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ある北国の物語改_三章 2

 何か、階段を踏み外したような浮遊感とともにサイは目を覚ました。勢いをつけて体を起こしたせいで、頭がぐらぐらする。見渡せばそこは黒猫亭でサイに宛がわれた一室で、サイはベッドの上に座り込んでいる状態だった。もう寝起きのよくわからない浮遊感はほとんど消え去っていて、ただ、急な動作に追いつけなかった頭がぼんやりする。ともすれば頭痛もするようだった。夢を見ていた気がするが、何の夢だったかは思い出せなかった。
 窓の外を見るに(クローヴルは大体どこも曇天なのではっきりしないが)朝方だろうか。
 なんでここにいるのだろう? 疑問は解決されないまま、その場に漂う。
 きい、と控えめなドアの音が聞こえた。そちらを向けば、ナージャとシードルが粥を運んでくるところだった。ナージャが大儀そうに盆を抱えて、両手がふさがった彼女の代わりにシードルがドアを開けている。
「ん、起きた!《
 ナージャがパッと表情を明るくさせて寄ってくる。ベッドサイドテーブルに盆を置くと、そのまま椅子をベッドのそばまで引っ張ってきて腰かけた。
「これ、おかゆ。ゆっくり、食べて《
 ナージャに差し出された椀を受け取ると、掌がじんわり暖かい。ただ、何も知らずにそれを平らげることが出来るほど、サイはこの国に関して無知ではなかった。人々は与えられる食物で日々を切り詰めながら生活しているのだ。
 配給のためにひと悶着起こしたのが遠い昔のようだ。匙を渡されるがままに受け取る。そのまま一口食べたミルク粥は、美味しくもなければ上味くもない、微妙な味だった。きっと暖かいのが最大の救いだ。
「ねえ、訊いていい《
 粥の中に突っ込んだ匙を眺めながら、ぽつりと言った。ナージャとシードルの纏う雰囲気が変わったのを肌で感じる。
「私、なんでここにいるの《
 サイの記憶は、駅――もっと言うと列車の中で、アルファード少佐に取り押さえられたところで途切れている。その時の感触を思い出して、思わず鳥肌が立った。
「覚えてない?《
 ナージャが困惑した様子で言う。それはサイの言葉の真意を探るようでもあった。ナージャに促されたように、気絶する前の記憶がよみがえっていく。自分の中に没頭していたサイは、ナージャがしまったという顔をして、それをシードルが小突いたことに全く気がつかなかった。
「アルファード少佐に取り押さえられて、その前は、そう、トッドを追いかけて……あれ《
 そうしてぽつぽつ思い出したことを言葉にのぼせていく。確か列車が到着して、真っ先にトッドが降りたのだ。それを追いかけようとして、アルファードに引き止められた。
 思い出すなり、サイは衝動のまま持っていた椀をサイドテーブルに置いて、ベッドから降りた。
「駄目!《
 そして部屋から飛び出ようとしたサイに、ナージャがしがみついてくる。重石ように引っ付いて離れないナージャに気を取られていた隙に、シードルがドアの前に立ちはだかっていた。
「駄目です《
「なんで!《
 大声で叫ぶと、それが頭の中に反響する。二日酔いみたいだ、と彼女の中の変に冷静な部分が言った。
「なんでもです《
「だから、どうして《
 ふらついたのをナージャに支えられながら、立ちはだかるシードルを睨みつける。あの日と真逆だ、とぼんやり思った。ナージャに駅へ行け、と言われた出発の日。あの日もそう言えば二日酔いだった。そんな下らないことを思い出す。
「私の体調が、万全じゃないから?《怒鳴ると頭に響いた。「造船所に行くだけよ《
 それを聞いて、シードルは一瞬傷ついたような表情になった。それでも頑なに動こうとはしなかった。
「何なの、トッドの様子を見に行くだけじゃないの《
「違うの。ごめんなさい、ごめんね、ごめん。サイ《
 ふらつくサイを支えるというよりかは、むしろしがみつくようになってナージャは言う。顔は押し付けられているから見えないけれども、金色のつむじがふるふる左右に揺られているのは分かった。
 そこまで来て、ようやくサイはこの二人の異常を理解したのだった。
 実際サイ自身も体が本調子でなかったのもあって、二人の言うようにベッドに戻ることにした。だが安静にするのは二人から事情を洗いざらい聞きだしてからである。
「で、何がごめんなさいなの《
 ベッドに腰かけたサイがそう切り出すと、途端に向かい合うような配置の椅子に腰かけたナージャが顔を青くした。隣の椅子に座るシードルが落ち着いて、と彼女の背を撫でる。
「私、聞いちゃった。アルファードが『命の保証はしませんよ』って言った。なのにトッドが『ああわかった』って《ナージャは真っ青な顔のまま、一度深く息を吐いた。
「そのときはなにも思わなかった、けど、トッド、北に行くことになって、上安になって、それで《
「私を一緒に行かせた《
 ナージャは涙目になって、そのまま黙って頷いた。