幽霊の片袖見たり・・・(平野・大念仏寺)

8月の第4日曜日に年1回だけ、平野・大念仏寺の幽霊画が公開される、と人に教えていただきまして、それは見逃す訳にはいかんやろう、と思い立ちまして、行ってまいりました。

JR平野駅から南に5分ほど歩いたところに大きなお寺があります。
これが、大念仏寺。大阪府内で一番大きな木造建築やそうです。

「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱えますが、法然上人の創始した「浄土宗」よりも古い「融通念佛宗」の総本山であります。

大念仏寺さて、上方落語に「片袖」という演目があります。

急死した裕福な家の娘さんが、六部(巡礼)に「親に先立つ不孝の罪で成仏できず。どうぞ回向を」と頼み、その証に着物の片袖を預けた、というような話ですが、実は、これが・・・。

現実的な「騙り」のお噺となっております。

残念ながら、この話は聞いたことがありません。

一辺聴いてみたいとは思いますが、あんまり後味のええストーリーでもないようで、あんまりかかりませんね。

落語の原話となった伝承がございまして、なんと、幽霊の片袖が、この大念仏寺に実際に「寺宝」として大切に保存されております。その縁起を伝える巻物もあるのでございますね。幽霊画「累怨霊の図」
なんでも、元和三年(1617)のこと、西国三十三箇所観音霊場を巡礼しようという奥州の人が箱根の山中で女の幽霊に出会い、「私は摂津住吉のこれこれという者で、死んでしまったものの成仏できずに迷っている。平野の大念仏寺で回向してもらいたい」と、着物の片袖と香合を預けたのだそうです。

その巡礼が、女の家を訪れると、なんと三十五日の法要の最中。「大念仏寺で法要を」と、その片袖と香合を見せると「これは、正に・・・」と家族が驚き、幽霊の願い通りに、法要を営むと、無事、成仏していきました。

というお話です。

この片袖と香合も同時に公開してございます。

もちろんのことながら、片袖も、幽霊画も撮影は禁止。

右の図は、本日のパンフレットの一部です。

累怨霊(かさねおんりょう)の図

そのほかには

  • 平知盛亡霊図
  • 姑獲鳥図
  • 菅公怨霊図
  • 皿屋敷お菊亡霊図
  • 囲碁師亡霊図
  • 仙台高尾亡霊図
  • 小幡小平次亡霊図
  • 笑い般若図
  • 柳の下幽霊図
  • 野晒し図
  • 佐倉宗吾怨霊図

全部で12本ありました。概ねお芝居に登場する幽霊、怨霊の皆さんで、結構馴染み深い顔ぶれでした。いつごろ、どなたの筆、とも分からぬ謎の幽霊画だそうです。

平野郷町並み

平野は、平安時代から開けた土地だそうでございまして、征夷大将軍の坂上田村麻呂の次男、広野麻呂が治めた土地で「ひろの」が訛って「ひらの」になったんやそうで。

にわかには信じがたい「訛り」ですが、そうらしいんで。

戦国時差代には自衛自治都市として、周囲に濠を巡らせた環濠都市やったそうです。

江戸時代は、河内の名産の綿の集積地であり、非常に豊かな土地柄。今も古い町家の家並みが残っております。
平野は、また講談「難波戦記」の舞台としても有名です。

大阪夏の陣で真田幸村が地雷火(じらいや)を仕掛け、逃げ惑った徳川家康がついには後藤又兵衛の槍にかかって落命するというお話。

以後の家康は、影武者で、墓は堺の南宗寺にあるといいます。

太閤びいきの大阪人の作ったフィクションですが・・・今日は暑うて、暑うて・・・。戦記物の跡をたどる気力・体力なく・・・本日は撤収! (__:

また、こんどそっちもレポートします。お楽しみに。

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浪花・上本町 御可笑拵処「東雲堂」 狐狸窟彦兵衛 謹製
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