NO.35より(2022年12月25日発行)
コロナと私 W.Yさん
朝元気だった人がその日の夕には亡くなる。兄と上司の突然の死。そしてパンデミック。コロナと共に私は経営者になった。
悲しむということを忘れていた私の耳に司式者の招詞が聞こえてきた。「私が主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。」
(イザヤ45)涙が溢れ初めて泣けた。今日まで、このみ言葉がずっと私を支えてくれた。
しばらくして礼拝は中止になり、日曜の朝ぽっかり時間が空いてしまった。以前は何をしていたのだろう。教会礼拝によって
守られ育まれていた恵みに改めて感謝した。
この3年、自分の力では如何ともし難いコロナと経営は高慢な私に寄り頼む者は誰かを教えてくれた。そして主の御手を
住まいとしていることも。
現在のコロナ禍にあっての信仰生活 T.Yさん
コロナ流行の初期、娘がコロナに感染しホテルでの隔離療養になった。濃厚接触者として、わたしは2週間の自宅隔離を
強いられた。その間、2回の礼拝と祈祷会を休んだ。主日礼拝と祈祷会の日には一人で聖書を読み、祈りを捧げた。
が、いつものように喜ぶことができず淋しかった。隔離明けの日、牧師ご夫妻が礼拝説教と祈祷会のプリントもって見舞いに
来てくださり、本当に感謝だった。教会で礼拝ができる恵みをつくづく思った。
NO.32より(2020年3月29日発行)
島の信者さんとの交わり S.Hさん
「島々よ、わたしのもとに来て静まれ」(イザヤ書41:1)。
「島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ」(イザヤ書49:1)。
長年島で生活していると、「島」という文字を聖書で見つけるだけでうれしいです。この教会に導かれて、
1〜2年目だった、と思います。友が、『百万人の福音』に「中島」のことが載っている、と教えてくれました。
4人の婦人方と1人の男性と、そして遠く広島の尾道市にある生口島の瀬戸田から、瀬戸田教会の礼拝を午前中に終えて、
5時間かけて中島の集会所へ、毎週夜足を運ぶ牧師先生のことが、瀬戸内の海とともに前ページに大きく書いてありました。
わたしよりも一世代か二世代、上の方なので、島で信仰を持つご苦労と、また今の喜びとが書かれてありました。
それから5〜6年経った後、家族のことで大きな試練があり、当時、松山までの毎週の礼拝は厳しく、出席できなかった
夜は、その集会所に寄せてらいました。
70歳代半ばと80歳くらいのご婦人がいつも早く来られ、先生を待っておられました。その頃は、1ヶ月に2回くらい
牧師先生が来られていましたが、夜の礼拝でもきちんと紅を引き、身なりを整えて、司会の男性もきちんと上着を着て、
少ない人数でしたけど、アカペラで賛美し、静かに説教に聞き入る神聖な礼拝でした。
40歳くらいだったわたしには、その年配の婦人方が、「夜眠れないと、一の組の方から順番にお祈りするんよ」とか、
いろいろ学ぶことの多い交わりでした。
ある2月の初め、「バプテストデー」ということで、牧師先生が、そこの「日本バプテスト同盟」と、わたしたちの
松山教会の「日本バプテスト連盟」との違いを話してくださいました。
多少、浮気をしているような後ろめたさと、島の礼拝に求道者の方が来られると、邪魔になっていないか、と心配も
しましたけど、かつて「福音丸」が1988年から1940年にかけて、神戸からビッケル船長がいろいろな島へ伝道され、
そのなかにわたしの住む「中島」があり、何人かクリスチャンがいることはとてもうれしく、特に、車で走る途中や
スーパーで買い物をする途中、クリスチャンのお仲間を見かけるだけでうれしいものでした。
『世の光』でも、「福音丸伝道」で、長崎の五島列島の教会のことが書かれていました。ある牧師先生が、
「日本バプテスト連盟」は主要都市へ伝道していったけど、「日本バプテスト同盟」はどちらかというと、人の少ない
田舎へ向いて伝道していった、と言われていました。
瀬戸田教会には、博愛幼稚園が併設されていて、その100周年の記念誌も読ませてもらいました。島にミッション系の
幼稚園がそんな昔からあったことに驚きました。おじいちゃんが病気になると、孫が小さな手を合わせて、「ぼくが
お祈りしてあげる」というような、心温まる文章もありました。
