サイはこれ幸いとフィリクスの前に姿を現した。
「ノリネン伊長。私よ、ワン・サイよ。だからその拳銃から手を離してもらえる?《
 突然サイが現れたものだから、反射的に銃を構えようとしたのだろう。フィリクスの左手は提げられた拳銃を掴んでいた。
「あ、ああ。これは失敬。ですが僕は今、伊長ではなく軍曹です《
「これは失敬、ノリネン軍曹《
 サイがおどけて言うと、フィリクスの気配が僅かに緩んだ。
「それで、ワンさんはこんなところでどうしたんです《
「ちょっとひったくり犯を追いかけていたらね、道に迷っちゃって《
「それは憲兵の仕事でしょう《
 サイの言葉を聞いて、フィリクスは半眼になった。その口調はたしなめるようにも咎めるようにも、なにかを聞き出すそぶりにも聞こえた。
「次からは気をつけるわ《
 サイはフィリクスの視線を受け流すように横を向いた。そして心の中で、次があればね、とも付け足した。ややあって、フィリクスが息を吐く音が聞こえた。
「送っていきますよ。黒猫亭に滞在しているのでしょう《
「必要ないわ《
 フィリクスの提案が提案したその次の瞬間に、サイは拒絶の言葉を口に上せていた。それにフィリクスが驚いたような表情になるが、構ってはられなかった。よくよく考えれば、この状況そのものがサイにとって良からぬものであった。
「一人で帰れるわ。それじゃあ《
 それだけ言うと、サイはさっと踵をかえして駆けだした。背後でフィリクスが何かを言っている気配がしたが、気にしている余裕はなかった。瓦礫や木片が上自然に脇へ寄せられた道を選んで走れば、元の大通りへ辿り着く。
 そこへ来て、ようやくサイは息をつくことが出来た。
 サイは男嫌いだ。嫌い、と言うよりも寧ろ恐怖症に近いかもしれない。身内として認識している人物ならともかく、他人に近寄られるのはひどく苦手なのだ。逆にサイから近づいて行くのは平気だった。なぜならばその場合サイが「無害《だと認識した相手にしか近づかないからである。その意味では、ノリネン軍曹もサイに「無害《と認識されていた。だが、人気のない暗い路地で、二人っきりになる危険をサイは身をもって知っていた。
 ――帰ろう。
 思いついたまま、黒猫亭までの道を辿り始める。とにもかくにも、早くベッドに倒れ込みたい気持ちだった。