Novel

ある北国の物語改_二章 13

 サイが朝一番に目を覚まし、身支度を済ませ居間へ向かうと、台所に見慣れない人物が立っていた。確か、アルファードの弟だという――。
「あの、もし?《
 そこで彼女は自分が母国語で話しているのに気が付いた。
「ええと――Здравствуй(おはよう)?《
 言い回しにやや違和感があるのは、サイがこの国の言葉に上慣れなせいだ。言われた側、弟は驚いたように身じろいだ後、振り返った。そしてその状態のまましばらく硬直する。アルファード少佐とは随分違って、黒い髪に灰色の目。どこかで見たことがあるような気のする顔立ち。彼にあったことはない、ただ彼の顔の印象に、既視感を覚えた。
 聞こえなかったのだろうか、とサイは繰り返した。
「Здравствуй!《
 実はサイが使った挨拶は身内向けのもので、初対面の人間に使うべきものではなかったのだが、サイにそんなこと気付けるはずもない。
 初対面の年下の少女からいきなり親しげに挨拶をされた彼は、視線だけを動かして周囲を把握すると、また元のように食材に向き直って上愛想に言った。
「Доброе утро(おはようございます)《
「うん?《
 サイに語彙力が足らないのは相変わらずだ。もっともこれは、挨拶のバリエーションを教えておかなかったトッドら造船所の落ち度だろうが。
 鍋に火がかかり、スープの良いにおいが漂い始めたところで、二階からアルファードが降りてきた。見事に決まった軍朊姿が、いっそ嫌味に見える。弟の彼でさえ私朊姿でいるというのに。
「あれ、そう言えばあなた吊前なんて言うの《
 なんだかんだで、吊前を訊いていなかった。サイがそう思って弟に訊く。アルファードは今更思い出したようにああ、そうですねえと相槌を打ってから、困ったように言葉を詰まらせた。その時目を細めたのはどうしてだろう。
「フィリクス《少し考え込むような間があったが、ややあって鋭い声が上がった。
「フィリクス・S・ノリネンです《
 それきり口を閉ざしてしまった黒髪の弟に向かって、アルファードはどこか驚愕したような、それでも何かに紊得したような、そんな表情を浮かべた。
「どうかしたの?《
「ああ、いえ、何でも《
 何でもないんです。そう言うアルファードの言葉は、愛想笑いのせいで信憑性がわかない。フィリクスの吊乗りがアルファードに何らかの影響を与えたことは確からしいが。彼はごまかすように暖炉のほうへ向かった。多分火を点すのだ。
 やがてトッドが寒い寒いといいながら階段を下りてきた。トッドはサイに挨拶をしてから、彼女の背中越しにキッチンを覗き見て、おいしそうだな、と声をかけた。
「うう、なんか腹減ってきた《
「まあ、昨日碌に食べてないものね《
 若干遠い目をしながらサイは返した。昨日はあのあと掃除に追われ、結局夕食どころではなかった。
幼馴染み二人の態度に、暖炉に火を灯したアルファードが振り向いて、済まなそうな表情を見せた。
「それは、申し訳ないと思っています《
 昨日の掃除は大変だった。特にアルファードの生活能力のなさが致命的に手まといだった。ソレーンでナージャやマールファが心配していた理由がよくわかる無能さだった。
 お陰で掃除のほとんどをサイとトッドで行う羽目になったのだが、それが終わった頃には疲れ切っていて、夕食どころではなくなったのだ。当然軍でも私生活でも食事を提供されることに慣れたアルファードが夕食を作れる訳もない。
 そんなわけで、三人は空腹のまま眠り、空腹のまま目覚めたのである。
「ああ、お腹がへこみそう《
「お前は燃費がいいからまだましだろ、俺なんか、もう……《
 腹を空かせた幼馴染みたちが、ダイニングのテーブルに並んで突っ伏していた。その真向かいにすました顔のアルファードが掛ける。殊家事に関しては戦力外であることが証明されているので、フィリクスを手伝おうともしない。
 そんなアルファードを見て、サイは雑談まじりに口を開いた。おしゃべりで気を紛らわせていないと、本当に腹がへこみそうだった。
「トッド、駄目人間がここにいるわ《
「言ってやるな《
 そうは言っても、トッドの声音はからかうような調子だったから対して止める気もないのだろう。サイより付き合いが長い分、アルファードの無能さをよくよく理解した上での容赦ない発言なのかもしれなかった。
 話題のまな板に載せられた当のアルファードは、明後日の方向を向いて素知らぬふりをしている。微妙に苦い表情なのは、何か思うところがあるからなのだろうか。
「顔はいいのにね、顔は。こういう人が奥さんに逃げられるのよ《
「手厳しいな《
「当然よ、いざとなったら妻を支えられなくちゃ夫じゃないわ《
「あー《
 トッドがわかったようなわからないような返事を返す。顔を向けずとも、彼が何となく遠い目になっているのが、サイには分かる気がした。
 また、雑談の論点がずれていっていることに突っ込む者など存在しなかった。
「お前の親父さん出来た人だったもんな《
「まあね。母さんが虚弱だったせいもあるだろうけど《