島の信者のなかでも、あるとき、わたしも嫁ぎ先であんまりだ、と思うことがあって、聞いてもらった婦人とは、
特によく交わりを持ちました(「島で人に話すと大事になるから、いつもこの二人で話すんよ」と言われていたので)。
わたしの悩みに、「わかる−」と、大きな農家へ嫁いで厳しいご主人に仕え、次男さんの病とか、たくさんの苦労話を、
にこやかに穏やかなお顔で話してくれました。バイクに乗ったら音で消されるので、「人生の海のあらしに」をよく
歌った、といっていました。数年前、長男さんを突然、畑で亡くされ、「どんなにかだろう」と思って尋ねたら、
「信仰持ってて良かった−。これ見て!」といわれ、12月24日生まれで、「瀬戸田から誕生カードもらってて、
『後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・』(フィリピ3:13)が書いてあったんよ−」と、「とうちゃんの
方が辛そうなわい」と。
今は90歳になられ、お家で転げて足が立たなくなり、ご主人の食事が作れなくなって、ご夫妻で施設に入られています。
最近、人伝いに職員の方(息子の先輩で今治教会の方)が、「ぼくもクリスチャンなんです」というのを聞いて
うれしくなって、隠れるようにして聖書を読んでいたのが、ここにもクリスチャンがいる、と思って堂々と人にも
話せたり、読めるようになった、と聞きました。
その職員のお母さんに電話で知らせると、「私も高校の頃、親に教会に行ったらいかん、といわれていたときがあって、
隠れるようにして通ってた頃があったので、とてもうれしい」と喜ばれました。
婦人には、しばらく会いに行けない時期でしたので、お手紙でそのことを喜んだら、早速返事がきて、「その職員さん
には、よくしてもらってるんよ! あなたのお父さんがここに入っていて、息子さんもいて、時に会えることが不思議で
うれしい。いつも、いいときばかりではなく、『イエスさま、イエスさま」と平穏を祈ることもあります」と書いて
ありました。
今は、瀬戸田から元気印の女の牧師先生が来られています。泊まれるときは、あくる日、施設を訪ねられ、ご主人に
分からないようにロビーでお祈りしてくださるそうです。
わたしも今は、健康も支えられて、松山まで礼拝に行けていますけど、同じように年をとってゆきます。
『バプテスト誌』3月号の最後のところにあった、久留米荒木キリスト教会の「新春、大ボラ吹き大会」を読んで、
思い出したことがあります。もう何年も前ではっきりとは覚えていないんですが、島に応援で来られた牧師先生が、
海外伝道のスケールの大きな話を聞かせてくださり、「あ−、この島にも、各地区に教会が建ち、老いも若きも子どもらも、
日曜はぞろぞろと歩いて、礼拝が守れるようになったらいいな−」と思ったことでした。
この小さな離島にも、どの地区にもそれぞれお宮があります。近年、都会で疲弊した若者がポツポツと移住してくれます。
島で始めに聖書を読もうといわれた婦人の息子さんは、スーパーの仕事を退いて、いろいろと移住者の方のお世話を
されています。「Sさん、奇跡や、奇跡や、楽しい、楽しい!」とせっせ、せっせ、とお世話しています。
『百万人の福音』のなかに、ある高齢の婦人は、子どもの頃から足が悪くて、農家へ嫁いでも人並みなことはできず、
「わが恵みなんじに足れり」という御言葉もなかなか受け入れられなかった。今は、何のお金にもならんことをするのが、
楽しい、と書かれていたのを思い出します。
今、島にある赤い屋根の集会所が建つまでは、雨漏りのするような古い部屋で、ひたすら静かに、今治の教会に来られて
いた榎本保郎先生のテープを皆で聞いていたときもあるそうです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。
小さな群れにも確かに主の大きな力が働いているのを感じ、わたしが知っているだけでも、この島に点々と散らばって
クリスチャンがいることを思うと、主が覚えてくださっていることに感謝です。
島にいる長男が、島のなかでも小さな二神島のある老婦人のところへ仕事で行ったら、昭和の初め頃の古い聖書を、
かなり読み込んでおられたと−。うちの教会のK姉の裏の家というので、「K姉にとっても、うれしかったろうね、
その方の存在は−」というと、息子は、「たぶん誰にも話してなかったと思うよ」といいます。初めは、教会を離れて
