平野の地雷火(じらいや) 平野郷散策 平野の大念仏寺さんに、幽霊の片袖と幽霊画を拝観に参りましたが、この平野というところは、大阪の陣の戦場にもなっております。講談「難波戦記」には、「平野の地雷火」というお話があります。 真田幸村が慶長20年5月の夏の陣の折、大坂城落城の前日に徳川家康を平野におびき出して「地雷火(じらいや)」で爆殺しようという計略を立てます。 環濠都市であった平野郷の出入り口にあった地蔵堂に地雷を仕掛け、通りかかった主従をもろともに爆破しようという作戦。地雷を仕掛けたのは、平野郷の東端にある「樋尻口(ひのしりぐち)地蔵堂」でした。 家康一行は、ちょうどこの場所を通りかかったのですが、家康が尿意を催し、その場を離れたところで、大爆発が起こり、危うく難を逃れた、というストーリーになっております。 |
この地蔵堂の西約400mに「全興寺」という薬師如来をお祀りするお寺がありまして、そこに、地雷火で吹き飛ばされたお地蔵さんの首が伝わっており、本堂に安置しているのだそうです。・・・ 講談には、その続きがあって、家康は、通りかかった後藤又兵衛の槍に刺され、落命。 その墓は、堺・南宗寺にあるのだそうです。 その後の家康は「影武者」やったということです。 平野の地雷火は、「家康の最期」という題で上演されることもあります。 |
平野郷から、南東に2キロほどの場所に志紀長吉神社というお社があります。 平安時代からあり式内社の格式を持つお社です。 この志紀長吉神社に、徳川軍との激戦から退却途中の真田幸村が立ち寄り、六文銭の旗印と刀を奉納して戦勝を祈願したといい、、その旗印は今も、社宝として大切に保存されているそうです。 また、神社の鳥居近くには、幸村の休憩之地の碑が建てられて、地元の人たちに大事に守られています。 この後、幸村は天王寺の安居天神あたりで討ち死にを遂げます。 上方講談では、秀頼公を守って薩摩に落ち延び、豊臣家再興の機会を伺うという筋立になって「史実」とは、えらいかけ離れたものになっていきますが、それも大阪の人たちの太閤さんびいきによるものなのでございましょう。 本日は、これにて、読み終わりとさせていただきます。 |
志紀長吉神社 地図 大きな地図で見る Google Map |
浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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