しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡りそめにし ゐかい津の橋 小野小町 森之宮の焼肉屋さんで、サム・ギョプ・サルという韓国料理を食べました。 「焼肉というと、牛肉と思われますが、済州島は豚食の文化が主ですねん」 あ!・・・済州島 |
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上町台地の東側、生野区を中心に広がるコリアンタウン。 で、その一帯を「猪飼野」と呼んだ。 現在は、そういう地名は「差別的」とかいうことで地図上から抹殺されてしまっております。が、差別も何も、実は、大変古い地名でございまして、大和朝廷が猪や豚を飼育していた場所であったと推定されております。 猪を甘く(おいしく)調理する人々、猪を飼育する職能集団「猪飼部」がが住んでいたから「猪飼野」でございます。 |
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また、入り江の静かな海でしたから、辺りには鶴がたくさん飛んできたそうです。 鶴の橋は、百済川とも呼ばれた平野川に架かっておりましたが、昭和15年(1940年)に河川改修が成って、川は埋め立てられ、橋はなくなってしまったそうですが、千数百年の月日を隔ててて、築造技術を伝えた渡来の民が初めて架けたという橋を、その末裔の手で喪わせしむ・・・。その年、日本は破滅の戦争へ向けて最後の一歩を踏み出したのです。 |
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史跡公園の前の道路には大阪市の「歴史の散歩道」であることを示すタイルが張ってあり、これに沿って歩いていきますと、江戸時代の道標に出会いました。南側に「左 大阪」と記してあります。おおさかに「阪」の文字を使うようになったのは、「土に反える」のを不吉とした明治以降と言われていますので、この表記は大変珍しいそうです。 さらに「散歩道」を伝っていきますと生野区役所の前の「御勝山古墳」に出会います。 前方後円墳やったそうですが、道路に分断されて見る影もなく、雑木林の丘に見えますな。 |
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ここは、大阪城冬の陣で、徳川秀忠の本陣となった場所でもあるそうで、必勝を祈願したから「御勝山」と名づけられたとか。 で、その激戦の結果、墳丘の形も随分と変わってしまったとか。 ・・・被葬者は不明だそうですが、「おちおち安らかに眠ってもおられんわい」と、ぼやいておられるかもしれません。 |
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ふる雪は あはになふりそ 吉隠の 猪飼の岡の塞まさまくに 穂積皇子(万葉集 巻二) ※この「猪飼の岡」は、奈良県桜井市の初瀬川沿いにあったらしいです。 |