久しい息子に、そうした出会いはうれしい、と思いましたが、考えてみると、長年ひっそりと聖書を深く読み、そのことを
ご家族くらいしか知らない、そうした方が年老いて、介護の仕事できた若い青年の目にその聖書が留まり、信仰の話が
できたことは、神さまの大きな慰めだったのではないか、と思いました。
田舎の片隅にもいろんな生活のなか、主と出会え、覚えてもらいながら、信仰を続けておられる年配の方を見ると、
励まされ、感謝です。
羽仁もと子さんの「婦人之友」の「友の会」も、昔、島にあり、施設に入られた婦人は、「朝、聖書を読み、
昼は疲れるまで働き、夜は祈りて休む」、その言葉をずっと思い、実践された方でした。
こうした出会い、交わりは、わたしにとっても励ましになり、自分もこのまま年いくまで、礼拝を守り、聖書に親しみ、
何かしら島でも神さまのお役に立てたら、と願うものです。
NO.31より(2019年12月1日発行)
キリストの体なる教会こそすべて S.Tさん
子育てを終えて、以前勤めていた職場に復帰してから、早いもので14年目を迎えています。知的障がいのある人たちの
入所施設・グループホームを経て、現在勤務する「就労継続支援B型事業所」へと部署異動して6年目となりました。
この度、「なないろ」の原稿をお受けするにあたり、この職場で導かれてきた多くの時間を振り返ることができ、
このような時を与えてくださった神様に心から感謝いたします。
わたしがこの職業に就くようになったきっかけは、保育専門学校時代の楽しかった施設実習でした。
知的障がい児入所施設での子どもたちとの関わりは、戸惑いや驚きもありましたが、とても楽しく充実したものでした。
それ以来、障害のある子どもたちと関わる職業に就きたいと思うようになり、地元の保育所への就職を待ち望んでいた
両親の反対を押し切って、実習でお世話になった当学園で務めることになったのです。ここで7年間勤務し、出産を機に
退職して子育てに専念していましたが、再び声を掛けていただき、今に至っています。
長いブランクの後戻った職場は、施設から地域社会へという国の方針により、法律や福祉制度が目まぐるしく変化する
なかで、以前の現場の雰囲気とは大きな違いを感じないではいられませんでした。しかし、そんななかでも変わらないのは、
懐かしい利用者さんたちの顔ぶれでした。17年が経過して子どもたちは大人になり、大人だった人たちは、わたしと
同じように年齢を重ねていましたが、わたしの心配をよそに、利用者さんたちとの楽しい時間が再開しました。
ある雨の日のこと、日誌などの書類を抱えて、利用者さんたちがいるフリールームに入って行くと、わたしの後ろから
Aさんが摺り足で追いかけてきました。知的と併せて身体にも障がいのあるAさんは、わたしが椅子に座るのをチラチラ
見ながら、入口ドア付近の壁をガサガサ探り始めました。「あー!あー!」といいながら、暫く続けていたかと思うと、
パチッ!というスイッチ音と同時に、パッと部屋が明るくなりました。Aさんは、とびきり大きな声を出して「あぁー!」
と満足そうな笑顔。そのままわたしの横に来て座り、「ほらっ、点いたよ。よく見えるね。(^^♪」と心の声が聞こえて
くるようでした。すべてのことに一生懸命取り組む姿勢や周囲への思いやりも持ち合わせた、とても真摯なAさんです。
また、日中作業をしているときのBさんは、集中して作業に従事していたかと思うと、ラジオからお気に入りの歌が
流れてくると、突然歌ってみたり踊ってみたり・・・。10まで数えるはずだった作業は、その度毎に中断されます。しかし、
そんなBさんも、その従順な特性からか、作業の上達は目を見張るものがあります。「すごいね!上手にできるように
なったね!腕をあげたね!」と褒めたところ、Bさんは、両腕をできるだけ高く上げてバンザイし、照れながら嬉しい
気持ちを表現しました。まさにBさんは、腕を上げたのでした。いつも和やかな雰囲気にさせてくれるBさんです。
このようにして、利用者さんたちと一緒に様々な場面を経験させていただいているなかで、以前から疑問に思って
いることがありました。それは、「知的障がいのある人たちに神様の救いはあるのだろうか?」ということです。
多くの時間を共有するなかで、果たして、神様を喜ぶことも共有できるのだろうか? 福音を理解することができるの
だろうか? 口で告白することは・・・?
