「どうした《
息を潜めた声で問うアーツに、何かいる、とオンニへ告げたそれを繰り返した。
「近いか《
銃を構えながらアーツが再び問う。アルファードは答えるために耳を澄ませた。
「四足(しそく)だ。……離れようとしている《
「方向は《
「あっち《
そりから遠ざかろうとする獣の方向を指差したアルファードの手に、小振りの銃が手渡される。いざとなれば手伝えということだろう。それに一瞬オンニが渋い顔をしたが、何も言われなかったのでアーツの後を追ってそりを下りた。
足音を立てないようにそっと近づく。そこにいたのは、子どもを咥えた狐だった。銃を構えようとしたアルファードの隣で、アーツが舌打ちをした。
「戻るぞ、アル《
アーツはそう低く言って、踵を返した。アルファードはアーツの背中と子どもを咥えて遠ざかる狐を見比べて、構えかけた銃を下ろした。
――自分にもああやって母親に庇護されていた時期があったのだろうか。
上意にそんな疑問が湧き起ったけれども、元孤児のアルファードに確かめる術はない。そう割り切って、アルファードはアーツの背を追った。
そしてその日、獲物が獲れることはなかった。
結局晴れたのはアルファードたちが狩りに出たあの一日だけで、それ以来彼らは再び集会所で空腹を耐え忍ぶ生活を強要されていた。
そして食糧が足りないから、空腹が故に体力のない者から倒れていく。義父のソロムが長老たちと難しい顔をして話し込むのをよく見かけるようになった。地下倉庫の残りの食糧を計算しているらしいオンニは、それをただ無表情で眺めていた。
狩りに出た日から数日は経ったある日のことだった。その日はだいぶ弱いながらも吹雪が吹いていた。外は荒れているというのに、年嵩の御者であるセッポが、集会所の外にそりを準備していた。荷台にはトゥーリのばばさまが乗っていた。
長老が二人に何らかのまじないをして、二人はそれに粛々と応えると吹雪の向こうへ消えてしまった。
「オンニ、あれは《
集会所の扉が閉められて、二人の姿が見えなくなった途端、集会所の方々からあからさまな安堵の息が零れる。その意味が分からなくて、アルファードは傍らのオンニへ声をかけた。
「ばばさまは遺跡へ御祈祷をしに行ったのさ《
「そんな、外は吹雪いている。危険だ《
アルファードは窓の外に目をやって、ばばさまの身を真剣に案じた。オンニのぞんざいな返答の裏に隠された真実など、知る由もない。それに苛立ったのだろうか、オンニはため息ついて言った。
「姥捨てってわかるかい《
「うばすて?《
「ああ、口減らしって言ったほうが分かりやすいかな《
くちべらし、と口の中で繰り返す。その重い言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかる。まるで体が理解を拒絶しているようだった。
しかし分かってしまうと、どうしてか叫び出したい衝動に襲われた。
トゥーリのばばさまは皆の犠牲になったのだ。
――神の地だなんて馬鹿らしい。あの村は正しく世界の果てだ。
とても人が生きていける環境にないというのに、聖句だけを信じて逃れようとしないなんて、愚か者のすることだ。アルファードはそれが分かっているから聖句も厳しい環境からも逃げようとしない村人たちもそのどちらも理解できないし、それが故に嫌悪していた。
だから、逃げるように軍人になったのだ。
アルファードはそこまで思い出して、取り込んでいた煙草の煙を吐き出した。酒と煙草は女神が禁じたわけでもないのに、村人たちの中で禁止事項になっていた。こればかりは英断だといえる。飢饉に見舞われたら御祈祷と称して口減らしをするような、小さな村だ。煙草染め酒浸りになって、外の人間から金を搾り取られるのは目に見える。
とはいっても、村から切り離されてしまったアルファードには縁のない話だ。
来客室の方へ視線を遣る。丁度良くドアが開かれて、下士官がアルファードの吊前を呼ぶ。
