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ある北国の物語改_三章 4

 ここに足を踏み入れるのが、もう一年振りくらいに感じる。久しぶりに足を踏み入れた青皮造船所は、ひっそりとしていた。まったく会話がないわけではないが、それでもあの賑々しさは感じない。
 もしかして誰もいないのだろうか。そんなサイの予想を裏切って、工房には職人たちが勢ぞろいしていたが、何やら話し込んでいてサイには気づいていない。遅れてきたシードルの声によって、全員が一斉にこちらを向いたものだから、当のシードルが短くヒッと悲鳴を上げた。
「お前……!《
 真っ先に強張った声を上げたのは、人垣の手前にいたトーボーグだった。
「なんだ、焦って走ってくることなかったのね《
 目の前の人間が我を忘れた様子であるせいか、サイの衝動は落ち着いていた。それが逆に相手を煽ることになる。ああ、怒らせたな。頭の隅でぼんやり思う。
 怒り狂った様相のトーボーグがサイの襟元をつかみ上げた。その手は震えていた。シャツの襟が締まって気持ち悪い。
「あんたのせいだ! トッド元々そこまで自分の身を犠牲にする気はなかったんだ。それをあんたが、無理矢理……!《
「なによ、それ《
 まるでトッドが死んだのは全部サイみたいな言い方だ。何も知らないくせに。サイはぐっと唇をかみしめた。トーボーグの援護をするように、ミーナが口を挟んでくる。
「そうよ、トッドは燻り続けていれば生きていられたかもしれないのに。あんたがトッドの職人魂に火をつけたりするから! トッドは、文字通り、造船に命を捧げるしかなかったんじゃない……!《
 ミーナは思いの丈を怒鳴り散らすと、生気が抜けたかのように崩れ落ちた。サイはそんなミーナを蔑むような気分で見下ろした。
「じゃああなたは、トッドが延々燻り続けていても良かったの《
「トッドが長生きできるなら、私はそれで《
「見下げた。あんたそれでも造船士なの《
 ミーナの言葉を遮った声は、サイ自身驚くほど冷淡なものだった。けれどトッドは彼らのために命を捨てたのだ。その事実にはらわたが煮えくり返るような気分になる。
「『命を捧げるしかなかった』? 笑わせないでよ《
 襟元をつかんでいたトーボーグの手を振り払う。それは存外あっさりした力で外れた。そしてサイは自分と職人たちとの間にできた溝に、持ってきたトランクを掲げると、その手を開いた。自由落下して地面にぶち当たったトランクは、その衝撃で大きく口を開いた。
 わあ、と傍観に回っていたシードルが、感情の見えない声を上げた。職人たちもトランクの中から姿を現したものを見て、一斉に息を呑んだ。
 そこにあるのは緩衝材代わりのマフラーと、抱えるほどもある若草色をした飛空石の原石だった。
「これを得るために、トッドは命を懸けたのよ。それを、それを、あなたたちは《言葉が見つからなくてむしゃくしゃする。その衝動のまま前髪を掻きむしった。
「踏みにじるの。なんで死んだんだって、子どもみたいに嘆いて。馬鹿みたい。これじゃ、何のためにトッドが死んだのか分からない!《
 サイの叫び声に、職人たちが体を強張らせたのが分かった。本当に馬鹿みたい。誰に言うでもなく吐き捨てる。
 最悪な気分だった。それは幼馴染みを侮辱されたと感じたからかもしれないし、信頼していた造船所に裏切られたと感じたからかもしれない。少し考えて、どちらもだろうという結論に至るころには、もう帰路を残り半分のところまで歩いていた。
「サイ《
 背後から、おずおずと言った調子で声をかけられる。振り返らなくても、それがシードルの声であることが分かる。
「何《
 振り返らずに応える。応えるのすら億劫で、振り返るのは面倒だった。
「ちょっと、寄り道していきましょう《
「寄り道?《
 シードルに腕を引かれるようにして歩く。大通りからトナキア用の氷の道に降りて、少し歩く。獣臭いにおいが漂ってきたと思ったら、煉瓦造りの壁が引っ込んで、大きな穴が現れた。
「ここ《
 シードルがへこんだ壁を指差した(壁というよりも、堤防と言ったほうが正しいのだろうか)。ともかくそこには粗末なテントと、厩に繋がれた一頭の角鹿、そりが丸々収まりそうな屋根付きの隙間があった。
「なに、これ《
「トナキア御者の寝床。上手く稼いでる人はもっとちゃんとしたところで寝起きしていますけど《
 言いながら、シードルは繋がれた角鹿の方へ歩み寄っていく。茶色い毛並みだが、足元だけが白い。角鹿という吊前に違わず、立派な角が生えている。しかしどうも片 方は折れてしまったのだろうか、右側にしか角が生えていない。
「その子は?《
「バルナと言います、僕の角鹿なんですよ《少し自慢げに言って、シードルはバルナの鼻面を撫でた。
「ほら、撫でてみてください。嫌な気持ちなんて吹っ飛んじゃいますよ《
 平均よりも小柄な自分より、更に目線が下にある少年に気を遣われたのが分かって、サイは言葉を詰まらせた。それでも彼の好意を無碍にしたら、自分が大人気なくなるのが分かって、ただ言われるがままにバルナの鼻面に触れる。バルナは抵抗せず、寧ろ押し付けるようにサイの方へ顔を向けた。
「わ《
 掌の向こうに、脈打つ体温が感じられてびっくりする。恐る恐る掌を撫でるように動かしてみると、バルナは気持ちよさそうな鳴き声を上げた。
 しばらくそうしていると、シードルの言った通り「嫌な気持ち《は春の朝日を受けた雪のように融けて行った。けれども、雪が融けた後には水が出来るのだ。
 サイの中には、雪融けの後の泥水のような、澱(おり)のような罪悪感や後悔が渦巻いていた。
「ねえ、シードル《
「何でしょう《
「あの人たちは、トッドの死を悲しんでいたと思う?《
 シードルはバルナの毛並みを整えながらその言葉を聞いていた。彼はサイが黙ってバルナを撫でている間、バルナの身辺の面倒を見ていたのだった。
「僕は、悲しんでいたと思います《シードルはブラッシングする手を止めて言った。
「あそこに訃報を知らせに行ったの、僕なんです。僕はアルファードから聞きました。――あの人が気絶したあなたを黒猫亭まで連れてきたんですよ――それで、これは早く造船所の人たちに知らせないとって思ったんです。皆さん怒ってました《
「怒ってたの?《
 サイの問いかけに、シードルは頬を掻いて唸る。そして頷いた。
「『なんで真っ先に造船所に知らせないんだ!』って。その後もしばらく怒ってました。ああ、でも誤解しないでください。……その、なんというか、僕は、悲しいから、怒っていたんだ、と思うんです《
「うん《
 尻すぼみになっていく少年の推論を首肯する。これは大人たちの強がりだ。
 サイの声に、シードルは俯けていた顔をばっと勢いよく持ち上げた。
「だから、その、えと、青皮造船所の人たちも、あんなこと言ったの、わざとじゃないんです。突然いなくなって、悲しかっただけなんです!《
 最後は食ってかかるような勢いで、シードルは言い切った。流れに押されながらも、分かったわ、と返す。けれどもシードルにはまだ言いたいことがあるようで、だから、とやや震えた声で続けた。
「だから、喧嘩別れ、しないでください。僕、見てみたいです。雲の上まで行く船《
「うん。分かった《