職場の同僚や利用者さんたちのために祈るとき、救いに導かれていく道筋を思うと、重度の知的障がいのある人たち
には、やはり困難ではないか、と思えるのでした。心にモヤモヤを抱えながら解決に至ることはないまま、とにかく、
イエス様が弟子たちの足を洗われたように、遣わされたところでその人たちに寄り添っていこう、と思いました。
そうして数年が過ぎ、神様は一冊の本を通して答えをくださったのです。
「『知的障碍者と教会』フェイス・バウアーズ(著) 片山寛・加藤英治(訳)」。
片山寛先生は、2017年度の特別伝道集会の講師としてわたしたちの教会にきてくださったこともあり、興味深く拝見する
ことができ、わたしの疑問は解決へと導かれました。
「多くの知的障碍者は、神への礼拝を共有することができます。かれらがどれほど理解しているかは難しい問題ですが、
特別大きな問題ではありません。礼拝は、頭だけの問題ではないのです。それは、心や魂にもかかわります。知性が弱い
ところでは、感情、感覚、直感がすべて活発になります。すべてが、神を礼拝することにかかわってくるのです」(P85)。
「人間に対する神の愛は、福音の『心臓』です。それを伝えるために教会は存在しています。ここでの強調点は、
『示す』ことにあります。私たちのほとんどは、おもに言葉を通して伝達します。しかし、福音のメッセージを『語る』
ことは、言葉を持たない人や、言葉の使用や理解に制限がある人にとっては不適切です。彼らは教会を『キリストの体』
として経験する必要があります」(P137)。
「障碍を持つ人には、御言葉の奉仕はあまりインパクトがありませんし、キリストを求めて聖書を調べる能力は極めて
限定されています。かれらに接すると、私たちは、残されたのは教会それ自体しかないのだとわかります。もし私たちの
障碍を持つ友がイエスに出会うべきだとするなら、それはここにあります。これこそかれらが集められた共同体に見出す
べきものなのです。・・・それは、かれらに、イエス・キリストの本質について語っているのです。・・・もし教会での彼らの
体験が愛であるなら、それはイエスの愛の具体化なのです。・・・私たちは『キリストの体』なのです」(P213〜214)。
日本バプテスト連盟の教会においても、1992年に「『口で告白できない人たち』の信仰告白・バプテスマに関する答申」
が出されました。そこでは、「教会の交わりもまた、その人たちと共にあることによって、向こう側から打ち破って
迫り来る神の国の現実に触れ豊かにされている。そこでは、告白の可能性が失われているという私たちの思い込みをこえて、
存在全体から発せられる告白が人を突き動かしている」(P249〜250)と宣言されています。
以上のように、確かな答えをいただくことができました。礼拝の喜びを共有することのできる皆さんであることを
確信して、心新たに一人一人に寄り添って行きたいと思います。
「神は霊である。だから、神を礼拝するものは、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24)。
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:23)。
NO.30より(2019年7月28日発行)
我が恵み、汝に足れり I.Sさん
恵みの雨と、そのあい間のお日様の光のなかで、果樹の実がぐんぐん成長していく梅雨の季節のなか、去年のあの日を
迎えようとしています。去年の7月6日は、わたしの肺の病気の検診日でした。昼の高速船で、母と一緒に松山に出ていきました。
わたしは病院を受診し、古町から電車に乗って帰ろう、と古町の駅へ行くと、衣山の駅が雨で浸水しているのでバスで次の駅まで送ります、
という案内があり、バスに乗りましたが、渋滞のため船に間に合わず、長男の家に泊まることになりました。
息子は、天気予報の雨雲の移動状態を見て、「怒和島は危険だ、ヤバイいんじゃないか!?」と、とても心配していました。わたしは
不安になり、主人と電話で話しました。主人は消防団長をしていましたから、詰所で消防団の役員5人と待機していました。午後9時ごろ、
主人から電話があり、「役員は、一旦解散した。自分は、島の周囲を見て回ったが、大丈夫、心配ないから、そちらは心配せずに
休んだらいいよ。自分も風呂へ入って休むから」との言葉に、わたしたちはすっかり安心してしまい、息子たちと夜遅くまで話を
していました。主人が、とても大変ななか、悪戦苦闘していることも知らずに・・・。
主人は、家に帰って風呂に入り、出たところに、「水路からの水があふれ出て、家に流れ込んできているから、助けてくれ!!」との電話が
あったそうです。役員5人がかけつけると、山からの水がどんどんTさん宅へ流れ込んでいました。土砂降りのなか、水路の上流へ