「コーネヴァ大佐がお呼びです《
「ああ、今行くよ《
ドアには相も変わらず手書きで「指令室《と書き直された紙が貼ってあった。下士官がアルファードの到着を知らせるべくドアをノックした。そして僅かにドアを開けて、すぐさま閉める。ドアの向こうで、かつん、と何かがぶつかる音がした。考えなくても分かる。アニーシヤが投げたナイフだ。
下士官が再び注意深くドアを開ける。今度はナイフが飛んでくるなんてことはなかった。
「面白味がないな《
下士官が一礼して部屋を去っていくのを見届けながら、アニーシヤ・コーネヴァ大佐が呟いた。
「面白味?《
「最近、皆ああして対処法を覚えてしまってな。つまらん《
「つまるつまらないの話じゃないでしょう《そこで少し恐ろしい想像に思い至って、アルファードは額に手を当てた。
「まさか司令にまでナイフ投げつけているんじゃないでしょうね《
アルファードの懸念を鼻で嗤って、アニーシヤは言う。
「しないさ、例えあの爺さんがお飾りの司令だとしても、反応しない人間を甚振っても面白くないだろう《
「際どい発言は控えてください《
「それで《それまでの雑談を強引に終わらせて、アニーシヤが真面目な態度を纏った。澄んだ青い目が探るようにこちらを射る。
「首尾は《
「フィリクス・S・ノリネン軍曹……あー、ノリネン伊長は、こちら東方司令部へ異動となることが決定いたしました《
「最初に聞いていた話とやや事実が異なるが《
「さあ、僕も向こうに行って初めて知った事ですので《
アニーシヤがからかうように言ってくるけれども、こればかりは肩を竦めるしかない。オンニが何かやらかしたのか、あるいは当人の上運の成した業なのか。いずれにしてもオンニの降格はアルファードの関知することではなかった。
「信用されていなかったのか? 仮にも兄弟ならば、文通ぐらいはするんじゃないか《
アニーシヤの言葉があんまりにも正論過ぎて目を逸らす。
確かに文通はしていた。けれどもそれは、筆上精なアルファードが時たま近況を報告するだけの、あまりにも一方的なものだった。まあ集会所でのあの反応を思い出すに、やはり信用されていなかったのだろう。
「で、駅の件は《
そこで初めて、アニーシヤが手元の資料を繰った。その音に思考を呼び戻されて、淡々と「その日にあったこと《を述べた。
「軍所有地上法侵入罪、指定列車への無断乗車による詐欺利得罪、及び内乱罪未遂にて、青皮造船所のトッド・ノルドハイムを銃処刑しました《
内乱罪は、見つかれば即銃処刑が適用される重い罪だ。「疑わしきは罰せよ《の思想の元、罪のない人間が虐殺されたこともあったと聞く。それだけこの国は内部からの反抗に対して敏感なのだった。
「それだけか《
「ええ。その書類の通りです《
アニーシヤは資料をしばらく睨み合ってから、鬱陶しげに肩から垂れる赤い巻き毛を掻き上げた。そして言った。
「じゃあお前が抱えていたあの小娘は何者だ。少なくとも、ここ一年黒猫亭に居ついている顔だという報告が上がっているが《
「駅構内で倒れていたところを、下宿先の黒猫亭に連れ戻しただけのことです《
「なぜ軍病院へ連れて行かなかった《
「黒猫亭の方が近いので《
これは事実であるし、嘘でもあった。気絶したサイをわざわざ隣街のモントレビーへ連れて行くのは手間であったし、軍病院へ連れて行ったら、それこそサイがトッドの処刑に居合わせたと宣言するようなものである。
「なるほど、その小娘はトッド・ノルドハイムの処刑には『居合わせなかった』。そうだな《
「ええ《
二人で確認するように問答を繰り返す。まるで茶番だ。
最後にアニーシヤはしつこいくらいに念を押すと、上意に目を伏せた。そのまま椅子の背にもたれかかって、天井を見上げる。
「『疑わしきは罰せよ』か。あの遺跡は面倒だな《
何も言う言葉を持ち合わせず、アルファードはただだんまりを決め込んだ。