北浜丼池には、昔から橋がない。橋ない川は渡れん。
渡るに渡れんこと無い、船で渡るか。泳いで渡るか・・・。
それではことが大胆な。

「池田の猪買い」より

さて、中之島は東半分へと参りましょう。大阪のメインストリートは、御堂筋。そこにかかっておりますのが、名にし負う淀屋橋でございます。大阪の豪商、淀屋はんが寛永年間(1624-1644)に、堂島の米市場に行くのに便利なようにと自費で架けた木の橋がはじまりやそうです。

淀屋の屋敷は、この淀屋橋南詰め、心斎橋筋から西肥後橋の間、百間四方1万坪に及ぶ大邸宅やったとか。その邸宅に中を通る私道を「淀屋小路(よどやしょうじ)」といいます。

御堂筋の西側に以前に淀屋という洋服屋さんがありましたが、その南側の路地がそれです。落語では「菊江仏壇」に登場するお店の番頭が、店のお金をごまかして女性を囲っているという設定の場所になっております。

御堂筋の一筋東が丼池(どぶいけ)筋。「池田の猪買い」の甚兵衛さんが住んでいるのが丼池ですね。池田までの道を喜六と

「うちの前が丼池や、ここをまーっすぐ行くと北浜に突き当たる」「わはっ!でぼちん打つわ」「なんで、でぼちん打つねん。北浜丼池には、橋が無い」「そうそう、昔から橋がない、これ一つの不思議」「なんの不思議なことがあろう、橋ない川わ渡れんというな」「渡るに渡れんことおまへん。船で渡るか、泳いで渡るか」「それでは、ことが大胆な・・・」

と掛け合います。そのでぼちん打つ突き当り、現在は、水上バスの乗り場「淀屋橋港」となっておりまして、大胆にも船がつくようになっております。

土佐堀通りを東に進みますと、掛かっておりますのが「栴檀木橋」。昔このあたりに、狸がぎょうさん棲んでおりまして、千匹もおったそうです。そやよって、「せんだぬきばし」。これが訛って、「せんだんのきばし」となったそうです。

というのは真っ赤な偽りでございまして、

橋詰に、神功皇后外征の折に船を繋いだという大きな栴檀の木があったことに由来している・・のだそうでございますよ。

こっちも、ほんまかいな?てな話でございますけれどもねぇ。

ところで、浪花八百八橋と申しまして、大阪にはたくさん橋があったといわれますが、それでも180くらいで、江戸は、もっと多かったそうです。それでも浪花八百八橋といわれるのは、そのほとんどが町人の手でかけられ、維持管理されていたからだと申します。幕府が維持管理していたのは、公儀橋と申しまして、わずかに12橋。名前を挙げますと

天満橋、天神橋、難波橋、京橋、鴫野橋、野田橋、備前島橋、高麗橋、本町橋、農人橋、日本橋、長堀橋

ということになっております。

なお、淀屋は5代目辰五郎の時に、幕府から贅沢が過ぎるとして、闕所、つまり全財産没収の上追放されるという憂き目に遭います。なんのことはない、西国大名という大名は、みな淀屋はんからお金借りてて、首が回らん、そやのに、淀屋は町人の分際で贅沢しやがって・・・、っちゅうことでんな。いうたら、借金の踏み倒しですな。

その後、淀屋橋も公儀橋の扱いで、幕府が維持管理したという資料もあります。

で、この、辰五郎が、せめて奉公人の身の立つようにと、一部返済を願いに江戸へ行く途中で、水戸黄門に出会うという「雁風呂」という噺があるそうですが、これはまだ、聞いたことがありません。

大阪の民間活力は、学問の世界でも世の中をひっくり返すほどのエネルギーをためておったのでございますね。

そう、こちらが、適塾でございます。

緒方洪庵センセが自宅を開放して、蘭方医学を講義し、さらに幅広い西欧文明の研究拠点となり、また、明治維新の指導者となるべき若者を育てたのがここでございますよ。

1845年(弘化2)から約20年間の間に、橋本左内、大村益次郎・佐野常民・杉亨二・箕作秋坪・大鳥圭介・長与専斎・福沢諭吉ら、後世に名を遺した人をはじめ、1000人もの人々が集ったそうでございます。

