天ハ人ノ上に人ヲ 造ラズ
人ノ下ニ 人ヲ造ラズ

福沢諭吉

本日は、大阪・中之島を逍遥することにいたしましょう。以前に玉江橋から、まーーすぐ南に天王寺さんの五重の塔が見えるという「七不思議」の一つをご紹介しましたが、その玉江橋で、ちょっと振り返って下さい。

ぎょうさんに高いビルが建ち並んでおります。
以前に、大阪大学付属病院があった場所でございまして、 今は、高層マンション、多目的ホール、朝日放送新社屋などが建設される「ほたるまち」でございます。

手前の茶色いビルが、朝日放送の新社屋ですね。その足元、白い丸で囲んだところ、ちょっとお手数ですが、クリックしてみて下さい。

はい、そこには、かの福沢諭吉さんがお生まれになった場所、中津藩蔵屋敷跡の碑がたってございます。

諭吉さんは 天保5年(1835)に中津藩蔵屋敷で、生まれましたが、1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。大阪に再び出てきたのは安政2年(1855)、長崎留学を終えてから。緒方洪庵センセの適塾で勉強なさったのでございます。

さて、堂島川の北岸を、とことことこと、田蓑端の北詰までさかのぼってまいりますと、なんや盆栽の姉さんみたいな、枝ぶりのええ松がちょこんと植えてあります。傍らの碑には
「蛸の松」と書いてある。

元々は、対岸の久留米藩蔵屋敷跡(大阪大学中之島センターあたり)にあって、枝葉が青々と四面に垂れる姿が蛸に似ているところからそんな名がついた名木だったそうです。

明治10年(1877)久留米藩蔵屋敷跡に大阪府師範学校(今の大阪教育大学)の学舎ができ、そのシンボルになっていましが、明治後期に枯れてしまいます。それから100年、平成16年(2004)に同窓会の方々の手で復活させたのが、この2代目蛸の松です。

こちらを参照しました。
http://www.bunjyo.jp/saihakken/scene/naniwa17.html

だいたい、この蔵屋敷あたり、あんまりにぎやかな場所ではありません。前にも申しましたように、落語では、辻斬りにあって胴を両断されてしまう、「胴切り」、武家の葬礼の最中に陽気な飴売り口上を言うて、叱られる「孝行糖」などがあります。

「次の御用日」では、<船場でございますと、本町橋の西詰を南へ唐物町の浜でございますが、これが本町の曲がりと申しまして、夜はこわいような所やったそうでございますが、昼日中でもあんまり人通りがなかった。南では住友の浜。西では加賀の屋敷の裏手、薩摩堀願教寺の横手、江戸堀四丁目七ッ蔵、中之島蛸の松……なんて、ずいぶんと寂しい所がございましたそうで……>と、寂しい場所を列挙しております中に出て参りますな。

さて、さらに遡行いたしますと、渡辺橋が掛かっております。

「渡辺」という地名は、本来はもう少し上流の、現在の天橋付近を「渡辺の津」というたことに由来しているそうです。

この交通要所を根拠地に勢力をもった源氏系の武士団が渡辺党で、酒呑童子や茨城童子なんていう鬼退治で有名な「渡辺綱」という豪傑が、その祖とされております。

川を渡る場所、「渡し」をつかさどっていたから「渡しの部」、あるいは。渡しのある辺りで、「渡りの辺」なんだそうございますよ。

ところで、堂島川の北に昔は「蜆川」という川が流れておりまして、蜆川と堂島川に挟まれたあたりが昔は「堂島新地」という遊興の地がございました。四ツ橋筋の西側にあたります。

そこにあったのが「天満屋」。曽根崎心中の「お初」が出ていたところでございますね。

さて、もうちょっと東へ、参りますと、全日空ホテルの前にバブルのころ新しくかけられた「中之島ガーデンブリッジ」という情緒も洒落っ気もない名前をつけられた歩道橋が掛かっています。この橋の北詰にあるのが、「堂島米相場会所」の跡でございます。

江戸時代の1620年代に、大阪の米問屋「淀屋」の庭先でコメの延取引(先渡取引)がはじまり、さらに1730年に、世界初の公設先物市場が生まれたのでございます。

アメリカのシカゴに先物市場ができますのが、1848年といいますから、その100年前から先物市場が大阪にあったのでございますよ。

米の相場師を題材にした落語としましては、「米揚げ笊(いかき)」というのがあります。大阪ではザルのことを「いかき」といいます。例によって我々同様というアホが、世話してもらって、いかきの行商にでます。

米相場で、先物の値段が上がるという「強気」の予想をするうちの前で「米を揚げる、米揚げ笊」と声を張り上げて、気に入られる・・・という噺です。

米相場や笊の説明がないと、さっぱり分かりませんが、そこがなんとなくおかしいのは、古典の強みでございましょう。

これは、蜆橋の名残の石標です。 新地上通りの入り口にあります。

新地上通りは、なんとなく蛇行しているのですが、これは、もともと蜆川だった川筋の地形を残しているからです。

その蜆川は、明治42年(1909)に大火があって、焼け落ちた家々の瓦礫がれきで埋まったそうです。

「池田の猪買い」では、我らの喜六が丼池の甚兵衛さんところから、「まーすぐ北に行くと北浜に突き当たる」「あ、でぼちん打つわ」「なんで、でぼちん打つねん」・・・と、道を教えてもらい、「淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を3つ渡る」

というのが、この蜆橋です。

「それから、まっすぐ行ってお初天神。お初天神の西門に、紅卯というすし屋がある。これが目印。ここから、池田へは北へ一本道」

と、お初天神のところに出てきますと、すし屋は無くて、今は交番があります。

ここで、池田への道を聞いたら、「阪急梅田から急行に乗りなはれ」と教えていただけると思います。

露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば

菅原道真

この御歌が、お初天神さんの「本名」露天神の由来ということだそうでございます。

浪花上町逍遥記、本日は、これまででございます。
お退屈さまでございました。


浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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