北方司令部を辞したときにはもう日が沈む頃だった。ここから家に帰るまでの時間を思うと気鬱になるが、宿代を持ち合わせていないので仕方ない。つけておくと後々面倒だ。そう惰性を発揮したところで、夜道を走る酔狂な御者などそうそういるものではなかった。御者を見つけ出して話をつけて――そうこうしているうちに、スコーリンの実家につくのは真夜中になっていた。
「遅かったね《
開いたドアに反応したのは、なんだか疲れたような顔の弟だ。弟は台所に立っていた。時計を見れば針はもう深夜を回って、明け方へと移ろっていた。これは面倒くさがらずにプーリャニジェで泊まってくればよかった。
弟の出迎えに言葉を濁して、革張りのソファに身を沈める。疲れていて、コートを脱ぐ気にもなれない。ブーツにまとわりついた雪が、暖炉に溶かされて床を濡らした。
「だらしのない《
突き放すような弟の声が聞こえた。それに答えるように、おもむろにアルファードは口を開いた。眠気のせいか、応えらしい応えにはなっていなかった。
「早起きだな《
さっき時計を見たとき、短針は4を指していた。
「まあ、軍人やってればねぇ《
自嘲するようにオンニは言った。それきり会話は途切れる。オンニが朝食をこしらえるいいにおいがする。暖炉の炎がはぜる音がする。だが、それだけだ。アルファードもオンニも、お互いに何も言わない。気持ちの悪い沈黙がそこに漂っていた。
「あ、忘れてた《
呟いたアルファードの声は、静かな居間によく響いた。それを聞きとがめたらしいオンニが、仕込みの手を止めた。あるいは先ほどとはまた別種の居心地の悪さからだろうか。
「何? いい話、それとも悪い話?《
「残念ながら悪い話だ《
「程度は《
咄嗟に聞き返したオンニが、身構えるようにアルファードのほうを向いた。実際、心の準備がしたいのだろう。
「さあどうだろう《
これから自分が話す「悪い話《が、どの程度「悪い話《なのか、アルファードには判断が付きかねた。自分とこの弟では、ずいぶんと感覚が違うのである。
アルファードの程度表現に、オンニは舌打ちをしてから仕込みをひと段落させると、アルファードと向かい合う椅子に腰かけた。それに合わせて、アルファードも居住まいを正す。 さあ言え、と言わんばかりの圧力である。アルファードはその態度にゆるくため息をついてから、言った。
「オンニ、お前の栄転が決まったぞ《
「……どこ《
案の定顔をゆがめてオンニは問う。大嫌いな軍で、自分が昇進したという自己嫌悪が表情にありありと表れていた。
「東方司令部、アニーシヤ大佐のいるところだ《
「冗談でしょ《
それを聞いて、一瞬にして弟は五歳も老け込んだような表情になった。
「……そんなに嫌か《
オンニは何も言わず、ただため息をつくことで応えた。虚ろな顔から、弟が何を思っているのかは計り知れない。ただ、なんとなく己の身の上を嘆いているのだろうことは察せられる。血が繋がっていないとはいえ、伊達に十年以上も兄弟をやっていない。
「ていうか司令、ノーベルフ少将には《
俯いていたオンニが、上意に顔をあげ、問うた。その質問にアルファードはただ笑って、聞きたいか、とだけ言う。それだけで何とはなしに裏取引が行われたことを悟ったらしい軍人嫌い汚職嫌いの弟は、もういいよこの腐れ軍人! と叫んで頭を抱えた。
アルファードは東方所属になったオンニに伝えるべき要件を思い出して、ああ、あともう1つあるんだ、と指を立てた。
「ソレーンについたら、シードルとナージャの面倒を頼む。あとマールファ伯母さんによろしく《
「え、兄さんは《
違うのか、とオンニは濃灰の眼を瞬かせた。上思議そうな表情をしたのは一瞬のことで、すぐに事情を察したのか黒髪をかきむしる。
「あのさあ、僕を使いっ走りにしないでくれないかな。そういうのはあんたの役目だろう《
「察しがいいねえ《
「煩いなあ、僕は子どもの面倒を見るのなんて御免だよ《
心底煩わしそうな表情に、思わず笑みがこぼれた。相変わらずこの弟は人が好い。アルファードが背を預けると、あまり手入れをされていないソファは音を立てた。
「何、面倒を見る必要なないさ。ただ監視していればいい。今回と一緒だ《
「は?《
信じられない、オンニは低い声で呟いて、片手を額に当てた。
「ねえ、兄さんにとってさ、あいつらは――シードルとナージャはなんなわけ《
「なんだ、ノルンのお前がスクルドの心配をするなんて珍しいな《
「あのね、僕真面目な話してるんだけど《
「悪い悪い《
オンニの棘のある口調に、アルファードはけらけら笑って応えた。単純に、気の合わないと思っていた弟と会話が長続きしているので嬉しいのだ。ただ、そのせいで調子に乗っているとも言える。
それはともかく、アルファードは息を吐き出すと、至極冷静な口調でオンニの質問に答えた。
「僕にとってのシードルとナージャ、ねえ。単なる保護対象だよ。僕は軍人だからね、家出人を保護する義務もあるわけさ《
「それだけじゃないだろう。兄さんが何の打算もなしに関係もない――というのは語弊があるけど、ともかく、無関係な他人を保護するなんてありえない《
オンニの指摘に――それは指摘というよりも確認のような口調だったけれども――アルファードは笑った顔のまま、言った。笑みを作るのは昔から得意だった。
「僕のことをよくよく理解しているようでうれしいよ、オンニ。もちろんだとも、彼らを理由なしに保護するわけないじゃないか。あの二人は交渉のカード、あるいは、人質、と言えばいいかな《
「人質《という言葉に、フィリクスは顔を引きつらせ、やっぱりね、と呟いた。
「『何の』とは聞かないよ、どうせ教えてくれないだろうしろくなことじゃないのは明らかだから。――あのふたりをスコーリンに連れてきたのも理由があるんだろうね《
「さあ、どうだろう《
訝しむオンニに対して、アルファードは作り笑いをしただけで応えなかった。答えたところでこの弟がどうにかできるわけでもないが、騒がれるのは面倒だ。
暖炉がパチパチと音を立てた。薪が崩れた音を背景に、オンニが深く息を吐く。そうして言った。
「ほんと、ロクデナシだよ《
それはほとんど独語のような調子だったので、アルファードは反応しそこなった。アルファードが何か言葉を返す前に、オンニは両手で顔を覆って再び息を吐いた。そしてロクデナシだよ、ともう一度言った。
二度目のそれは誰に対して向けられたものなのか分からなかった。ろくろく家事もできない兄に向けられたものか、それとも腑抜けた軍に向けられたものか、それとも。
やがてオンニは俯けていた顔を上げると、荷物の準備をしてくる、と言って立ち上がった。アルファードはソファに横になり、ぼんやりと天井を眺めた。何かできることがあればいいが。そう思いながら、アルファードは忍び寄る睡魔に身を委ねた。