適塾の近くには、大阪の町人の財力で運営された「懐徳堂」もあります。こちらは、1724(享保9年)から1869(明治2年)までの146年間にわたり、武士、町人の別なく学問を授ける場所でした。

そうそう、さっき、栴檀木橋の向こうに見えてました「中央公会堂」。これも、株の仲買人岩本栄之助が寄付した100万円を元に建てられたのです。岩本はんは、1916年(大正5年)に、株で失敗してピストル自殺を遂げ、公会堂はその後の1918年(大正7年)に完成します。

橋の四隅にライオンの像が居ているのは「難波橋」です。昔は、この橋の上から橋が16見渡せたそうで、ほんで、四々の十六やから、つまり獅子やから、ライオン像があるんやとか・・。これも眉唾ですな。

落語の世界では、この難波橋の上から夕涼み風景を眺める「遊山船」や「船弁慶」なんていうネタがあります。
難波橋の南は堺筋。ずーっと堺につながっているので、堺筋でございます。渡ったすぐの場所には、大阪証券取引所がございます。そっから東に行きますと天神橋。

さらに東の天満橋と併せて浪花三大橋と呼びます。

さて、天神橋を渡ったところが、松屋町筋。ちょっと南に下りますと「弘豚社」というお肉屋さんの看板がありまして、これを目印に左に曲がりますと、この辺り「釣鐘町」といいますな。

なんでか。

松屋筋と谷町筋のちょうど真ん中あたりに、江戸時代に大坂の町に 時を告げた「釣鐘屋敷」があるからでございます。

寛永11年と申しますから、1634年。時の将軍、三代家光公が上洛の折、淀川を下って大坂までお越しになったのでございます。

大坂三郷の惣年寄打ち揃ってお出迎えをして、樽三荷鰹節を献上して祝賀申し上げたところ、家光将軍大層お喜びになり、「大坂町中地子銀赦免あるべし」とお達しになったのでございます。

つまり、税金免除でございますね。これを以って、大坂は以後、天下の台所、経済特区となり、繁栄を極めるのでございます。この税金免除をしてくださった家光公の恩恵を長く忘れまいと、建立されたのが、この鐘でございます。

以後、鐘楼は何度も火災に遭いますが、鐘はその難を逃れます。明治になって、時鐘が廃止され、市内を転々としますが、1985年に元の場所へと里帰りしてきた、曰く因縁のある鐘でございますよ。 現在は、コンピュータ仕掛けで自動的に毎日、午前8時、正午、日没時の3回鳴ります。

これまでにもご紹介したことがございます、曽根崎心中のクライマックス、お初・徳兵衛が、「あれ数ふれば暁の、七ツの時が六つ鳴りて」と聞くのも、この鐘の音なのでございますね。





さて、釣鐘屋敷から、さらに東へ進みますと、天満橋界隈までやってまいります.

ここは、三十石舟の終着、八軒家浜の名残を留める石段でございます。この段々の先に大川が流れ、お船が発着したのでございます。

8軒の船宿があったから、八軒家でございますねぇ。そんなこと知ってか知らずか、傍らに「ビジネスホテル アバンティ」なる宿屋が看板を掲げております。

すぐ近くには、京阪電鉄・天満橋駅がございまして、元々、三十石舟の終着駅に、鉄道のターミナルを建てたんが初めやそうです。

落語の世界では、三十石舟は、普通はここに到着する前に枚方辺りで、

 舟の中、乗り合いはみんな、夢の中でございます。三十石は夢の通い路で ございました。

と、終わってしまいます。

♪ やれ〜〜 伏見 中書島なぁ〜 泥島なぁれどよぉ〜(よ〜〜い)
   なぜに 撞木まちゃな 薮の中よ (やれさよいよい よ〜〜い)

三十石舟 舟歌


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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