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大阪は、天下の台所、商売人の町ですので、落語にもあんまりお侍は出てきません。 蔵屋敷があって全国の年貢米を換金するお役人が来てはったんでしょうし、大坂城は、幕府の出張所でございますからね。 ここにも、大坂城代をトップとする旗本、御家人の皆様が詰めてはったはずでございます。 が、お侍の登場する落語は少ないようですね。 |
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「宿屋仇」には、旅のお侍が出てきます。「禁酒関所」もお侍が出てきますが、これは、架空の国、架空の関所の話ですね。 火の番の番小屋で禁じられていたお酒を飲んでいたら、見回りの役人にとがめられるのは「二番煎じ」。 夜中に辻斬りに、胴体を二つに切られてしまう「胴切」の下手人は、よく切れる刀を持っていますが、侍かどうかわかりませんね。 「孝行糖」は、親孝行を奉行所から顕彰されて、下されたお金を元手に飴屋の行商を始めたものの、売り声を蔵屋敷の門番に咎められて、えらい目にあう話です。 お奉行様が登場するのは、「次の御用日」「佐々木裁き」があります。落語に登場する奉行所は、「西町奉行所」ということになっているようでございます。 現在の大坂商工会議所の北隣にある見本市会場「マイドームおおさか」の前に西町奉行所跡という石碑が立っています。もともとは、大坂城の北西部に東町奉行所と西町奉行所が、なぜか南北に並んで建っていたのでございますが、享保9年(1724年)の大火のあと、西町奉行所が移転されたのでございますよ。 |
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佐々木裁きの佐々木信濃守は、佐々木顕発(あきのぶ)さんという幕末の実在の町奉行ですが、実際には東町奉行やったそうです。 東町奉行所は、現在の合同庁舎1号館あたり。地下鉄・天満橋の駅を降りて、大阪城に向かう途中、北側に石碑があります。この突き当たりに見える石垣や櫓は江戸時代のものですから、当時の人も、お堀越しに、こういう風景を眺めたのかもしれません。 ちなみに、西町奉行所は、明治維新の時に最初の大阪府庁として活用されたそうです。奉行所というのが、「裁判所」というより、やはり行政拠点だったことを示しているのでしょうかねぇ。 江戸時代、大坂にお侍が何人いたか、というのは、諸説があるようです。200人くらいという人もいますし、家族やら家来やらを入れると1万人内外やないか、と言う人もいます。8410人というずいぶん細かい試算もあるようですが、大坂の町の人口がおおむね40万人やったといいますから、そうやとすると大体2%くらいがお侍さんやったのでございますね。 で、どこに住んでおりましたかというと、大坂城代は、大坂城の中に住んではりまして、そのご家来衆は、大坂城の南側、上町台地のあたり、お城の西側、今の大阪府庁なんかが並んでいるあたりに武家屋敷が並んでおったようです。 この辺のお侍は、大坂勤務を命じられたお殿様について来る、「キャリア官僚」でございまして、それとは別に、もうちょっと下級の武士、大坂に地付きの「同心」「与力」などという階級の人たちは、天満橋を渡って北側に住んでおりました。 |
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天満橋を渡って、ちょっと左側に参りますと、「造幣局」が広大な敷地を構えております。 この辺り、一帯が実は、江戸時代の官僚たちの官舎が立ち並んでいた場所でございまして、現在の滝川小学校には、東照権現様、すなわち徳川家康公を祭った川崎東照宮なるお宮さんが有ったのでございまして、小学校の門前に銘版と碑がございます。 また、造幣局の敷地のうちには、かの天保8年(1837年)、飢饉で困窮した民衆の救済を訴えて決起した天満与力、大塩平八郎さんの開いた塾「洗心洞」がございました。 この前が国道一号になっておりまして、その沿道、造幣局の前には、その大塩平八郎の乱のおり、大砲の砲弾を受けて裂けた受けたという槐(えんじ)の大樹があったそうですが、過年枯死したため、現在は2代目として植樹されたの幼木がはかなげに佇立しております。 さて、国道一号をわたりまして、さらに北へまいりますと、帝国ホテル大阪。現在は。大阪アメニティパーク(OAP)てなことをいいまして、大川沿いのちょっと洒落た地域に変身しておりますが。ついこの間までは、ここに三菱金属の精錬所がありまして、周りも、金属加工の中小企業がひしめいていおりました。現在でも歩いて見ますと、ひょっと、板金屋さんなんかが営業しておられます。 この辺りの西一帯が、与力町、同心町といいまして、奉行所に勤務しておりましたお侍さんが、多数住んでおりました。 |
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また、寺町の延長上にもあたりまして、お寺がずっと並んでおります。 歩いてまいりますと、適塾の緒方洪庵センセのお墓のある「龍海寺」。大阪を代表する町人学者、山片蟠桃さんの「善導寺」。天神橋筋商店街を横切ってさらにまいりますと、大塩中斎、すなわち、大塩平八郎さんその人の墓所のある「成正寺」もみつけることができます。 |
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小西来山という人は「お奉行の名さえ覚えずとしくれぬ」という俳句を詠んで、無礼であるというので、おしかりを受けたんやそうですが、中国の故事に鼓腹撃壌というのがありますね。 満腹して腹をなでながら、「日が出て働き、日が暮れたら眠る、渇けばば井戸を掘って喉をうるおし、腹が減ったら田畑を耕して食べるだけ、帝の力がどうして民に及んでいるのだ」、と老人が歌うのを聞いて、帝尭が、「これぞ、天下泰平」と喜んだという話。 元禄時代の来山も、実は、太平の世の「お奉行様」の徳政を称えたつもりだったのかもしれません。 ま、お役人衆がユーモアを解さないのは、古今に通じた真実でもあります。 尭・舜の聖哲の政治は、ま、夢のまた夢というところでありましょうか。 本日は、この辺で |
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日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食 帝力何有於我哉 |