上がると、山小屋が崩れて,小屋のなかにあったキャリーが、水路の水をせき止め、水の流れを変えてしまい、民家へ流れ込んできた
ようです。役員たちは、土のう袋を必死でこしらえようとしたけれども手に負えず、消防団員全員集合のサイレンを鳴らそとしたそのとき、
Iさん宅の裏山の土砂崩れの悲惨な状態に遭遇したのです。
あとから、主人の語るところによれば、主人が入浴していた30分間の雨量がとてつもない多さだったのだろう、ということでした。
翌朝4時頃、主人から電話がありました。「心配させたらいけないから、電話を今までひかえていたが、実はこういう状態だ」と。息子は、
「だからヤバイいんじゃないか」といったのに、と叫びました。
朝、高速船から見ると、目の悪いわたしには、島の護岸が決壊しているのかと見えましたが、実は土砂が護岸を超えて、海へと
流れ込んでいました。山にあったタンクやエンジンも砂浜まで、流れて落ちていました。土砂の上を歩くと、ドボドボと足がはまり込むので、
護岸の上を歩かなければなりませんでした。道路の土砂がのけられ、わたしたちの気になる畑へ行かれるようになるまで、かなりの
日にちがかかりました。
山へ上がり、実際に畑の様子を見たときには、?然としました。高さ50メートルくらい上から、杉の大木、防風網の支柱、防風網、
モノラックのレール、スプリングクーラーの設備、配管、バルブ、そして伊予柑の木々が土砂と大きな石に揉まれ、ぐちゃぐちゃにうずもれて
いました。また、違う場所では、水をためるタンクの上にも同じように、隣の山からの土砂がさまざまなものを巻き込み、覆い被さって
いました。人の手ではどうすることもできない状態でしたが、夏の暑いさなか、ボランティアの方々が入ってくださり、暑さで、バテて
しまいそうななか、一生懸命、土砂のなかからモノラックのレールを掘り起こしてくださったり、土のう袋を作り、運んでくださったり、
本当に感謝でした。なかばやる気の失せていたわたしたちに、少しずつでも頑張ってやっていくと、少しずつでも復旧していくんだ、
という励ましをいただいたようで、うれしく思いました。
モノラックのレールは、今年の春になって、ようやく復旧することができました。崩れた畑から、埋もれた木々や砕けたスプリングクーラーの
配管などを取り除き、石を掘り起こしては築いて、土がなくなったところにたくさんの堆肥を投入して、畑を回復しよう、と主人は一生懸命です。
春になるまではずっと、崩れた場所へ行くたびに、ため息が出ていましたが、果樹園の一部が壊れただけで心が落ち込み、いつまでも
引きずっている自らの弱さを覚えました。「我が恵み、汝に足れり」と声をかけてくださる方の恵みを数えて、感謝することを第一に
しなければならない、と考えられる日々になりました。
島の方々も、それぞれに痛んでおられます。去年の春に、農業を継ぐ決心をして、会社を辞めて島へ帰ってきた矢先に、果樹園に土砂が
流れ込み、果樹を何とか生かそうと土砂を取り除く作業を必死でして、急激に8キロも?せられた方。5月にハウスが完成しほっとした
矢先に、果樹もハウスも全て土砂に押し流されて、失ってしまった方。復旧が難しい玉葱畑に、向日葵の種をまかれた方。お日様に向って
咲く花ゆえに、ほっとします。
愛する3人の家族を突然に失ったおじいちゃんは、「生きたくても生きられなかった小さないのちを思うと、自分は、生かされている
のだから、精一杯生きなければならない」と、おっしゃいました。主にあって新しい命をいただいているわたしは、「主にあって精一杯、
思いをつくし、心をつくし、力をつくして生きることができますように、主よ、助け、導いてください」と祈ります。
自然災害で大切な家族、家、仕事、たくさんなものを失い、心痛んでおられるおひとり、おひとりに、主の豊かな顧みが、ありますように。
NO.29より(2019年3月31日発行)
わたしにつながっていなさい K.Kさん
山内田鶴子姉が天に召されて、40日ぐらい経ちました。あっという間のことでしたので、その間、自分にとっても、
死を深く考えさせられるときとなりました。
山内姉は、最後まで教会から離れることなく、病気にかかられても、体調が良いときには礼拝を捧げておられました。
わたしが受付をしていたとき、「81歳まで生きられたのだからね・・・見送ってね」と言われ、「よ−言うわ−」
と言って、笑ったのを思い出します。甥子さんに全てを託し、ご自分の家で最期を迎えられ、教会の人たちに
讃美歌で送られ、納骨式にも多くの人たちが参列しました。ほんとうに山内姉の人生は、幸せだったのではないか、
と思いました。ご主人が先に逝かれ、お墓もちゃんと整えて、そのなかにご自分も入られ、最期は甥子さんに託して
「風のように」去って逝かれた気がします。いろいろなことが思い出され、寂しいです。
