No.12
It's only a paper moon
Hanging over a cardboard sea
But it wouldn't be make believe
If you believed in me

さて、本日は、その昔、長堀川と西横堀川が交差しておりました場所。四ツ橋から出発致します。皆様、用意はよろしおますか?

はい、地下鉄四つ橋線、四つ橋駅の階段を上がってまいりますと、出てまいりましたのは、四ツ橋筋の四ツ橋交差点・・・。
え?なんです?そない、仰山言わんでええやろって。
はい、そうなんでございますけれどもね。
ちょっと、字ぃをみてみてみぃ。

地下鉄は四つ橋と、「つ」がひらがな、地上に出てくると四ツ橋と「ツ」がカタカナになってございましょ。何でも、名前付けたのが、道路の方はの大阪市の土木局、電車(昔は市電ですが)の方は、電気局だったそうで、それぞれ別々に届けたからや、という説があるそうです。

で、ここに四ツ橋という橋が架かっていた・・・のではございません。
先ほど申しましたように、川が交差している場所でございますから、この水路の十字路を渡るのに四つの橋が架かっていたから四ツ橋なんでございますよ。

四ツ橋筋と長堀通りの交差点「四ツ橋交差点」の真ん中に、石碑がありまして、昔の橋の橋名板をはめ込んだ橋のミニチュアもしつらえてあります。

橋の名は、西横堀川に掛かっていたのが上繋橋と下繋橋、長堀川に掛かっていたのが炭屋町橋と吉野屋橋というそうす。

江戸時代中期の俳人小西来山の 「涼しさに 四ツ橋を四ツ わたりけり」、 上島鬼貫の「後の月 入て貌よし 星の空」 というこの場所にちなんだ句碑も近くにございます。

交差点の北東角に、昭和12年(1937年)に東洋で初めてのプラネタリウムが設置された大阪市立電気科学館がございました。平成元年(1989年)に閉館するまで1906万7216人もの人々が訪れたのでございます。誰ですかね、数えたのは。このうちの一人には、小学校の遠足で参りました狐狸窟彦兵衛も勘定に入っておるのでございますねぇ。

ちなみに、プラネタリウムは東京にも翌年できますが、戦災で失われ、昭和32年、東京・渋谷に開設されるまで、日本で唯一の施設だったのでございますよ。

現在は、その電気館の面影を残した設計の多目的ビル「ホワイトドームプラザ」が建っております。

四ツ橋を舞台にした落語に「辻占茶屋」があります。鍛冶屋の源公がなじみの遊女、梅野の「本気」を確かめようと心中を持ちかけます。梅野はそもそも本気ではなく、「四ツ橋のあっちの橋と、こっちの橋で別々に飛び込もう」と提案する、という噺。昔、故・桂文枝さんが小文枝さんとおっしゃった頃に聞いたことがございます。

で、この四ツ橋交差点の北西が「新町」でございます。

この辺り、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町と申しまして、日本三大廓の一つに数えられており、格式のある遊郭だったところだったと申します。「けんげしゃ茶屋」という噺は、この新町で、悪洒落が過ぎて、行けなくなり、難波新地に遊びにいった旦那が、縁起担ぎの強いお茶屋に、正月から葬式の行列を繰り込むという、えげつない噺です。

ちなみに、厚生年金会館の南に初代中村雁治郎の生誕の地の石碑があります。
この地にあった揚屋「扇屋」で万延元年(1860)に生まれ、「冥途の飛脚」の忠兵衛、「心中天網島」の治兵衛など近松門左衛門の世話物を得意とし、近代の上方歌舞伎界を代表する名優といわれるようになった方であります。

厚生年金会館を尻目に殺して、四ツ橋筋を渡ります。それから、阪神高速道路の高架沿いに少し北上すると、「せともの町」という看板が見えます。

江戸時代には、西横堀川に沿って二百数十軒の瀬戸物屋さんが集まっていたそうですな。高架をくぐって東側には、瀬戸物屋さんの守り神「火防陶器神社(ひぶせとうきじんじゃ)」がございます。

せともん町の神さんがなんで、「火防」かと申しますと、昔は、陶器が運搬の際に壊れないよう藁を緩衝材に使っていたのやそうで、そんなに火が入るとひとたまりをない、大火事になりましょ。それで、火の用心、防火をお願いする神さんとなったそうです。
現在も、境内には、陶器の灯篭などが寄進されており、毎年7月下旬に「大阪せともの祭」が開かれます。

せともの町に参ります落語は、ご存知「壺算」です。
「大体人間が悪賢いだけに、買いもんが上手や」という徳さんに頼んで、水壺を買いに行く噺ですね。
「いっか入りの壺が割れたので、にか入りのに買い換える」ということですが、この「いっか」「にか」というのは「一荷」「二荷」と書いて、容量の単位でございます。大坂は地下水の水質がよくないので、淀川などから汲み上げた水を売りにきたそうです。この水売りが、天秤棒で担いで一回に担える水が「一荷」、その倍が「二荷」でございます。ちなみに、一荷とはどのくらいかというのが、なかなか資料がございませんが、大体60リットルくらいだったとか、明治時代には2斗(36リットル)二つで8厘前後で売っていた、とかいろいろ説がありまして・・・これでは、よう分からん。
どんな壺や・・・「それがこっちの思う壺です」

と、こういうことになっているのでしょうか。

話は飛びますが、アメリカ映画に「ペーパームーン」(1973年)というのがあります。ライアン・オニール、テイタム・オニールの親子が出ていて、テイタム・オニールが史上最年少でアカデミー賞助演女優賞を受賞したという作品です。
聖書を売りつける詐欺師と、母親を交通事故で亡くした9歳の少女が、騙りやいんちきを重ねながら旅をするというロードムービー。

その中で、

25セントの買い物をして、5ドル紙幣でおつりを貰う。
「財布が1ドル札ばかりで膨らんだ」といって、5枚出して、さっきの5ドル紙幣に両替してもらう、
で、「その5ドルと、もう5ドルだすから10ドル札に替えて」
という詐欺の手口が出てくるのです。

うーむ・・・これは、あの壺算ではなかろうか。
と思った次第。・・・すみません。脱線を致しました。

この陶器神社は、坐摩(いかすり)神社の境内に鎮座ましましております。
坐摩神社は、おおむね「ざまじんじゃ」と読み慣わしておりますが、正しくは「いかすり」なのでそうでございます。

さて、ここから、少し北に参りますと、中央大通りに出ます。で、東に曲がったら、御堂筋。角に伊藤忠さんの大きなビルがございますが、この向かいくらいのグリーンベルトに、高さ1メートルくらいの小さな石碑があります。東側に渡って、そばに参りましても横断歩道も何も無いので、渡るのにちょっと勇気が要りますが、「此附近芭蕉翁終焉ノ地」と書いてございます。

 松尾芭蕉は元禄7年(1694年)10月12日、南御堂の門前にあったといわれる花屋仁左衛門宅で没します。

享年51歳。

 有名な最期の句は死の4日前に詠まれたそうでございます。
 句碑が、南御堂境内にあります。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
copy right (C) KORIKUTSU HIKOBEE 2009
不許複製