ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ野郎の、猫っ被りの、香具師の、モモンガーの。岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然・・・

夏目漱石 「坊ちゃん」より

 近年は「ジビエ」というんやそうですな。家畜でない野生の鳥や動物の肉を食用に供することを。フランス語やそうでございますが・・・。本邦では、古来、「四足動物は食べたらあかん」ことになっておりまして、明治維新になって「牛鍋」やなんかを、庶民も食べるようになった・・・、ということになっておりますが、実際は、いろいろと食しておったそうです。

そういう、野生の動物を食べさせる店を「ももんじ屋」と申しました。

「百々爺(ももんじい)」と書きまして、妖怪でございます。

鳥山石燕の「画図百鬼夜行全図」には、一名「野衾(のぶすま)」とも。

夜中に衾のようになって、木から木へと飛び歩く・・・。はい、それは、「モモンガ」ですね。
滑空によって飛翔する性質を持つリスの仲間。ムササビもその同類です。

お気づきでしょうか?「百々爺」の対で「ももん婆(があ)」なのです。

そういう気色の悪いモノなので、明治時代くらいまでは、「ももんがぁ野郎」というのは、代表的な悪口雑言でございまして、かの坊ちゃんも赤シャツをこき下ろすのに、古来の妖怪を登場させたのでございましょう。

閑話休題

その禁忌の獣肉を喰らわんとて、魚に数えられていた鯨にことよせて「山鯨」と称していた、猪の肉を大阪から池田まで買いに行こう、というのが「池田の猪買い」でございます。

「冷え」を患った喜ぃ公が、甚兵衛さんに教えられて、池田への道をたどります。噺を聞くたびに、いっぺん歩いてみたくなりますね。・・・ほな、ご一緒にいかがです?

猪喰った報い・・・やなしに、猪喰うたら温い・・・せぇがつきまっせぇ。

写真の大きいのんはこちらのアルバムでご覧下さい=あるばむ=

  甚兵衛さんのおうちの前が「丼池筋」。
丼池筋は、御堂筋から二筋東。「丼池ストリート」という看板が上がっています。近江商人の名残りを留める「滋賀銀行」の支店の前から出発です。 

なんで、「どぶいけ」か、というと、昔どぶのような汚い池があったからとか、丼型の池があったからとか言われているそうです。ホンマかいな? 
  どんどんどんと、北上しますと、古い建物が見えて参ります。
大阪市立愛珠幼稚園。 1901年築で、現存する幼稚園としては最古の建造物だそうで、重要文化財に指定されております。

また、この場所は、江戸時代には銅座があった場所でもあり、銅座跡の碑があります。

くりっと裏手へ回りますと、これが緒方洪庵センセの「適塾」。センセの銅像もございます。
  大阪の道の名前ですが、大川(淀川)、長堀川、西横堀、東横堀の堀に囲まれた中心街、船場でございますね。その船場の中は、南北は「丼池筋」、「三休橋筋」、「堺筋」と名付けられ、東西は本町通り、今橋通りなど、「通り」と名付けられております。で、「通り」は、お城に近い方から一丁目、二丁目です。

昔は「通り」の方が道幅の広くて、「筋」よりも主役やったそうです。
  御堂筋というのは、元は北御堂と南御堂の前の道をさしたのやそうでして、淀屋橋から南への道は「淀屋橋筋」と呼んでいたんやそうです。これが、昭和元年(1926)から始まった道路の拡幅工事で、これが、ずーっと一本に通ったんで、全部を「御堂筋」と命名されたのでした。 
 土佐堀川
    丼池北浜には橋がない。昔からない、未だにない、これ一つの不思議っちゅうやつで、橋ない川は渡れん、渡るに渡れんことはない、船で渡るか、泳いで渡るか、それではことが大胆な・・・。 ほたらどないする?

という訳で、突き当たりはデボチンを打たずにちょっと左に折れて、淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡ります
・・・あれ、三つ目は?

