4.偽登山 大坂五山征服 上町台地縦走 |
秋も深まりまして、行楽シーズンでございます。 ハイキングや登山なんていう方も多いことでございましょう。 そこで、今回の逍遥は、大阪市内の有名なお山をぐるっと回るハイキングコースを歩いてみることに致しました。名付けて「偽登山 大坂五山征服 上町台地縦走の旅」 大坂五山って、なんや?と、首を傾げる方も多うございましょうね。 そこは、それ、上方噺に登場する「お山」でございますからね。 まず、第一は 「天保山」 それから、ぐるっと、南に回りまして「茶臼山」「天神山」「真田山」…そして最後が大坂城。 と、上町台地を北上致します。 なんで、大坂城が「山」かと申しますと、もとが 石山本願寺でございますからね。 では、まずは、こうおいでなされませ。 行程地図はこちらです |
Point 1 |
はい。 これが、安治川の河口近くでございます。JR桜島線の終点から徒歩10分ほどのところに渡船の船着き場がございまして、昼間はだいたい30分に1回の割で船が行き来しております。 川の中ほどで、船頭の鬼に死にようを聞かれた亡者が「赤痢です」 っちゅうと 鬼「そら下痢で死んだんやな」 亡「そうでおます」 鬼「ほな49円じゃ」 亡「なんで?」 鬼「ピチピチ49円」 と渡し賃を決めてもらうのは「地獄八景亡者戯」 ここは、大阪市交通局が運営しておりまして、渡し賃は「只」。無料でございます。 大阪湾から大阪港へと入る船の航行の障害にならんようにと、河口の橋は水面からずーっと高い処に架かっておりまして、人間が渡れないので、こうして道路の代わりに渡船を使うのでございます。 頭上に見えているのは、阪神高速道路の天保山大橋です。 全長640m。主塔から斜めに張った多数のケーブルで橋桁を吊る「斜張橋」という形で、主塔の高さは152m、桁下の高さは45mもあるそうです。 |
Point 2 |
わずか3〜4分間ですが、ちょっと変わった視点から、大阪の湾岸の街を見られる「船旅」ではあります。 上陸いたしますと、そこは天保山公園です。 日本で一番低い山というお墨付きの「天保山」。 標高4.53m。2等三角点の碑が埋めてあります。 天保山は、天保年間(1830年―1844年)に安治川浚渫(しゅんせつ)の土砂を盛り上げ入船の目印としたのに由来するのやそうで、現在は山の体をなしておりません。 近くの公園の展望台の方が高い。 落語「愛宕山」で、京都の旦那に「大阪には山がないやろう」と馬鹿にされた幇間が、「天保山、茶臼山、真田山」と山の第一に挙げますが、 「そんなもん、みな地の瘤じゃ」 と馬鹿にされてしまいます。 現在は馬鹿にされた痛みも癒えたのか「瘤」もへっこんでしまったようですな。 近くに明治天皇がお越しになったという高い石碑が建っております。 |
Point 3 |
天保山から、第2のお山、茶臼山へと参りました。 これは、ちょっと遠いので、弁天町から新今宮までは、JR環状線を使わせ頂き、新世界で名物の串カツをちょいとつまみまして、ちょいと、ビールかなんか頂きましてね・・・。 天王寺公園へと進みます。 大阪市立美術館の北側に、「茶臼山」がございます 上から見たら、ちょうど茶臼のように見えるので、茶臼山ですが、だれが、いつ上から見たのでございましょうね。。 前方後円墳だというのですが、発掘調査で石室など、それらしいもんがなかったから、古墳とちゃうんのとちゃうか、という人もいてます。 大阪冬の陣(1614年)では、徳川家康、夏の陣(1615年)では真田幸村がここに陣を敷いておりました。 特に夏の陣では、赤備えの真田隊が、徳川方の本陣に切り込み、家康も「もはやこれまで」と、切腹しかけた、という激戦地でございました。 公園内には、真田の紋所「六文銭」の旗が何本か翻っていて、その奮戦ぶりを伝える解説の看板がありました。 なお、美術館の東側は「慶沢園」というお庭になっておりまして、これは、かつて住友はんが御本宅にしたはったお庭やそうです。 天王寺公園は、1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の跡地の東側を活用して整備されたんやそうでして、開園は1809年(明治42年)。1812年(明治45年)には初代の通天閣が完成しております。 |
Point 4 |
