しばらく逍遥記をお休みしておりました。寒いし…。
で、ぼちぼちあったかくなってきましたし、春分の日が金曜日ということで、3連休となりましたので、ちょいと上町台地へと出かけまして、あちこちへとお墓参りをしてまいりました。
庚申堂 みざる、いわざる、きかざる JR天王寺駅を降りまして北口から出ますと、人の列が谷町筋の商店街へて流れて、そちらの参道がにぎやかなのですが、ちょいと東にはずれて住宅街をごにょごにょと歩きますと、庚申街道に出ます。

なんで、庚申街道かといいますと、「庚申堂」があるからなんでございますよ。

庚申信仰と申しますと、庚申(かのえさる)の日に、体内にいる三尸(さんし)虫という虫が、寝ている間に天帝のところへ行って、その人の行いを告げ口するので、一晩中起きている、という行事なのでございます。で、一人でおっては眠たくなるので、みんなで起きてましょう、というのが庚申堂なのですね。

で、この庚申堂は「日本最古」の庚申堂と伝えられておりまして、その縁起は、奈良時代に、疫病が流行って、その平癒祈願をしたところ、正月七日庚申の刻に帝釈天のお遣いとして青面金剛童子が現れ、祈願を聞き届けられたというのやそうでして、ご本尊は青面金剛童子さんでございます。
そう、すると、庚申の日の 三尸(さんし)虫はどうなったのかと、申しますと……。どうなったのでしょうね。
で、申に関係があるのでございましょう、見猿、言わ猿、聞か猿があちこちにいてはるのでございます。
竹本義太夫の墓 庚申堂から、100mほど北に、超願寺というお寺があって、竹本義太夫のお墓があります。

墓石の劣化が激しく、2013年、竹本義太夫の300回忌追善で募金を募り、修復再建されました。

お寺の由緒も古く、聖徳太子の時代にさかのぼるそうです。

四天王寺さんが、聖徳太子の建立でしから、驚くに足る話ではありませんが。
四天王寺五重塔ということで、超願寺さんから、また北へ歩きますと、四天王寺さんです。

6世紀末に聖徳太子さんが建てはったという由緒正しいお寺。南大門脇に「日本仏教最初」と、大きな石碑がございます。

南大門をくぐりますと、五重塔が目に入りますな。いや、ホンマに目に入ったら軽業師になりますが、見えてくるのでございます。

落語「鷺とり」では、北の円頓寺の池から鷺とともに飛ばされてきた男がひっかかるのがこの塔でございます。
お坊さんが助けてやろうと、掲げた幟には「ここへとへすくうてやる」と書かれておりました。
「ほなら、たのまっせ! ひの、ふの、みっつぅ!」
 「天王寺詣り」では、西門から亀の池に周り、愛犬のために引導鐘をついてもらいます。
僧「またぁ願わくば、俗名くろ・・・あの、おなごはんでっか?」
男「いえ、雄(おん)だんねん」
西門を出て、国道25号線を西へ。
一心寺があります。

浄土宗のお寺。
12世紀末、宗祖法然さんが草庵を作って夕日を見ながら浄土を思う「日観相」を修せられたのが起源とされております。

大坂の陣では、徳川家康の本陣としても使われました。

落語「天神山」では、変人のへんきちの源助が、花見ならぬ「墓見」に訪れ、拾った舎利頭に酒を手向けた縁で幽霊を嫁はんにしてしまいます。
真田幸村一心寺の北側に安居神社(天神さん)があります。源助の隣の男が、「わしも幽霊の嫁はん」と舎利頭を探しに行きますが、そうそう転がっているもんでもなし。

うろうろと出てきて、狐を捕まえている男に出会います。
黒焼き屋に売ってしまうというのを助けて、今度は狐を女房に。

安倍晴明の生誕の秘密、葛葉伝説にちなんだお話。

安居天神は、大阪の陣での真田幸村終焉の地と伝えられ、その像があります。
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 こないだの続き
植村文楽軒の碑安居天神さんの正面の階段を降りてまっすぐ行くと、松屋町筋の南端付近に出ます。この道をとことこと北上すると、円生院というお寺に「植村文楽軒墓所」という碑が建っています。