わたしも一人ですし、子どももいませんので、これから自分も如何にするべきかと考えねばならない、と思って
いました。今までは姪に、と思っていましたが、甥と話す機会があり、「わたしが死んだら、頼むね」と言ったら、
「わかった!」と言ってもらえたので安心しています。「もしわたしが死んだら、すぐ教会に電話するんよ。
牧師先生がちゃんとしてくれるから、その通りにしてね」というと、「わかりました!」と言ってくれました。
『葬式の備え』をまだ書いてないので、教会用と自分用を書かなければ、と準備を始めました。50歳や60歳のころは、
死がそんなに近くに思わなかったのですが、70歳を過ぎると、そろそろ自分の番かもわからない、と思い出しました。
9月23日に開催された「特別伝道集会」のメッセージのなかで「ぶどう酒がなくなりました」と母マリアがイエスに
言ったところで、それはわたしたちの人生に似ている、と言われていました。講師の小島誠志先生は、自分の
持っている気力や体力、その他の諸々が失われていくことをまず語られました。いろいろな問題を抱えた自分、
重荷を背負っている自分、そのわたしが神さまに祈りながら生きる。悩みながら、苦しみながら・・・その水がそっくり
ぶどう酒に変えられることを願いながら生きていく。キリストにある人生を、最後に一番良いぶどう酒に変えて
いただく。
これが、わたしたちに与えられている約束である、と言われました。それを聞いて、アーメンでした。不平不満の
多い自分ですが、自分にできることは喜んでしたいと思うし、礼拝や祈祷会のなかで軌道修正していただき、
感謝しています。
今、祈祷会で『箴言』を学んでいます。「しばらく眠り、しばらくまどろみ/手をこまねいて、またしばらく
横になる」(箴言24:23)。それは、怠け者の姿を言っているのですが、自分のことのように思いました。
『世の光』誌のなかで「つながって生きるということ」と、岡山教会の草刈祐子さんが書かれていました。
びっくりしました。『いのちの電話』に携わっている人ですが、弟さんが54歳で自死されました。30歳を
過ぎたころ、両親のもとに妻と子ども、それから大きな借金を残して失踪しました。ご両親は、残った家族を
守りました。その後、弟さんは新しい家庭を築き、20年間妻と三人の子どもと幸せに暮らしていたにもかかわらず、
再び経済破綻と離婚により、家庭は崩壊し、三か月後に一人で死んでしまった、と書かれていました。自死する人が
年間三万人を割ったと言われますが、それでもどうしても自分自身を死に追い込んでしまい、誰とも付き合いもなく 気持ちを伝えることもできなかったのか、と思います。
草刈さんもそんな悩みのなかにあっても、『いのちの電話』の働きに携わっておられることに驚きました。
そんななかにあるからこそ、強く生かされているのかな、と思いました。「つながって生きるということ」を
読ませていただき、驚きとともに、同じクリスチャンとして、この人のように人の役に立つことができるのかな、
と思いました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15:4)。
わたしも主イエスにつながっていることを覚えさせられました。 (2018年10月女性会例会での『証し』より)
NO.27より(2018年3月25日発行)
支え合いながら教会生活を T.Yさん
(日本バプテスト女性連合『世の光』」2月号から転載)
わたしたちの教会は、1952年6月4日、呉教会を母教会として、エリザベス・テーラー・ワトキンス宣教師によって
開拓伝道が始まりました。その後、天野五郎牧師、中村三郎牧師、吉津孝牧師、加来始牧師、宮地慶信牧師、そして
現在の川上敏夫牧師と6人の牧師が与えられ、宣教65年を迎えました。
今年の6月4日、宣教記念日にあたる主の日には、教会員による作詞、作曲のオリジナルソング
「宣教65周年記念ソング」をみんなで歌い祝いました。会堂は宣教開始2年後の1954年に建ち63年が過ぎました。
今、会堂建築資金を積み立てていますが、歴代の牧師がメンテナンスを心がけ、大事に使ったのと、わたしたちも
年に1度大掃除をし、ワックスがけをしているので、床はいつもピカピカです。また、車いすでも入れる広いトイレを
新設しました。
女性連合へは1973年に24名で加入していますが、今は15~16名で活動しています。おもな活動は女性会例会への参加と
担当、「世界バプテスト祈祷週間」への献金、毎週の清掃、庭の草抜き、会堂の生け花、諸行事の準備手伝いです。
毎月第1土曜の午前中を奉仕の日として、女性会員全員で清掃、草抜きなどの奉仕をしています。ワックスがけも
この日にします。奉仕の後は茶菓当番が用意したお茶とお菓子で楽しい語らいをします。このとき、日ごろ
気になっている事柄、課題なども話し合ったりします。