茶臼山の北側に回転扉式の「出口」がありまして、出口専用でいっぺん出たら入れません。 それを出たろことが「一心寺」さんでございます。1185年(文治元年)、法然上人が四天王寺の西門の近くに四間四面の草庵を結んだのが由緒だそうでして、境内には法然さんを祀る「開山堂」があります。開山堂の前に、「大正八九年流行性感冒病死者慰霊」の碑があります。 スペイン風邪としておそれられた新型インフルエンザは、1918年から1919年にかけ全世界で流行し、死者4000万人以上に及んだといわれています。 新型インフルエンザが猛威をふるう2009年に、この碑に出会うのもなにかの御縁でしょうか。亡くなった方々の冥福を祈り、うがい手洗いの励行を心に誓いました。 一心寺と3番目のお山「天神山」を舞台にした落語に「天神山」というのがあります。 山の上に「安居天神」さんが鎮座ましますので天神山です。お噺の方はと言いますと…。 |
へん吉の源助という変わり者が、一心寺に花見ならぬ「墓見」に行って、女の墓の前で一杯飲んで「回向」したのが縁で、その女の幽霊を嫁はんにしてしまいます。 それを聞いた隣の男、「俺も幽霊をカカに」と出かけます。 と、いうて、そうそう女性の墓などというものは見当たらないので、うろうろして、お寺の北側、安居天神に出てきてしまいます。ここで、狐を捕まえていた男から、これを買い取って、放してやると…。 という、えらい長い噺です。 文楽の「葛の葉」=「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」が下敷きとなっております。 で、その安居天神さんは、真田幸村戦没の地でもあります。 茶臼山で家康に肉薄したものの討ち果たせず、反撃をかわしつつここまで退却したところを、徳川方に討たれてしまいます。 これは、戦死跡の碑。 狐にゆかりがあるのか、また、昔は狐が本当にたくさんいたのか、境内には天神さんのほかに、お稲荷さんも祀ってあります。 Point 5 |
Point 6 |
安居天神の長い階段を下りまして、北へ参りますと、細い路地が続いて、大阪清水寺へと出ます。 京都の清水寺同様に三筋の滝が流れ落ちておりまして、これを「玉出の滝」といいます。 上町台地の地下水脈を流れております清水でございまして、今もこの滝に打たれて行をなさっている方のお姿が見られます。 墓地の階段を上がっていきますと、テラスのようになっておりまして、これが「舞台」でございますよ。 ビルが建て混んであんまり景色はよくありませんが、通天閣やら、さきほどの安居の天神さんの境内やら、そこそこの眺望は楽しめます。 落語には「茶目八」というのがあって、この清水さんが出てくるらしいです。 いっぺん聞いてみたいと思いますな。 この辺り、上町台地の寺町になっておりまして、その昔は社寺への御参詣がてらに遊山する場所でもあったといいます。 このお寺の近くには「浮瀬(うかむせ)」という料亭があったそうです。 鮑貝の穴をふさいで盃にして出したので、この名があるとか・・・ 「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ…」の洒落でございますね。 また、もうちょっと北にある「月江寺」=左の写真=は、藤の名所やったそうでして、辺りを散策したり、素焼きの盃を的に向かって投げる「土器(かわらけ)投げ」やなんかもできるようになっていて、一種のアーバンリゾートだったのでありますよ。 |
Point 7 |
生玉はんは、正しくは生國魂神社でございます。「いくくにたまじんじゃ」が正しいのですが、みなさん「いくたまはん」と呼びならわします。 験かつぎを気にするお茶屋で旦那がむちゃくちゃする噺「けんげしゃ茶屋」では、初詣に生玉はんがええ、というのに旦さんが「あ、あそこはええなぁ…松屋町筋を迷わずまぁああっすぐ…」と、道順を表現してワヤにします。 境内に、大阪の落語の祖とされる「米澤彦八」の顕彰碑があります。江戸時代、元禄のころにこの神社の境内で、滑稽話をしたのが、落語の始まりとされるのがその所以です。 ほぼ同時期に露乃五郎兵衛という人が京都の北野天満宮境内で、噺を披露したとされ、こちらもその名を今に伝えられております。 その時分のお話に、 彦八が「最近面白い話はないか?」 と問われて 「雨が喋ったそうでございます」 と答えた。 聞いた人が、あきれて 「なんぼなんでも、雨は喋らんやろ?」 というと 「そやけど、京では、露が噺をしております」 と答えた・・・。 やっぱり、同時代の人やったんでございましょうね。 |