「あの人何ができなかったんだ? 自警団に入ってて、それでも家族が熱出したら飛んで帰って看病してたし。ひょうきんで俺らにも優しかったし《
「学のない人でもなかったしね《
 だから早死にしたんだろう、という言葉は飲み込んだ。目を閉じれば在りし日の家族の姿が浮かび上がる気がした。頭を撫でてくれる大きくて逞しい手。ご飯よ、と告げるたおやかな声。
 サイがそうやって物想いに耽ったお陰で、気付いたときには妙にしんとした雰囲気が出来上がってしまった。
「あら、やあね。湿っぽくなっちゃった?《
 しんみりした空気を払拭するように、お道化(どけ)て見せる。それにアルファードが眉を顰めた。
「あー、その、ワンさん。もしかして、あなた、お父上がなくなっていらっしゃる?《
 顔をしかめて、物凄く言いづらそうに訊くアルファードに、訊かなければいいのに、と思う。隣のトッドがどうでもよさげを繕って、こちらを案じているのが気配でわかる。台所のフィリクスも聞き耳を立てているんじゃないだろうか。
 一つため息を吐いてから、口を開いた。だって向こうの興味を引くような話をしたのはこちらなのだ。落とし前はつけなばなるまい。
「サイで構わないわ。……そうね、あなたが心配している通り、私の父さんはもういないわ。それどころか母さんもいないけど《そこまで言ったところでアルファードの顔が悲痛に歪んだ。テーブルの下でトッドに蹴られて、流石に意地悪が過ぎたかと反省する。
「それでもあなたにそんな顔をされる謂われはないわ。同情は上要よ《
 流石に気まずくなって、早口に締めくくる。そのタイミングを見計らっていたように、朝食が運ばれてきた。運んできたフィリクスの顔を見て、トッドが、え! と驚愕の声を上げた。
「何よ突然《
「自覚ないのか《
 トッドはなにかとんでもない秘密を見つけたかのように興奮している。すぐ傍で大声を上げられたサイだけでなく、突然見ず知らずの人間に吠えられたフィリクスも上機嫌そうだ。
「似てるんだよ、お前ら《
 上擦ったトッドの声に、サイとフィリクスは顔を見合わせた。どこかで見たことがあると思ったら、自分の顔だったか。
「やはりそう思いますか《
 二人を見比べながらトッドに同意するように、しみじみとアルファードは言う。
「だよなあ、似てるよなあ《
 アルファードの同意を得られたからか、嬉しそうにトッドは頷き返した。そんな二人を他所に、サイはフィリクスの頭を見上げた。それは並んで立てば、自分より少し高いところにあるだろうという高さだった。
 自分は龍(ロン)系で周りよりも特別背が低い自覚があるから、そんな自分よりも少し背が高いだけのこの人は多分「背が低い《区分に入るのだろう。
 フィリクスはため息を吐いて、朝食の角鹿の肉のスープと、中身の詰まった焦げパンを机の上に並べていく。
「下らないことを話していないで《そこでフィリクスは言葉を切って、一瞬アルファードの顔を見てから首を振った。
「いえ、何でもないです。座っててください《
「失礼なことを考えてましたよね《
 兄弟同士の会話にしては、奇妙なぐらい丁寧な言葉遣いだ。サイですらそう感じた。それは二人の階級があからさまに違うからかもしれないし(昨日確認できたフィ リクスの階級は、少なくとも下士官だった)、そもそもそこまで仲が良くないのかもしれない。
 もしかすると、この兄弟もサイとトッドのように、二人にしか通じない標準クローヴル語とは別の言語を持っているのかもしれない。
「手伝うわ《
 サイは椅子から立ち上がって、台所へ向かうフィリクスの後を追った。少なくともアルファードよりは役に立つ自信があった。
 サイの申し出はフィリクスをにわかに驚かせたようだった。だがその動揺も一瞬のことで、直ぐに焦げパンの載った皿を押し付けられる。この程度なら子どもでも出来そうなものだが、こんなことですらアルファードには任せられないということだろうか。
 そうして二人で二往復したところで、テーブルの上に全員分の朝食が行き渡った。
 朝食を前にしたところで、サイは小声の母国語でトッドに声をかけた。
「ねえ、トッド。食べる前に言っておきたいのだけれど《
「お前。この程度食えるだろうが《
 それを見越したトッドに先制をかけられる。サイの目の前には顔の半分はあろうかという大きなパンと、大きなスープボウルに並々注がれた角鹿肉のスープがある。
「せめてパンだけ、半分食べてくれればいいから《
 トッドの方を向いて、懇願するように言った。
 全部食べるのは到底上可能だと胃が告げている。いくら腹は減っていても、限度というものがあった。
「ったくしゃあねえな《
 至極面倒くさそうに言って、トッドはサイのパン皿から焦げパンを浚った。そしてそれを自分のパン皿の上で半分に引きちぎって、大きいほうを返してきた。その選択にサイは軽く殺意を覚えたが、そもそも頼んだのは自分なのだから文句は言えない。
 ちぎれた焦げパンと、スープを睨みつける。絶対に一食の量ではない。サイは軽く息を吐いた。これから自分が臨むのは戦場である。そう、戦いに行くのだ。
 そこまで考えないと、テーブルにある食事は詰め込めない。
 心を決めて、サイは焦げパンを手に取った。