吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ(古事記)

ちょいと故あって、大和路、それも古事記ゆかりの地、てなところを歩いてまいりました。

太安万侶が古事記を編纂いたしまして「でけました」とときの帝・元明天皇に提出しはったのが、その序文によると和銅五年正月二十八日となっておりますから、西暦でいいますと712年。今年(2012年)がちょうど、1300年に当たるのやそうでございます。
そんなことで、ゆかりの地はいろいろなイベントなどで注目されております。
大神神社拝殿
これは、奈良盆地南東、奈良県桜井市の三輪山に鎮座まします、大神神社(おおみわじんじゃ)の拝殿でございます。
古事記には、出雲神のオオクニヌシが、共に国づくりに勤しんでいたスクナヒコナが「常世(とこよ)の国」に旅立って、いなくなって悲しんでいたところに、「海をてらしてより来る神」が、「吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ」と言うた、ちゅう話が出ております。

「倭の青垣・・・大和の国の青々とした山並みの東の方の山の頂に私を祀りなさい」って、おっしゃったので、その通りにしたら国づくりが出来ました、ということでございます。

実は、この神様が「オオモノヌシ」様だそうですが、この名前が書いていないのですね。
古事記には。
「名前を言ってはいけないあの方」という訳で、強力な「祟神」のイメージなのでございましょうか。
んで、ややこしいことに、オオクニヌシとオオモノヌシとは「同体」ともいわれる。
もっとややこしいのは、なんで出雲のオオクニヌシに、ヤマトの山の上に祀れと言ったのか・・・。
不思議なことに、この三輪の地には「イズモ」という地名の場所がいくつもあるとか。

・・・とりあえず、深く考えないで、そういうことなのでございます。

そういう経緯で、この神社には本殿はなく、御神体は三輪山そのもの。拝殿の奥に鳥居が三つ並んだ「三ツ鳥居」という形式の独特の鳥居があり、そこから山そのものを拝むのだそうです。
山辺の道三輪山の麓から北へ伸びる道、ずっと北の春日大社の御神体山「御蓋山」までをつなぐ道を「山辺の道」といいます。古代からの「官道」であります。

現在は、ハイキングコースとして整備されております。

あちこちに万葉の歌碑がございまして、あちこちに道しるべもございますので、歩きやすい道です。

大神神社の二の鳥居前の参道脇に「森正」という素麺屋さんがありまして、奈良麻のれんのかかったひなびた雰囲気のお店で、この季節は「にゅうめん」がおいしい。ちょっとボリュームの欲しい方は柿の葉寿司もいっしょにどうぞ・・・て、別に宣伝費もろうてませんよ。
相撲神社山辺の道をどんどんどんどん歩いてまいりますと、ちょっと視界が開けた場所に出てまいりまして、ここから緑の山並みがずーーと見えます。

これが、「青垣」でございますね。

ヤマトタケルが伊吹山の戦いで傷ついてヤマトへの帰途に詠む、望郷の歌

やまとは國のまほろば
たたなずく青垣
山ごもれるやまとしうるわし


と、つぶやきます。あの「青垣」でございます。

この辺を「青垣国定公園」というのだそうでございますよ。

で、三輪山の北西麓に「相撲神社」があります。
當麻蹴速(たいまの・けはや)という豪傑と野見宿禰(のみのすくね)という力持ちが、初めて「相撲」を天皇の前で行ったという場所にあるのが、「相撲神社」
野見宿禰が當麻蹴速を踏み殺して勝負がつきます・・・て、草創期の相撲は荒っぽいです。鳥居の向こうにうっすらと土俵があります。
纏向遺跡 相撲神社の前の道は緩やかな下り坂です。途中に大きく視界が開けてみえるのが、「纏向遺跡」。弥生時代よりすぐ後の「都市遺跡」が広がっていて、すぐ近くには「箸墓古墳」をはじめ3世紀の大型前方後円墳が多数あります。

箸墓古墳は、このあたりに住んでいたヤマトトトヒモモソヒメが、毎夜通ってくる男の正体を教えて欲しいと願ったところ、「見せてもいいが、本性を知って驚くな」と念を押して、朝になって本性を見極めたところ、小さな綺麗な蛇だったことが分かります。
実は、この蛇こそ、三輪山の「オオモノヌシ」でした、が、ヒメは、驚いて、箸でほとを突いて死んでしまうのです。箸墓古墳

ヒメの墓を「箸墓古墳」といいます。という三輪山伝説が日本書紀に載っております。
ヒメのお父様は、孝霊天皇であらせられ、従って箸墓古墳は「陵墓参考地」で、ございまして、発掘調査ができないのであります。

この古墳こそ、卑弥呼の墓かもしれない、との説がクローズアップされておえいますが、発掘できたら、いろんなことが分かるでしょうに・・・ねえ。
 大神神社一の鳥居纏向遺跡の辺りから南へ歩いておりますと、三輪そうめん山本の本社がちょうど箸墓古墳の前にあり、土産物店やそうめん作りの体験館、そうめん茶屋などがあります。

それから、素麺会社と素麺屋さんが軒を並べておりまして、夏になったら、ずーーと、そうめん流しのイベントしはるのんかいな、などといらんことを考えていしまいます。

そうめんという食物も歴史は古く、正倉院文書に「小麦を細く伸ばした索餅」というものが登場しまして、どうもこれが、そうめんの原型らしいということです。
なかなか由緒のあるもんでございますね。

で、大神神社の一の鳥居までぐるっと歩いてまいりました。
円錐形の美しい山体。こういう山に古代の人たちは神様が降りてくると信じたんやそうでしえ、「神奈備」なんて呼ばれておりますな。また「三諸山」の名前もありまして、この鳥居のすぐねきに本店がある和菓子屋さん白玉屋榮壽(しらたまやえいじゅ)の最中「みむろ」は、この山の名前が由来です。甘さがくどくなくて美味しいです。
 奈良季行追伸

2012年11月3日朝刊に、上記大神神社のほか、太安万侶ゆかりの多神社、天香久山の南側にある天の岩戸神社などを玉岡さんと巡るインタビュー特集記事「奈良季行」が掲載されました。

故あって・・・の所以は、このインタビュアーを勤めてた人と、狐狸窟彦兵衛はちょうどオオクニヌシとオオモノヌシみたいなもんでございましてね。

もし、お手元に読売新聞がございましたら、ちょっと覗いてみてくださいまし。


古事記序文 (抜粋)

臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。

~略~

 於是天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。時有舍人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。卽、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。

~略~

故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶


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浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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