女性会例会は毎月第3主の日の午後行われますが、2〜3名で月当番を担当し、何をするかは当番の人が決めます。
1年を振り返っての証しをする人が多く、今抱えている課題に対する神様とのかかわりや、神様から受けた祝福とか、
神様にどのような祈りをしているか、などが話されます。また、「世の光」を読んで心に響いた文章とか、
例会プログラムのテーマについての感想を話される人もいます。
その後、分かち合いの話し合いをするときもあります。例会で証しされた人の信仰や悩みを聞くことによって、自分の
信仰を反省したり、励まされたりもします。また、その人をより深く理解でき、日常生活のなかで寄り添うことが
できている、と思います。
わたしたちの教会には、施設に入っている101歳の婦人を先頭に、70歳以上の高齢者が半数近くなり、年を重ねることに
不安を覚える人が増えてきました。また、家庭内でも、少し介護が必要な人も出てきました。そこで、女性会の発案で、
教会全体の行事として「介護についての学び」を昨年、今年としております。『愛媛県在宅介護研修センター』による、
無料の「出前講座」を利用して、5回の講座を受けました。人が人として最後まで尊厳をもって生きるためにどのような
介護が必要か、プライドを傷つけないさりげない介護など、介護の基本の基本を学びましたが、みんなは真剣に
自分のこととして受け止めました。今後は施設の見学なども予定しております。年を重ねても支え合いながら、
できるだけ長く、楽しく教会生活をしたいというのが、わたしたちの望みです。
NO.26より(2017年12月22日発行)
信仰告白 I.Tさん
わたしは、今95才です。
としをとっていますが、日曜に教会にきて、お祈りをしたいです。わたしは、神さまのまえに罪人です。
でも、イエス・キリストさまが、十字架にかかってゆるしてくださいましたことを信じます。
わたしはイエスさまを信じて、ずっと日曜日に教会に来てお祈りをすることをつづけていたらいいと思っていましたが、
それだけでなく、はっきり決めないといけないと考えました。わたしは、残りの人生をバプテスマをうけて
クリスチャンになりたいです。礼拝をします。そうして、死んで終りでなく、天国でイエスさまといっしょにいることを
たのしみに祈ります。
2017年11月26日(日)
NO.25より(2017年10月22日発行)
『春穂』を招いて下さる神さま O.Hさん
今年の5月1日、待望の長女『春穂』が生まれました。神様に守られ、どんどん成長している姿に毎日、感動させられて
います。笑顔を見せてくれたり、寝返りをうったり、おもちゃを握ったり、そんな何気ない仕草が愛おしく幸せな
気持ちで一杯になります。こんな宝物をわたしたち家族に加えてくださった神様に、本当に感謝しています。
また、教会員の皆さんがいつも見守ってくださっていることも、嬉しく思っています。
今、毎日子育てを楽しませてもらっていますが、同時に悩んだり、不安に思ったりすることもたくさんあります。
どうしたら生活リズムが整うのか、どんな環境で過ごすのが良いのか、働きながら育てていけるのか、心配し始める
ときりがありません。しかし、あれこれと思い煩っていないで、神様に信頼し、心から喜んで暮していけたら良い、
と思っています。わたしたちにとって、そして『春穂』にとって本当に大切な、わずかなものだけを見落とさないように
して、子育てしていきたいです。
自分の幼いころを思い起こすと、聖書のお話をたくさんしてもらい、神様のことを身近に、慕わしく感じていました。
幼いながらに好きな箇所もありました。それは、『マルコによる福音書』10章13節から16節の部分です。
一部を引用すると、「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」とあります。子ども心に、このイエスさまの行動は
とても嬉しく感じられたことを覚えています。弟子たちが叱ったということは、この連れてこられた子どもたちは
うるさかったのか、お行儀が悪かったのか、いずれにしても邪魔な存在だったのでしょう。
でもその子どもたちをイエス様が「来させなさい」と受け入れてくださったことは、自分を受け入れてくださった
ことのように嬉しかったのです。良い子でなくても、邪険に扱われても、神様の所へ行くことは許されており、
わたしたちを喜んで迎えてくださることがこの箇所からよくわかりました。このことを、ぜひ『春穂』にも覚えて
いてもらいたい、と思います。そしてわたし自身も、娘のなかにも罪があること、それでも神様はこの子を愛して
待っていてくださることを忘れずに、育てていきたいと思います。キリストの花嫁である教会にも、同じように
迎え育てていただけることを感謝しています。どうか、『春穂』のために、そして未熟な父母であるわたしたちの