お寺という感じのしない普通の民家のような建物の前を通って横手に入るとお墓が並んでいるので、やっぱりお寺かとわかります。

で、そこに高さ4mはあろうかという「文楽翁之碑」が建っています。人形浄瑠璃を「文楽」というのは、この植村文楽軒にちなんだものだそうです。

碑は、文楽中興の祖と言われる三代目の功績を称えたもので、文楽関係者が建立したという碑文が刻まれています。

淡路島から出てきた初代のお墓もあるそうです。
 このあたりは「下寺町」で、ずーーーとお寺さんが並んでいます。
物忘れのひどい男が、甚兵衛さんの紹介で出家させてもらう落語「八五郎坊主」の舞台もこのあたりのお寺です。
竹田出雲の墓 松屋町筋から谷町筋にかけてはかなりの高低差があります。谷町やのに、上町台地なのでございまして、ここに天王寺七坂がございますな。

そのうちの一つ、口縄坂を上りまして谷町筋に出ます。そこから、二筋ほど北へ歩いて左へ(つまり西へ)曲がりますと、夕陽丘学園高校の前に青蓮寺というお寺がございまして、ここに竹田出雲さんのご一統さんのお墓がございます。文楽の竹本座の座元で竹田出雲と名乗ったのは初代から三代目までいてはったようです。

、「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」などの作者としても名を連ねてますな。
 生國魂神社(いくたまさん)まで、ぶらぶらと歩きます。
上町台地は、社寺の森に覆われていて、御参詣の人も多く、起伏に富んだ地形でもありましたので、昔は、ちょっと手軽な「野駆け」(ピクニックですな)の場所としても人気があったんやそうです。かわらけなげをしたり、料亭で遊んだり。「浮瀬(うかむせ)」という料亭では、あわびの貝殻の穴をふさいでを盃にしてお酒を出したのだそうです。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の洒落でございますね。
ま、そんな名残かどうかしりませんが、このあたりにぎやかなネオンで飾ったホテルもたくさんございます。
梶井基次郎の墓千日前通りを北に渡りまして、谷町9丁目交差点のすぐ近くに中寺町にある常国寺に「檸檬」で有名な梶井基次郎さんのお墓があります。

作品にちなんで、いつもレモンがお供えしてあります。

丸善の本の上に檸檬を置いてきて、
「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」

と空想する。それだけの「小説」なのに、なぜこれほどに人の心をとらえて放さないのでしょう。

合掌 (-人‐)
久生寺 常国寺の前の道をさらに北上します。最初の角を左に曲がると高津さん。曲がらずにさらに北へ。久生寺というお寺に、曾根崎心中のヒロイン、お初のお墓があります。

お彼岸時分にある、春場所(大阪場所)では、高砂部屋の宿舎になっています。「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がありました。

親戚のお墓がある訳や無し、「関係者」とは言い難いので、門前で写真を一枚。タクシーが止まって、お相撲さんふたりが降りてきはりました。
近所の子供が「あ、おすもうさん!」と手を振ると、ふたりそろってにこっと手を振り返してました。
曽根咲心中「お初」の墓 こちらは、以前に撮影したお初さんのお墓。
戒名は「妙力信女」。お寺は「本門法華宗」という宗旨のようです。
つまり「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えはったんですね。

落語のくすぐりに「心中もので唱えるのは、南無阿弥陀仏、とだいたい決まっているようでございまして、これが、南無妙法蓮華経だと、ちょっとご陽気で死ににくい」などというのがありますが、そういえば、お芝居で「お経」というと「南無阿弥陀仏」ばかりですね。

演出上の効果だけなのでしょうか?何か、宗教上の深い訳があるのでしょうか。いっぺん誰かに聞いてみようと思います。
井原西鶴の墓 いったん、谷町筋に戻り、8丁目の交差点から東へ、上町筋まで抜けます。誓願寺というお寺に、井原西鶴の墓があります。

言わずと知れた「好色一代男」「日本永代蔵」「世間胸算用」の作者。

「仙皓西鶴」と刻んであります。長く行方不明だったのを明治時代に無縁仏のお墓の中から見つかったそうです。

このお寺には、江戸時代の私立の学問所「懐徳堂」を運営した中井竹庵をはじめとする歴代のご一統のお墓もあります。
近松門左衛門の墓 それから、また谷町筋に戻ります。

谷町7丁目の交差点をちょっと東に入ったところに、道の真ん中に大きな楠の大木がありまして、ま、これが目印といえば、目印。

その交差点をちょいと南に下りますと、ガソリンスタンドがあります。
この北側の壁とビルのあわいさの細い通路の奥に近松門左衛門のお墓。

なんで、こんなとこに?

