めでたいと申そうか、お名残惜しいと申そうか、千日いうても尽きぬこと

                    再び、「冥土の飛脚」より

本日は、逍遥記、ちょいと、上町を離れまして、高津さんの「高き宮」から、町中へと繰り出しましょうか。
さ、さ、こう、おいでなされませ。

高津神社の梅乃橋を渡って、高津さんにお参りして、西側の相合坂に出ます。玉垣に「中村雁治郎」と掘ってあるのを見つけました。なんか、お芝居に縁のある気分でございますよ。

坂を下りて、ぶらりと西に歩いていくと、東横堀と道頓堀の出会う角があって、その辺りに、「大阪高津橋」という橋がかかっていたようですね。その橋の南詰に、淡路島から出て来た、人形芝居の興行師、植村文楽軒が、人形浄瑠璃の小屋「西の浜の高津新地の席」というのを建てました。

これが、いわば、世界無形遺産「文楽」の発祥の地でございまして、文楽の興行拠点は、その後変遷いたしますが、現在はそのゆかりの地に国立文楽劇場が建っております。

文楽劇場の前から千日前通りを渡って、ちょいと南にいったところか、大阪の台所「黒門市場」でございます。

昔、堺筋に面した日本橋2丁目に、圓明寺という大きなお寺があって、その門が黒かったそうです。

黒門市場のHPによりますと、江戸時代、文政5年(1822)ころに、この 黒門の前で、魚商人が集まって、魚の商売をしたのが「黒門市場」のはじめだそうで、ございます。

鮮魚、青物、肉・卵などなど、150店舗がお店を連ねております。

さて、黒門の前に集まった「魚商人」が売りさばいたお魚は、どこに行ったかというと、日本橋辺りだそうでございます。
江戸時代は、日本橋界隈は、宿屋街だったそうで、落語の「宿屋仇」は、その日本橋の宿屋が舞台です。

「静かな部屋へ」と案内を頼んだお侍が、隣の部屋のどんちゃん騒ぎに耐えかねて、宿に苦情を言う。「お静かに・・・」と頼まれた、隣の3人連れ、ぶつぶつ言いながら、寝床で、また世間話、自慢話。「侍の女房と間男をして、人を二人殺して50両の金を盗んで逃げてきた・・・」と言い出したのを聞きとがめたお侍に「それは、我が弟と妻の話。仇を見つけた、手打ちに致す」と、宣告されてしまします。
この噺、イギリス人の女性落語家「ダイアン吉日」さんが、英語落語に直してやってはります。居合いの師匠の所へ、刀の扱い方を習いに行って、高座の所作に生かしておられ、「日本文化」の再発見にもなります。

それから、ぶらぶら歩いて、出てまいりましたのが、千日前。昔は、墓場があって、処刑場がありました。落語「らくだ」は、暴れもんのらくだが死んで、友人の熊が、隣近所を脅して、弔いの真似事をして、千日前の火葬場まで運ぶという、あらすじを書くとかなり、陰惨な話です。

六代目松鶴さんの十八番で、酔っ払いが、らくだの死骸を運び出して、他所の家の前で「かんかん踊り」させるのが、爆笑もんでございました。

(う〜ん、どう書いても陰惨ですなぁ)

「らくだ」は東京にも移されていて、人間国宝だった、小さんさんで聞いたことがあります。江戸落語らしく、抑制が効いていて、これも可笑しかった。

昭和は、遠くなりにけり・・・て、ございますねぇ。

墓場の北側にある、「法善寺」「竹林寺」で、江戸時代に千日念仏供養をし、特に「法善寺」を千日寺ともいったことから、 道が千日供養のお寺に通じるのんで「千日前」となったのでございますよ。

近松門左衛門「冥土の飛脚」で、大事の金に手をつけて、遊女梅川を身請けした忠兵衛、廓の主から「めでたいと申そうか、お名残惜しいと申そうか、千日いうても尽きぬこと」と言われて、「その千日が迷惑・・・」と、受けます。

公金横領でやがて、千日前で獄門となる末路を暗示したもんやそうでございますね。

千日前商店街を北へあるいていくと「法善寺」と書いた石碑があって、これが本来の参道でございますが、それをもう少し北に行くと、路地があって「法善寺横丁」と書いた看板がかかっています。これは三代目桂春團治さんの筆になるもので、反対側の入り口には、松竹新喜劇で活躍した藤山寛美さんの手による看板があがっています。
明治時代には、ここら辺に、「紅梅亭」「金沢亭」という寄席があり、大変にぎわったそうです。
初代春團治の赤い人力車もくゎらくゎらくゎらくゎらと車輪の音を響かせて、この路地を走りぬけたのでございましょうね。

路地を入って、左側に曲がると、法善寺さん。水掛不動さんがいてはります。こいさんが、「はよう、立派な板場はんになりぃや」と、長〜いこと拝んでくれはった、お不動さんでございますね。

商売繁盛、恋愛成就に霊験あらたかで、ご参拝の列が絶えません。

子どものころは、その苔むしたお姿が、なんとなく、不気味で、大変恐かったような記憶がございます。
「横丁」というのは、通りに直行する小さい道、横あいかから丁の字に入るから「横丁」で、ございまして、先ほど申しましたように、この路地は、法善寺の門からお参りする道には、並行しておりまして、本来の字義にはかなわないのでございます。

元々は、この道は、「法善寺裏」というていたんやそうで、それを作家の長谷川幸延氏が、1940年(昭和15年)にオール読物に「法善寺横町」を発表したことから、この名前が広がったそうです。

小説の題名は「ほうぜんじよこちょう」と、読むのでしょうが、大阪では「横町」は、古来「よこまち」と、読むのでございます。それが、これ、以後は「よこちょう」と読まれるようになり、東京と同じ「横丁」の文字が使われるようになったのだとか・・・。ものの本に書いてございました。

法善寺さんを出まして、にぎやかな方に参りますと、道頓堀。芝居小屋が建ち並んだ歓楽街でございまして、「蔵丁稚」「近日息子」「足上り」「蛸芝居」と、お芝居が題材の落語は一杯あります。庶民の娯楽として、浸透していたのでございましょうね。

「くいだおれ人形」で有名な飲食店「大阪名物くいだおれ」が、2008年7月8日で閉店やそうでして、店頭には、大勢の人が、記念写真を撮っておられます。よう考えたら、自分の店に「大阪名物」なんて、勝手に名前付けるのも、あつかましいというか、たくましいというか。それでも、60年したら、閉店てな憂き目にあうのですね。太郎君の運命やいかに!

そういえば、戎橋の北詰にあった、ビール工場のある飲食店ビル「KPOキリンプラザ大阪」もいつの間にかなくなっていて、丸紅はんが、商業ビルとして再開発、2009年に開業なさるよし。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし

道頓堀に浮かぶうたかたは、何を見てきたのでございましょうねぇ。

浪花上町逍遥記、本日は、これまででございます。
お退屈さまでございました。


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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