大阪の人は昔から、「お水取りが済まんと、春は来ん」と申しまして、年中行事の中でもなんとなく、心待ちにしていたようなところがあります。 ということで、お仲間のお誘いもあって、行ってまいりました、あをによし奈良の都は東大寺のお水取り。 |
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奈良を代表する風景と申しますと、興福寺五重塔を背景にした猿沢池畔の図。絵葉書にも必ず、入っているカットです。 俗謡に「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分」と申しまして、昔から不思議な池として伝えられております。人々の殺生を戒め、生き物を放す興福寺の「放生池」やという説もありますが、以前に興福寺のご住職に「実は、奈良のお寺を作る時の瓦を採った場所という説もあります。池浚えの折に底に出てきた土を見て、陶芸に詳しい人が<ああ、ええ土がある>と垂涎のまなざしを向けたそうですよ」と教えてもらったことがあります。 |
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池の畔には「采女神社」というお社があります。 昔、帝に寵愛を受けた「采女」(地方豪族から朝廷に集められた見目麗しい女官)が、帝の寵が薄いことを嘆き、猿沢池に入水して果てたということがあったそうです。そんなこととは知らずにいた帝が、たまたま、人から顛末をきき「それは哀れなこと」と、猿沢池に御幸して、宮廷歌人、柿本人麻呂に歌を歌わせます。 その折の歌が 「わぎもこが 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻とみるぞかなしき」 帝も、その歌に答えて 「猿沢の池も つらしな わぎもこが 玉藻かづかば 水ぞひなしも」 と詠まれ、お墓を建てるように命じられたと、歌物語集「大和物語」150段にございます。 采女神社は、鳥居は池に面していますが、社殿は池に背を向けております。采女の霊を祭ったお社だけに、池に面しているのに耐え難く、一夜にして背を向けてしまったとの伝説が残っております。 |
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池の南側一帯を奈良町と申しまして、町屋が建ち並ぶ風情のあるまち。一筋西に入ると「元林院」という花街のあった場所でございまして、いまでもベニガラ格子の粋な佇まいのお店がならんでおります。 猿沢池の南西の畔から南に伸びているのが今御門商店街。昔、上街道と呼ばれた由緒ある道だそうです。 奈良の都と、藤原京を結ぶ南北の道に上ツ道というのがあったそうで、この道につながるのだと思っていましたが、この一帯は奈良時代は元興寺どいうお寺の境内になっていたそうですから、そのルートとはちょっと異なるようです。 元興寺は、元、飛鳥にあった蘇我氏のお寺「法興寺」(今の飛鳥寺)を移したお寺だそうで、日本霊異記に、雷に授かった怪力の子どもが、鬼退治をするお寺として記されております。江戸時代あたりには、鬼のことを「がごぜ」と言ったそうですが、これは元興寺がなまったもの。妖怪の絵ばっかり描いた鳥山石燕という人の「画図百鬼夜行」にも、「がごぜ」が収められております。 |
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なぜ、元興寺に鬼が出たかというと、このお寺は蘇我氏のお寺でしたから、蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足の子孫、藤原氏全盛の世の中になって、大変荒れ果ててしまったそうで、魔物が棲みそうな有様だったことから、そんな伝説に結びついたのかもしれないというような解説もあるようです。 奈良町の一角には、奈良の銘酒「春鹿」の蔵元、今西清兵衛商店の所有になる重要文化財「今西家書院」があり、一般公開されています。 |
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と、順にたどっていくと、いつになったら、お水取りの行われている東大寺二月堂に着くやわからなくなります。 と、いうことで、二月堂。 国宝でございます。ご本尊は、十一面観音菩薩さまでございます。 |
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修二会は天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚によって始められました。以来一度も途絶えることなく続けられ、平成20年(2008年)で、1257回目になります。 お水取りというのは、法要の初めに日本中の神様を呼び出して、行の無事を祈願する「神名帳」の読み上げというのがあるのですが、これに若狭国に遠敷(おにう)明神という神様が、釣りをしていて遅刻してしまい。「これは申し訳ないことをした」と、謝って、二月堂の前に泉を湧かせたのだそうです。この井戸を若狭の井といい、このお水「お香水」を汲み上げて、ご本尊にお供えするから、お水取りです。 |
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風物詩のお松明は、この二月堂で行をする僧侶「練行衆」を、お篭りをしている「参篭宿所」から、階段を登って、お堂に送り届ける道灯りなのです。だから、勇壮に松明を振り回すのは、練行衆を送り届けた後、燃え盛る炎を鎮めるための作業でありまして、お水取りの法要の中でいうと、決して重要な要素の部分ではないのですが・・・。
まぁ、美しいですね。 午後7時ごろ始まり、10本の松明を見上げて、解散いたしました。 |