天神橋から天満橋方面を望む大川右岸
天神橋から天満橋方面を望む 大川右岸
♪桜花爛漫月朧ろぉおお 胡蝶の舞をしたいつつぅう

我が母校、大阪市立大学の前身、旧制大阪商科大学の逍遥歌にございます。
まさに桜花爛漫、黄砂に吹かれて春朧ろの4月初め、花の便りに誘われて、うかうかうかとあゆむ大川べり。折から近づく低気圧に雲行きも怪しく、花冷えのする午後でございましたが、花の下には春の盛りを愛でる人がずらりと敷物を敷いてお弁当を広げて名残の花見に興じておられました。
満開の桜桜の季節の落語はやはり、「貧乏花見」がポピュラーですね。長屋の衆が、台所のあまりもんを「ごちそう」に見立てて、宴会をしようという。

ご飯のおこげは、蒲鉾ならぬ「かまぞこ(釜底)」
黄色いからこうこ(沢庵)は卵焼き(音のせんように食べなはれ)
番茶を水で薄めて「おちゃけ」

てなことを言うておりますな。

お店では堅物で通っている番頭はんが、太鼓持ちや芸者衆と屋形舟で桜の宮へと繰り出すのは「百年目」。東横堀に架かる高麗橋のたもとから、どぶんちょうちょう……。

葭屋橋(よしやばし)をくぐって、大川へと出てまいります。

散財しているのを人に見られたらいかんというので、屋形舟の障子を閉め切って乗ってたりなんかして、なんかおかしいのですが、そのうちお酒がまわって、気が大きくなって……と噺は続いていきます。

番頭さんの運命や如何に。
 ところで、現在、この桜満開の遊歩道になっておりますのは、天満橋の八軒家浜のちょうど向かいくらいです。ここは江戸時代には青物市場があったところです。
満開の桜 大川右岸 天満青物市場跡付近堂島の米市場、鷺島の雑喉場(ざこば)=魚市場と並んで、三大市場とされたのが天満の青物市場。菜菰と書いて「あおもの」と読ませたらしいです。

大坂の青物市場は、石山本願寺があったころに水運を利用して、本願寺の門前や京橋辺りに開かれ、その後京橋の南詰、北詰と移り、1651年(承応2年)に大川右岸の天満に移転してきたのだそうでございます。

大坂の子守唄に

ねんねころいち
天満の市は
だいこ揃えて舟に積む

舟に積んだら
どこまでいきゃる
木津や難波の橋の下……。

ここから、大川、西横堀と運河を舟で運んで行ったのでございます。天神祭りの船渡御は、もと難波橋あたりから、大川を下り、西横堀に入って、難波あたりのお旅所に御鳳輦を運んでいたそうですから、まさに青物運搬コースと重なる生活を反映したお祭だったのですねぇ。
大坂くらしの今昔館 企画展ポスター天神橋筋6丁目にある大阪市立住まいのミュージアム「大坂くらしの今昔館」で開かれていた企画展「天満の歴史とまちづくり」(2014年3月8日~4月6日)によりますと、この天満というところは、古来、大水が出ても水没しない地域やったそうで、現在の天満宮がある場所にはもとも大将軍社というお社がありまして、難波の宮の守り神だったそうです。

菅原道真公が、大宰府左遷の折にここにお参りになって、それから九州に旅立たれたのですが、死後この地に7本の松が生じたそうです。

この松が、夜な夜な光ったっちゅうんですから、みなびっくりいたしまして、これは、えらいこっちゃ、ちゅうんで、天神さんになった道真公をお祀りしたのが天満宮だそうです。

最初の「大将軍社」は、今、天満宮の境内に「摂社」としてお祀りしてございますな。

で、また、大坂城の場所に、石山本願寺があったころは、天満あたりは、その寺内町として栄えてたそうです。織田信長との合戦の後、和睦して立ち退いた本願寺さんは、豊臣秀吉の時代には、天満に戻ってきてはったんですね。そのあと、京都へ行きはりますが。

江戸時代には大川の水運の拠点でもあり、大阪三郷(北、南、天満)の一つとして栄えてきたのでございます。

このあたり、また落語や、文楽、お芝居の舞台にもなっておりますが、本日はこの辺で。

ほなら、また。
古地図 1806年(文化3年)

文科年(1803年) 摂州大阪地図(部分)


御可笑拵処「庚申堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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