人物伝・武勇伝

完全ではありませんが、徐々に内容も増やしていきたいと思います。

上瀧義重(うわたき よししげ/美濃守、秋山源次郎)生没年不明

室町末〜戦国初期の武将。
肥前國杵島郡上瀧村に移り住み、地名に因み改姓する。上瀧氏宗祖。


上瀧権兵衛生没年不明

室町末〜戦国初期の武将。
肥前塚崎武雄の後藤貴明に仕える。
史料では後藤貴明の一門・重臣として名前が出てくる。
後藤惟明の相続争いの謀反(惟明の乱)に名が見える。
義重、もしくは信重と同一人物か?


上瀧石見守生没年不明

崎村城主、犬塚長門守鎭直の家人。
「北肥戦誌」にその名前が出て来る。
東西の犬塚家の争いの際に、討死する。
後藤家の上瀧氏、藤津の上瀧氏との繋がりは不明。


上瀧信重(うわたき のぶしげ/志摩守、盛貞、盛員、盛氏)生没年不明

戦国期の武将。義重の子。
始め有馬晴純(仙岩)に属するが、後、龍造寺隆信に従う。藤津衆の一人として活躍。
本領地藤津郡五町田村、松岡城*城番。(一説には森丘城*城番ともある。)
上瀧志摩守の武勇を讃える次の様な逸話が伝えらている。
--------------------------------------------------
天正七年十二月肥前藤津郡に群衆と称する者 数輩、郡の所々に群り居る 其中四人の渠魁あり、
之を四人の鑓柱と称して亦両弾二島と称す、曰く大村弾正犬塚弾正(以上両弾)百武志摩上瀧志摩(以上二島)是也、
各々龍造寺に属す武偏勝れたる者也、其武の秀でたるを以て隆信之を挙て所砦に居えて郡を守り又且つ有馬氏に当とす、
爰に大村弾正、隆信に反くの聞有り隆信密かに上瀧・百武の二志摩に命して大村を策らしむ、但居の隣に因て也、
十二月晦の夜歳末の賀詞と称して上瀧志摩、先す大村之館五町田に(五町田は塩田に在り)至る、
弾正之を察し疾く玄関を鎖し、以て人無き者の如くす間に甲冑帯し志摩即玄関を打破り、居所に推し入て弾正切殺す、
大村之家人数多く打出、時に百武志摩駈来る二志摩両手烈しく撃ちて、而して大村家人数多く殺す夜既に明ぬ、
天正八年正月元旦也、二志摩及ひ両家の家属玄関之手懸りを攪り、同く万福を唱て而して還る、
既して而して大村弾正之頸を龍王に呈す、隆信感牒を授けて之を称す、又食禄之加褒有と云ふ

----------
【訳文】
天正七年(1579)十二月肥前藤津郡に群衆と称する大勢の人々が郡の所々に集まっていた。
その中に四人の渠魁(きょかい=首領)がいた。これを「四人の槍柱」と称してまた「両弾二島」と称した。
云うに「大村弾正・犬塚弾正」(両弾)「百武志摩・上瀧志摩」(二島)のことである。
それぞれ龍造寺(隆信)に仕える武勇に勝れた者であった。
その武勇が秀でているので隆信はこれらを各砦にすえて(藤津)郡を守り、又、有馬氏に対抗させた。
ここに大村弾正が隆信に叛いたとの噂があった。
隆信は密かに上瀧・百武の二志摩に命じて、大村を策略にかけさせた。住む所が近かったからである。
十二月晦日の夜、歳末のねぎらいと称して上瀧志摩がまず五町田にある大村の館に入った。
弾正はこれを察し、素早く玄関を鎖し(閉ざし)無人のようにする間に、
志摩は甲冑をつけ(※もしくは「甲冑を帯びた(つけた)志摩は」)
すぐに玄関を打破り、(弾正の)居るところを推し入り弾正を切り殺した。
大村の家人が数多く応戦し、その時百武志摩も駆け付け二志摩は烈しく戦い、大村の家人を数多く殺した。
その時、夜は既に明けていた。
天正八年正月元旦であった。二志摩及び両家の家来は玄関の取っ手をゆすり、同じく万福を唱えて帰った。
そうして、大村弾正の首を龍造寺隆信に差し出した。
隆信は感状を授けこれを賞し、又、俸給を増やす褒美があったという。

参考資料・書籍:「歴代鎮西志」、「藤津郡志襍爼」、「佐賀の戦国人名志」川上茂治著 横蔵亭
協力:マモルさん、妙姜さん / 訳協力:プテさん
*松岡城(佐賀県鹿島市浜町)、森丘城(佐賀県鹿島市森)


上瀧重清(うわたき しげきよ/勝次郎?後の孫兵衛か?)(生没年不明)

戦国期の武将。信重の子。
父と同じく龍造寺家に仕える。政家御側定詰番。
「朝鮮御供人数着到」鍋嶋三郎兵衛茂正組(藤津衆)に「上瀧勝次郎」名前が見られる。
壮年で狂病(狂犬病などの病と思われる)に罹り、職を辞する。程なく死す。
この重清の子が筑後へと移り住み、筑後上瀧氏の祖となる。


上瀧能宗(うわたき よしむね?/兵太郎)(生年不明〜1600年没)

戦国期の武将。信重の子。
父と同じく龍造寺家に仕える。
「朝鮮御供人数着到」にて御先手・鍋嶋平五郎茂里組に属す。
関ヶ原後の鍋島と立花との八院の戦い(筑後國三瀦郡八院村)において戦死。
「うわたき」「じょうたき」氏の祖か?


上瀧空蝉(わたき うつせみ/別名 芝山)(1838年生〜1918年没)

天保9年(1838年)4月4日生、小城郡小城町鯖岡。父ー上瀧慰右衛門、小城藩士御徒頭として大阪御倉方も勤める。書家でもあった。
空蝉は長男、通称 惣右衛門また惣平。15歳で出仕。30有余にして京都に学び、帰郷後、時の小城藩主の乞いに従い祐筆として仕える。
明治以降、大野区長として林業開発、教育に貢献し1918年(大正7年)他界。


「上瀧氏の歴史」トップへ

Copyright(C) 1999 N.Kohtaki. All RightsReserved.