4.頃は慶長も相改まり、明くれば元和元年五月七日の儀に候や

JR環状線「玉造」駅の西側、環状線と並行するように日之出通商店街というアーケードの商店街があります。かつては、玉造は市電の終点で、戦前は陸軍工廠なんかが、近くにあったとかで、随分繁華な商店街だったそうです。寄席や映画館もたくさんあり、一斉を風靡した漫才のエンタツ・アチャコなんていう人気者が出演した小屋もいくつかあったとか。その商店街を横切り、玉造筋を渡って150mほどいった南側に三光神社という神社があります。

この辺りは、真田幸村が徳川方の攻撃に備えて真田丸という出城を築き、空堀を堀ったところとされており、「真田山」「空堀」などの地名が現在に残っております。

慶長19年(1614年)の大阪冬の陣のあと、真田丸は打ち壊されてしまったそうですが、元和元年(1615年)の夏の陣では、真田幸村が、この地に陣を敷き、阿倍野方面から攻めてくる徳側方と対峙し、中央突破を図った幸村が、総大将の徳川家康の本陣に肉薄し、観念した家康が切腹をしようとしたとも伝えられております。

三光神社の境内には、真田幸村の銅像があり、そのすぐそばに、真田幸村の抜け穴という「史跡」があります。幸村が、大阪城との連絡のために密かに掘った地下道で、ずーーと、大阪城まで続いているのだというのですが、今のぞいてみても、すぐ10mくらいのところで、行き止まっている様に見えます。

前掲の「米朝ばなし 上方落語地図」によると、「真田幸村の抜け穴」というのはこの辺にあちこちあったんやそうで、あるWEBサイトには、産湯稲荷とつながっているという言い伝えもあると書いてありました。

落語の方では、講釈師に恋路を邪魔された(と逆恨みした)男が、講釈の最中に胡椒をくすべた煙で、講釈師にくしゃみをさせ講談むちゃむちゃにしてしまうという「くっしゃみ講釈」があります。そこで演じられるのが、難波戦記、大阪夏の陣の場面です。

頃は慶長も相改まり、明くれば元和元年五月七日の儀に候や。大坂城中、千畳敷おん御上段の間には内大臣秀頼公、おん左側には御母公淀君、介添えとして大野道犬、主馬修理亮数馬(しゅめしゅりのすけかずま)。軍師には真田左衛門尉海野(さえもんのじょううんの)幸村、四天王の面々には後藤又兵衛(またびょうえ)基次、長曽我部宮内少輔(くないのしょうゆぅ)秦元親、木村長門守重成。七手組の面々いずれもいずれもと控えたるところ、綺羅星の如し……

しかしながら、豊臣側は敗れ、真田幸村は、茶臼山北の安居神社で戦死、太閤さんの大阪城は炎上、淀君も秀頼公も自害して果てるのですが、講談の方では、真田幸村の抜け穴を抜けて幸村、真田十勇士と共に薩摩に落ちるということになっているそうです。

安居神社は、真田山の南西約2.5km。一心寺のすぐ北にあって、真田幸村戦死之地という石碑が建っています。


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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