ございますのです。大江橋を渡りまして、ちょいと参りますと、滋賀銀行が見えて参ります。この、南東角の柱に「蜆橋跡」という史跡がございます。 
堂島川   
   
もともと「蜆川」という川が流れておりまして、これを渡るから「蜆橋」ですね。蜆川は、明治42年(1909)の大火のあと、焼け土で埋め立てられたやそうですから、喜ぃ公が、この橋を渡ったのなら、それ以前ということになりますな。
 
  「お初徳兵衛」の心中事件といのは実際にあったのでございまして、元禄16年(1703)4月7日のこと。近松門左衛門は、そのわずか1カ月後に「曽根崎心中」を初演したのでございます。

その曽根崎心中に「恋風の 身に蜆川 流れては そのうつせ貝うつつなき… 」
と、お初が蜆川の川面を眺めながら、徳兵衛を案じる場面がございます。
 蜆川  現在は「新地上通」という繁華な通りになっております。
    お初天神の西門に「紅卯」という寿司屋・・・は、ありません。北門に「がんこ寿司」があります。ここからは、一本道で、能勢街道。

JR環状線の高架をくぐったところに、「歯神社」というお社があります。 
  昔、洪水があった折に、お稲荷さんのご神木が。流れてきた水をせき止め「歯止め」になったから、「歯神社」。現在は、歯痛にご利益のある神様として尊崇されているそうです。
   現在、阪急インターナショナルホテルや毎日放送などがあって、若者向けのお店もたくさんに出ております「茶屋町」。
その昔は、梅や桜、萩や紅葉の美しいところやったそうで、大阪の街中からちょっと野駆けに来ようかという、行楽地やったそうで。ここに「鶴の茶屋」とい料亭があったんで、茶屋町でございます。

茶屋町を抜けて、大淀警察の前を通って、ちょっと東に「元萩之橋」という石碑があります。こっから、能勢への道が始まったとのこと。
  上流から数えて十三番目の渡し場やったので、「十三の渡し」というた、という説もございますが、ほんまのところは、ようわからんそうです。

仮に、にそうであったとしても、なんで「じゅうそう」と読むのかは、依然、謎のままですからね。

十三大橋の左岸には「池田四里」と書いた常夜灯があります。
十三大橋を渡ると「十三の渡し跡」の碑があります。
 淀川  
    十三の渡しというのは、明治11年(1878)に十三橋というのが出来て、なくなったのやそうでして・・・とすると、蜆川より、先になくなってたのです。

喜ぃやんは、やっぱり、御一新時分の人のようですな。 など、ぶつぶつ言いながら、三国の渡し跡にまいりますと。ぎょぎょぎょ! 
三国に最初の橋がかかったのは、明治6年(1873)で、ございます。
 神崎川  
     そうしますと、甚兵衛はんに「行き帰り二円もあったら、十分」てなことをいうてますが、 明治初年の一円は、金貨でございまして、これが一両と交換できたそうな。すると、現代の貨幣価値なら、十数万円てな勘定になりますが・・・。

そんなことはないのでしょう。 
  嗚呼、明治は遠くなりにけりでございますよ。猪買いはもともと江戸時代の噺なのでございましょうよ。

三国の渡し、現在は三国橋がかかっておりまして、それを北上しますと「天竺川」という川沿いの道に出ます。その堤防の上をさらにぼちぼちと歩いてまいりまして、服部の天神さんに向かいます。
大宰府への旅の途中に脚気を患った菅原道真公の病気平癒に霊験があったというので、今も、「脚の天神さん」として尊崇を集めております。 
  奈良時代から平安時代にかけて、貴族は、生貝が好きで、精米技術も向上してきて、白米を常食するようになったこととあいまって、ビタミンBが不足したので、脚気の人が多かったのやそうです。

などと、蘊蓄を傾けつつ、また、能勢街道の痕跡を探しつつ国道176号線の裏道へ。

おっと、、「左 池田道」と書いた道標を見つけました。
ちなみに「右 みのを勝尾寺山ごへ道」 
  服部から岡町へと出ますと、「原田神社」という風格のある神社へと出ます。この前の道が、能勢街道になっております。なかなか繁華な商店街でございまして、古い構えのうどん屋さんなんかもあります。

原田神社の鳥居は「貞享五年」(1688年)と書かれておりますので、この鳥居は、喜ぃやんは、ひょっとしたら見上げたかも知れません。 
 と、原田神社から、豊中、蛍池、石橋と、歩いてまいりますが、ま、これという史跡はなかなか見当たりません。石橋に着きますと、「落語のまち」てなことをいうて、あっちゃこっちゃにゆかりの地を案内する標識や道しるべがございます。
そんなこんなで、たどり着きますのが

「池田市立上方落語資料展示館『落語みゅーじあむ』」


で、ございます。

そういえば、この並びにあるお肉屋さんの店先に昔、「猪」がごろんと横たえてありました。

「おやっさん!この猪は新しいか?」

という訳で本日はこれまでと致します。
おおきに。

写真の大きいのんはこちらのアルバムでご覧下さい=あるばむ=

浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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