Point 8 |
生玉はんの北門を出ると「真言坂」という、天王寺七坂の一つに出まして、これをたらたらたらと下りますと、千日前通りに出るのですが、これがすぐに渡れない。左に折れて松屋町筋に出て、横断歩道橋を渡って、一筋北へ。 右折れしてしばらく行くと「高津宮」です。 ※天王寺七坂というのは、上町台地にと松屋町筋(下寺町)を結ぶ七つの坂でして北から、真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂(真言坂だけ南北)です。 「高津の富」「崇徳院」などが有名ですが、人を化かそうと言う狐の正体を見た男が、化かされるふりをして、これを騙して喰い逃げをするという「高倉狐」というのや、絵馬堂下にあったイモリの黒焼きを取りあげた落語があるそうですが、これも記録で読むばかりですな。 「イモリの黒焼き」というのは、イモリを捕まえてきてまっ黒けに蒸し焼きにして、それ薬として呑むという。なんでも「惚れ薬」として用いたらしい。 絵馬堂に通じる左右の階段を登ってちょうど出会うと縁が二人は結ばれる「相合い坂」てなことを書いてありますが、その辺りからの想像でしょうか。 この黒焼き屋さん1979年(昭和54年)まで、実在したそうですよ。 |
Point 9 |
高津さんから産湯まで、人力車に乗るお話が「稲荷車」 産湯はさびしい所で、狐が出るから嫌だと渋る車屋さんをせき立てて乗せてもらうのですが、大阪の街中に、あちこち狐が棲んでいたのですね。 今も、時々、茶色い、細長いのを見かけますが、・・・あれはイタチでしょう。 公園で遊んでいるのは?あ、それは子達でしたね。 通天閣の広告は…日立です(・・・もうええですね)。 この境内にも清水が湧いていた井戸があります。 現在は水質が悪く飲めませんが、行をして水をかぶる人はあるようです。 |
Point 10 |
産湯稲荷から北へと方向を変えますと、一帯は真田山でございます。 現在は「真田山公園」という大きな公園がございます。これが第4のお山。 真田幸村が、出城を築いた所ということで、「空堀」なんていう地名も、この出城の回りの空堀からきているとされおりますな。 真田の出城は、夏の陣のあと徳川方に破却されてしまいます。 この辺り、あちこちに洞窟や空洞があったのやそうでして、真田幸村の「抜け穴」と伝承されております。真田山公園からちょっと北に行くと「三光神社」という神社がありまして、境内に幸村の銅像があり、そのネキに、「抜け穴」と解説された横穴が残されおります。 |
Point11 |
さて、最後。第5のお山は大坂城。 浄土真宗の拠点、石山本願寺だったのが、織田信長との戦いの末、石山を退去することになります。この時の退却か否かの方針の違いから宗門が二派に分かれ、後の東本願寺と西本願寺へと分かれていく遠因になったと五木寛之さんが「百寺巡礼 京都T」で書いてはります。 場内には「南無阿弥陀仏」の石碑が、その歴史を伝えております。 が、それはさておき、太閤さんの大坂城は、1585年 築城〜1615年 落城までの30年間でございまして、その後、徳川政権になって、二代将軍秀忠の時代に再建され、1629年に完成。しかし、1665年に天守閣が落雷により焼失しております。この間36年間。 現在の天守閣は、市民の寄付を集めて1931年(昭和6年)に再建された鉄筋コンクリート造りの建造物でして、大阪大空襲にも耐えて、現代まで生きながらえているのでございますね。 お城として、戦略拠点でも富と権力の象徴でもなく、ただ「お城」として市民が建てた大阪城が、一番長寿というのも、皮肉なもんでございますねぇ。 落語には、お城そのものが出てくるお話はないように思います。 お初天神で、親子が凧揚げに来るのは、「城の馬場」といいますから、旧NHK大阪放送局跡のあたりでしょうか。 あの親子の目には、天守閣は映っていないのでございますよ。 NHK大阪放送局のコールサイン「JOBK」がJapan Osaka Banba-cho Kadoの略だったかどうかはよく分かりませんが、現在はフェンスにかこまれた草茫々の空き地となっております。 今度いっぺん凧揚げしてみたいものです。 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 豊臣 秀吉 |
お疲れさまでした。本日はこれまで |