徳川家康が大坂城に籠る豊臣秀頼、淀殿らを攻め滅ぼしましたのが元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣。それに先立つ、冬の陣が前年の12月でございますので、今年は大坂の陣400年と申すそうでございます。あちこちで、関連の催しが開かれておりまして。 不肖・狐狸窟彦兵衛も縁あって、淀殿のお墓のあります太融寺(大阪市北区)で行われました、四百回忌法要に奉納されます講談を執筆させていただいたりなんかしまして、喜んでおります。 |
そんなことで、天気もええもんですから、大坂の陣のきっかけとなりました、「方広寺鐘銘」事件のその鐘銘を拝観してまいりました。 京阪七条駅を降りまして、京都国立博物館の北側。豊国神社の北側にございます。 大仏様のあったお寺の梵鐘でございますので、えらい大きいのでございます。 ここに書いてあった「国家安康 君臣豊楽」という8文字が、徳川家康の名前を二つに切って、豊臣が栄えるようにという「呪詛」の念が籠っていると、いいがかりをつけて、挑発したのでございます。 豊臣方が、そんなつもりはございませんと弁明すると 1.淀殿を人質に出せ 2.秀頼を国替えする 3.大坂城に雇い入れた牢人を解き放て と、条件を出し、大坂方が呑まないと見るや、20万人の大軍勢で大坂城を囲んだのでございますね。 |
不思議なんは、そんな不吉な梵鐘なのに、400年の月日を経て、ちゃーーんと、現代に伝わっていることでございますね。戦争までして、問題や!と騒ぐなら、さっさと鋳つぶしてしまえばよいのではないかと思いますが、それはそのままに置いてある。 ただいま拝観いたしますと、問題の8文字が白くマークして読めるようになっております。 右は、お寺においてあります拓本です。 |
こちらのお寺は太っ腹でございまして、拝観料500円で、ひとつひとつ説明して下さる上に、内部も「ご自由に撮影してください」と、おっしゃいます。 お言葉に甘えて、ご本尊の毘盧遮那仏様を、拝ませていただいた後、パチリ。 元の大仏は、最初、秀吉の発願で建立したものの、地震で倒壊。次に、秀頼が再興をしました。鐘銘事件は、その落成・開眼法要にあたってのこと。もう、ほとんど出来上がっていたのに、関東から横やりを入れられたのでございますね。 そら、怒るわな。 大仏も江戸時代の初めに地震で倒壊するなどして、以後再建されず。この仏さまは、大仏様の10分の1の規模で作られているとのご説明でございました。 |
方広寺の南に、淀殿が秀吉に願って、父・浅井長政の追善のために建立したという養源院があります。養源院は、長政の戒名です。 後に火災で焼失しますが、大坂の陣から6年後の元和7年(1621年)に淀殿の妹で徳川秀忠の妻、お江様の発願によって伏見城の遺構を使って再建されるのでございます。 その後、徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌をお祀りしています。 それと、特筆すべきは、このお寺、関ケ原の戦いの折に、伏見城の留守居役だった鳥居元忠らが、自刃した廊下の板の間を天井にしてその霊を弔っております。切腹した人の血糊が付いたものを天井につかっておりまして、ある角度から見上げますと、実際に、鳥居元忠が、痛めていた片方の足を投げ出し、片方はまげて腹を切り、うつぶせに突っ伏した形で倒れている形が、はっきりと見て取れるのでございます。これを以て供養とするというのも、昔の人の考え方はよぉわかりませんな。 |
俵屋宗達の象、獅子、麒麟の杉戸絵、狩野山楽の襖絵、左甚五郎の鴬張り廊下など、貴重な文化財が満載のお寺です。 |
東山の山すそを歩いていきますと、清水寺の北側に高台寺がございます。 秀吉正室、おね様が落飾して高台院となってこちらにお住まいでございました。 大坂の陣に際しては、再三、淀殿はじめ大坂方に和睦の仲介をなさいますが、ついに豊臣・徳川の融和はならず、元和元年5月8日、秀頼、淀殿は大坂城山里曲輪の糒櫓にて自刃、豊臣家は滅びるのでございます。 秀頼23歳、淀殿49歳であったそうです。 |
御可笑拵処「庚申堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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