あひおひの松も桜も八千代へん 君かみゆきのけふをはじめに |
やまんそら講談会の打合せで、旭堂南左衛門さんとお話していて、大坂城落城の5月7日、淀殿のお墓のある大阪北区の太融寺で、淀殿の一代記の講談をかけはる、てな話題になりまして、「ふむふむ」と聞いておりますと、「それが、淀殿を主人公にした部分は、難波戦記にもそんなにないんです。一つ作ってもらいえませんか」、とえらいことになりましたんで。 せっかくのご指名なので、「はい」と、拝命したものの、浅学菲才の身にして、皆様の鑑賞に堪えうるものになったかどうか。とにもかくにも、南左衛門さんに原稿をお渡しして、「あとはよしなに、よしなに……」で、ございます。で、いろいろと図書館で参考文献を借りてきて読み散らかしましたので、それをお返しにまいりました後、その「お勉強」でみつけたゆかりの地を訪ねてきました。 |
まずは、谷町九丁目、生國魂神社にある「鴫野神社」 太融寺の境内に淀殿の「墓」があるのですが、これは、元鴫野の弁天社にありました。今のOBPあたりです。 大坂城にあったころの淀殿が厚く信仰した弁天堂だそうでして、大坂城からたびたびお参りに行っておられたそうです。大坂城落城のあと、その遺骨を埋めて祠として「淀姫神社」と呼ばれていたとか。で、明治10年に陸軍砲兵工廠が作られることになり、弁天社は生玉さんに、淀殿を祀った九輪の塔は太融寺に遷座されました。で、お寺に遷されたから、「お墓」になったんでしょうかね。この祠の裏には巳さんを祀ったご神木があります。大坂城落城の折、火の手の迫る大坂城から蛇に姿を変えた淀殿が天に昇って行ったという伝説があることから「巳」さんが祀ってあると社伝にあります。ま、蛇は弁天さんの眷属ですからね、そういうこともあるのでしょう。 |
生玉さんを後にしまして、東へ東へ、産湯稲荷を目印に北上しますと「真田山公園」に行きつきます。慶長19年、大坂・関東いよいよ手切れとなって、和歌山の九度山に雌伏しておりました真田幸村が大坂城に入城。この辺りに出城「真田丸」を築いて、冬の陣では、さんざんに徳川方を苦しめます。 真田山公園のちょっと北に「三光神社」がありますが、その境内に石垣の一部がトンネル状になっているところがあります。史跡・真田幸村の抜け穴とはこれでございます。 大坂城に続いていると伝えられていますが、今は、入り口からちょっと行ったところで、行き止まりになっているように見えます。真田幸村公の銅像はだいぶ前からありましたが、いつの間にか六文銭の旗印を描いた「防壁」ができて、「観光名所」みたいになっております。 かの映画「プリンセストヨトミ」でも、ここでロケしている場面がありました。 大坂の陣では、徳川方も城めがけてトンネルを掘っていたらしく、その音が淀殿をいたく怖がらせたというようなことも伝わっております。 大阪市営地下鉄鶴見緑地線の工事では、その抜け道などの跡を巧みに活用した、というのは真っ赤な偽りです。 |
それから、さらにまっすぐ北へ。玉造稲荷神社があります。伊勢参りの起点となる神社ですが、大坂城の鎮守の神社でもありまして、鳥居は豊臣秀頼公の奉納によるものでして、慶長八年三月(1603年)の文字が刻んであります。 阪神大震災で倒壊してしまいましたので、現在は、境内にこうして頭部だけを安置しております。 また、秀頼公の胞衣を祀った「胞衣塚大明神」も境内にあります。胞衣というのは、秀頼公を出産した時の淀殿の胎盤、胎児を包んでいた膜などのことで、普通は「えな」と読みますが、大阪では「よな」と読むそうで、「よなづか」と読み方が示してあます。 |
玉造稲荷から少し西に細川越中守忠興の屋敷にあった井戸と伝えられる越中井があります。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前、石田三成が忠興の正室、細川ガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはこれを拒否。キリシタンの自分は自殺を禁じられているので、家老の手で命を絶ち、屋敷に火を放って果てたと伝わっております。 こちらも戦国の悲劇の女性です。 |
大坂城は、なんだかお祭り騒ぎです。連休ということもありますし、あちこちに「大坂の陣400年」なんて幟が翻っております。 天守閣前では、いろいろなイベントが繰り広げられております。 しかし、「落城」したんでございますからね、そうめでたいことでもないようにも思いますが。 天守閣をぐるっと回って、階段を降りてまいりますと、「山里曲輪(やまざとくるわ)」に出ます。大坂城は、徳川が江戸時代にすっかり建て替えたので、元の位置はわかりませんが、秀頼公と淀殿が最後まで籠ったのは山里曲輪の櫓の中と伝えられております。 石垣のふもとのあたりに「豊臣秀頼淀殿ら自刃の地」という石碑が建てられておりました。1997年に大阪市が建てたと説明板にあります。 |
山里曲輪から北へと抜けますと極楽橋。今は、愛想のない橋ですが、豊臣秀吉が本丸北側に架けたのは、唐破風造りの絢爛豪華な橋だったそうです。 この橋は、秀吉によって琵琶湖・竹生島(滋賀県長浜市)に移されたといい、宝厳寺に現存する唐門(国宝、桃山時代)がこれではないかと、近年注目されています。 淀殿は、その橋を渡って鴫野の弁天さんにお参りにいってたのでしょか。 本日は、淀殿ゆかりのあちこちを訪ねてみました。 |
秀吉の晩年、京都・醍醐で開かれた花見の宴で淀殿が読んだ歌が残っています。 あひおひの松も桜も八千代へん |
御可笑拵処「庚申堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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