な、場所にあります。なんでも、妙法寺というお寺にあったんやそうですが、谷町筋の拡幅工事に伴って、お寺は大東市の方に移転になったのですが、近松門左衛門のお墓は国の史跡に指定されていたので、移転すると指定が解除されるとのことで、この地に残ったということだそうです。

「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの作者ですが、「みょうほうじ」て、もしや、と思ったら、やっぱり日蓮宗のお寺です。門左衛門さんも、普段はお題目を唱えておられたのでしょうか。
ひとつ上へ
ちょっとおまけみたいなもんですが。
大塩平八郎の墓少々くたびれましたんで、地下鉄谷町線で3駅ほど北へ参りますと南森町。ここにはお寺が東西にずらっとならんでおります。

天神橋筋から西へ、堀川えびすさんを目指して歩きますと右手に成生寺(じょうしょうじ)という日蓮宗のお墓があります。ここには、大塩平八郎の墓があります。

1837年(天保8年)に大阪町奉行所の元与力・大塩平八郎(中斎)が、飢饉に苦しむ人々の救済を幕府に申し入れたが入れられず、門人らとともに決起した反乱の首謀者。

有言実行を旨とする儒教・陽明学の実践者として知られています。

乱は事前に幕府の知るところとなり、半日で鎮圧されてしまいます。謀反人として、江戸時代は墓を建てることを許されませんでしたが、明治になって平八郎、大正時代に息子の格之進の墓がこのお寺に建立されたそうです。
お寺は、空襲で被災し、お墓も破損しましたが、有志の手で再建、整備されています。
 堀川跡の高速道路高架をくぐりまして、堀川えびすさんを尻目に殺して西にすすみます。
読売新聞のビルへ出ますと、これを右へ。
神山の交差点を左にいきますと、「太融寺」があります。
淀度の墓弘法大師さんが嵯峨天皇の勅願により創建されたと伝わる由緒のある大きなお寺です。

太融寺の「融」は、創建に深くかかわった嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のお名前にちなむんやそうです。

このお寺の一角に「淀殿」のお墓があります。

もともとは大阪城の東の「鴫野」に祀ってあったのですが、明治になって、この地に豊臣家とも縁が深かった太融寺に移されたんやそうです。

お大師さんですから、ここは「般若心経」を称えるのでそうね。

まかはんにゃはらみたしんぎょうーーー。(-人ー)
 太融寺さんのちょっと西に行きますと「円頓寺」というお寺があります。ここは「鷺とり」で、われわれ同様というのが、夜中にやってきて鷺を取ろうとして、捕まえた鷺もろともに、天王寺さんまで飛ばされるという話の発端の場所。ま、それは、また何ぞの折に。
かしく寺こんどは、南にたらたらと歩きます。国道1号の終点近く、梅田新道の交差点の北東の裏通りに「法清寺」というお寺があります。

ここも日蓮宗!

むかし「かしく」という遊女がおりまして、普段は大人しいのですが、酒を飲むとえらい酒乱やったそうで、ある日、いさめたお兄さんを殺めてしまいます。「死罪」と定まったかしく、千日前の刑場にひかれる途中、役人に油揚げを所望しました。

この油揚げの油を髪になでつけ、最期の身だしなみを整えてから斬首に臨んだというお話が残っております。
境内には「酒の咎 引き受け申し候」と書いた石碑があり。お参りすると酒乱がなおるのだそうです。
 てなことで、とりあえず、年度内に報告完了でございます。このあたりには、他に山片蟠桃さんの墓やら、大石内蔵助のお父さんの墓やらいろいろとあるようですので、また改めて、お参り、逍遥をいたしたいと存じます。
 まずは、本日はこれまで。

御可笑拵処「庚申堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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