しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡りそめにし ゐかい津の橋

小野小町

森之宮の焼肉屋さんで、サム・ギョプ・サルという韓国料理を食べました。
中央が凸状の鉄板を熱して豚バラ肉を並べ、余分な脂肪を流してカリカリになったところで、チシャ、ゴマの葉の上に乗せ、ゼンマイやもやしの大根のナムル、鉄板の上で熱した油で揚げたニンニクなどを好みに合わせて包み、一口でぱくっと食す。
はふはふはふ・・・!

え?いつから食道楽案内になったか・・・ですか。 いえね。その時、焼肉屋さんの大将がいうには

「焼肉というと、牛肉と思われますが、済州島は豚食の文化が主ですねん」

あ!・・・済州島

上町台地の東側、生野区を中心に広がるコリアンタウン。
この発祥については諸説がありますが、大正末期から昭和初期にかけ、朝鮮半島から、一帯の河川改修、道路工事などの労働力力として連れて来られたり、伝手を頼ってやって来たりした人たちが集住したのが始めとされております。
そして、その人たちの主な出身地が済州島やったと、金参汀著「異邦人は君ヶ代丸に乗って」(岩波新書)という本に書いてございます。

で、その一帯を「猪飼野」と呼んだ。

現在は、そういう地名は「差別的」とかいうことで地図上から抹殺されてしまっております。が、差別も何も、実は、大変古い地名でございまして、大和朝廷が猪や豚を飼育していた場所であったと推定されております。

差別的であったのは、ここに連れてこられた人たち、またはやってきた人たちに対する、日本政府の、また日本の民たちの施策や仕打ちであったのはなかろうかと、思うのであります。

で、この猪飼野の地に、橋を架けたという記録が日本書紀、仁徳天皇14年(327年)の条にございます。
なんでも、架橋の記録としては日本最古のものとか。

曰く
「十四年の冬十一月(しもつき)に猪甘津(ゐかいのつ)の地に橋為(はしわた)す。すなわち其の処を号(なづ)けて小橋(をばし)と曰ふ」

猪を甘く(おいしく)調理する人々、猪を飼育する職能集団「猪飼部」がが住んでいたから「猪飼野」でございます。
それが、なんで、「猪甘津」かというと、上町台地の東側は、その昔は大きな入り江というか湖というか、内海が広がっておりまして、大陸や朝鮮半島との重要な貿易港やったそうです。特に百済からの渡来人が多かったそうです。

また、入り江の静かな海でしたから、辺りには鶴がたくさん飛んできたそうです。

それで、誰言うとなく「鶴が飛んでくる橋」・・・「鶴の橋」・・・「鶴橋」と、こうなったんやそうです。

ホンマでっせ。
その証拠に、JR環状線「桃谷駅」から東へ10分ほど、商店街を抜けて信号を渡り、ちょっと路地に入ったところにある
「つるのはし史跡公園」があります。10m四方くらいの小さな緑地に高さ3mくらいの石碑があり、傍らの解説板に「文献のうえでは、わが国最古の橋」とあります。また、その解説には「津の橋」が訛って、「つうの橋」から「つるの橋」「鶴橋」になったという説も記してあります。

鶴の橋は、百済川とも呼ばれた平野川に架かっておりましたが、昭和15年(1940年)に河川改修が成って、川は埋め立てられ、橋はなくなってしまったそうですが、千数百年の月日を隔ててて、築造技術を伝えた渡来の民が初めて架けたという橋を、その末裔の手で喪わせしむ・・・。その年、日本は破滅の戦争へ向けて最後の一歩を踏み出したのです。

なんや、歴史の因縁の感じられる経緯ではございますね。

史跡公園の前の道路には大阪市の「歴史の散歩道」であることを示すタイルが張ってあり、これに沿って歩いていきますと、江戸時代の道標に出会いました。南側に「左 大阪」と記してあります。おおさかに「阪」の文字を使うようになったのは、「土に反える」のを不吉とした明治以降と言われていますので、この表記は大変珍しいそうです。

さらに「散歩道」を伝っていきますと生野区役所の前の「御勝山古墳」に出会います。
前方後円墳やったそうですが、道路に分断されて見る影もなく、雑木林の丘に見えますな。
ここは、大阪城冬の陣で、徳川秀忠の本陣となった場所でもあるそうで、必勝を祈願したから「御勝山」と名づけられたとか。
で、その激戦の結果、墳丘の形も随分と変わってしまったとか。
・・・被葬者は不明だそうですが、「おちおち安らかに眠ってもおられんわい」と、ぼやいておられるかもしれません。

ふる雪は あはになふりそ 吉隠の 猪飼の岡の塞まさまくに

穂積皇子(万葉集 巻二)

※この「猪飼の岡」は、奈良県桜井市の初瀬川沿いにあったらしいです。


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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