鯛蛸両名 きりきり あゆめぇえ!(雑喉場界隈)

しばらく、町歩きをしておりませんでしたが、

予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、
漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ・・・(おくのほそ道)
雑喉場魚市場跡てな、気分になりまして、地下鉄千日前線を西へ西へ、阿波座駅から「雑喉場(ざこば)魚市場」あたりを逍遥してみました。

と、申しまして、現在は魚市場は見る影もございません。

マンション街の公園の一角に小さな石碑が建っております。

碑の説明文によりますと、元禄年間(1688〜1708年)には、大坂三郷(北、南、天満)のすべての魚問屋がここに集まっていたんやそうでございます。

しかし、この「雑喉場」そのものを噺にした落語は思いつかないのであります。お魚屋さんが登場する落語としては、「蛸芝居」「寄合酒」があります。

「さこは」と書いた灯籠(天満宮)「ざこば」というのは、「天満青物市場」「堂島米市場」と並ぶ三大市場を呼ばれ、大層はぶりのよいとろろやったようでございます。

大阪のあちこちの神社の灯籠に「むこさ」とも読める文字が書いたものがたくさんございます。何やろうな、と思っておったのですが、「む」みたいに見えるのは「葉」を崩した変体仮名で「は」なのですね。で、右から濁点を付けて読むので「ざこば」なのでございます。
右の写真は大阪天満宮の常夜灯です。
住吉大社にもございます。
もし、機会がありましたら、いっぺん見つけてみて下さい。

閑話休題(それはさておき)

雑喉場跡の碑から、東へ100mほどの所に、弁天さんのお社があります。
江戸堀弁財天
なんでも、雑喉場のあたりに、江戸時代初めに、徳島藩の淡路城代家老、稲田九郎兵衛さんのお屋敷がありまして、淡路島で信仰の厚い弁財天さんを勧請されたのがその縁起だそうでございます。

これが、霊験あらたかで、明治の御一新のあとも、大阪の人々の信仰を集め、現在も地域の人たちにこうして美しく掃き清められ、お祀りされているのでございます。

でも、徳島藩の稲田家というのは、明治維新後に、蜂須賀家の「陪臣(将軍の家来の家来)」ちゅうことで、士族の身分が認められず、それを不服として反乱を起こした「最後のお家騒動」と歴史に残っておりますけれどもね。さて・・・。
 と、雑喉場は、これで、しまい。

今は、そのよすがを残すものは、ほとんどございません。

魚市場の機能は、すっくり、さっぱり向こう岸の福島区にある「中央卸売市場」に移転してしまったのであります。旧大阪府庁跡
さて、どっちに行こうかと、ぶらぶらと歩いておりますと、「雑喉場橋の跡」の碑がございました。百阮xという堀川があって、これを渡って左側、つまり南側に、明治〜大正期の大阪府庁があったのでございます。

で、右側が大阪市役所です。

大阪府庁は、1871年(明治4年)の廃藩置県当初は、旧幕府の西町奉行所(現在の中央区本町橋、大阪商工会議所付近)の建物を使っておりましたが、手狭であったために、1874年(明治7年)に、こちら、江之子島に新築、移転したのでございますね。

正面玄関に4本の大円柱をならべ、屋上中央のドームに大時計をとりつけた立派な洋館建てでございまして、人々は「江之子島政府」と呼んだそうでございます。

大阪市長は当初、府知事の兼任だったのが、制度が変わって独立して、府庁北側に市役所庁舎を立て、その後、堂島浜から中之島の現在地に移転したのでございます。

そんなこと、全然知りませんでしたぁ。
どうして、こんな西のはずれに府庁が必要だったかと申しますと、さらに西へ木津川橋をわたったとろこが、「川口居留地」があったからなのでございます。

居留地というのは、大阪開港に伴って、貿易のために欧米各国が「永代借地権」を落札して整備した地域で、文明開化の中心地だったのでございますね。

江之子島の庁舎は1926年(大正15年)まであって、それから現在の場所に移ったといいますから、結構長い間、こっちゃの方に居てはったんですねぇ。
川口基督教会
「プリンセストヨトミ」なんか読んでますと、御一新以来、ずーーーと、大阪城の見える場所に府庁があったような錯覚に陥りますが・・・(そんなこと、小説には、なーんもかいてませんけど)、実は、いろいろ変遷があったのでございますね。

川口居留地のあったあたりを、歩きましても、新しいマンションと、倉庫街でございます。

そんな中でも、「川口基督教会」は煉瓦造りの立派な聖堂でございます。1920年(大正9年)に完成した、米国人建築家のウィリアム・ウィルソンの設計による建物は5年(平成7年)の阪神淡路大震災で大きな被害を受けましたが、98年(平成10年)に修復されました。

ほかに、川口居留地にはウイルミナ女学校(後の大阪女学院)・永生女学院(後のプール女学院)・照暗女学院(後の平安女学院)・三一神学校(後の桃山学院)・英和学舎・聖バルナバ病院・信愛孤児院(後の信愛女学院)などキリスト教系の学校や病院などが立地していたそうです。

西区辺りは、あまり用事が無いのと、落語に出てくる場所も思いつかないので、ほとんど来たことがありませんでしたが、歩いてみると、意外な発見もあるものです。

明治期には、この辺りが、文化・政治の中心やったとは、「町に歴史あり」ですねぇ。

大聖堂 ザンギリ頭の 夢の跡??

 
 江戸時代の地図
(文化3年 摂州大阪地図)
 
 明治時代の地図
(明治33年 大阪市街図)

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浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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