ためにお祈りください。
神様への感謝の日々のなかで N.Tさん
今回、「なないろ」の原稿を書くことになり、自分の生活を振り返る機会をいただいたことに感謝したします。
5年ほど前、夫の仕事の関係で、突然、家族でインドネシアに住むことになりました。そのころ、わたしたちの
逗子での生活は落ち着いて見えましたが、教会生活は安定せず、祈る場を求めて、教会を点々としていました。
周囲は、わたしたちのインドネシア行きを心配してくれました。初めてのイスラム教、異文化の国、幼い子連れの
海外行きに不安はありましたが、わたし自身はなぜか前向きでした。「神のなさることは、すべて時にかなって
美しい」(伝道の書3章11節)。
インドネシアでの生活は3年8ヶ月になりました。向こうへ行って分かったのですが、人口75%の人がイスラム教では
ありますが、インドネシアは宗教の自由を認めていて、イスラム国家ではありません。そのため、クリスチャンも
日本より多く、教会以外でクリスチャンと出会うこともたくさんありました。息子のクラスでも3、4人いましたし、
アパートにもたくさんいました。
自然にジャカルタにひとつしかない日本語の教会に行くようになりました。わたしにとって一番大きい出来事は2人の
息子が信仰告白をし、クリスチャンになったことです。長男は慣れない学校生活で悩み、子どもたちもたくさん集まる
家庭集会に何度か通っているなかで、そのころ教会員の皆さんが祈ってくださり、神さまを信じることができました。
そのころから、長男のインドネシアの生活が安定したように思います。次男は1年後様々な疑問を持ち、とことん
牧師先生と話し合った後、自然と導かれました。インドネシアに行く前には、わたしのなかで全く考えなかったこと
ですが、神様のご計画に驚き、感謝しています。約3年半の時が過ぎ、神奈川県に戻ってきました。
いろいろ悩みましたが、先にインドネシアから帰国していた友人に声をかけてもらい少し遠いのですが、
準備しています。
松山教会の皆様には、事あるごとにお祈りをしていただいて、本当にありがとうございます。今はインドネシアへの
導きと、あちらでの兄弟姉妹たちとの出会い、そして、その「時」を与えてくださった神様に、心より感謝しています。
ひつじ A. Mさん
振り返ってわたしの人生はいったい誰の人生だろう・・・と他人事のように思うこの頃、少年時代の自分がふと頭に
よみがえってきた。
わたしの教会デビューは、母が通わせてくれた美術教室をさぼって草薙家の車に乗り込み、姉と一緒にこっそりと・・・6歳の
時。見つかって怒られたのかどうなのか、クリスチャンホームとなった今では記憶に無い。
「この世は光の無い長いトンネルの中を手探りで進んでいる様なものだ。だから、人間道を踏み違えるのだ」云々。
中学1年頃にどこかのお寺の張り紙が目に留まり、「ぼくはクリスチャンでよかったぁ−。長くても光があるトンネル
だもんなぁ」と子ども心に満たされたことがあった。
クリスチャンホームになってから、父子家庭になった。光が見えなくなり、ただひたすら娘たちを育てることと生活して
いくことだけを考えて、見えないトンネルを迷い歩いた。それがある日、自分の思いではなく、「主に委ねる」という
御言葉の本質が突然、理解させられたのである。イエス様の愛ゆえに支えてくれた両親と姉妹の祈りによって。憐れみと
赦しを受けながら祝福され、今日まで生かされているという事実。
「生かされている」という根拠は、クリスチャンになったからなのか。まず自己中心かもしれない祈りは叶えられていない。
微力だが努力をしていない・・・訳ではない。でも時が満たされたというタイミングで、これならばどうだと言わんばかりの
御業が思惑以上に行われてしまう。自分の選択よりむしろ、結果的に良かったのでは?と思わされてしまう。これではもう
イエス様に感謝の祈りと讃美を捧げるしか無いのである。すべての業が神の御心ならば、すべて神の国に入るために必要な
糧として感謝して食することが「委ねること」に最終的には辿り着くのである。
ひつじは下しか見えない状態で、満腹になるまで脇目を振らず草を食べ、愚かにも己自身では敵が来ても気付かず、
また気付いても手遅れになってしまう。でもひつじ飼いがいれば外敵から守られ、群れから離れても探し出してくれる。
この関係は、まさしくぴったり「主とわたし」に当てはまっていたのである。
この松山バプテスト教会と、主イエス・キリストとの出会いから40年になろうとしている。その頃に子どもの礼拝で一緒に
学んでいた、来られなくなった友のことを思い出すたびに、「主よ、どうか探し出してください」と、今度はすべての
求道者のために祈り続けねばならない。光があるうちに・・・。
NO.23より(2017年3月29日発行)
転入会の信仰告白 O.Hさん
私は1990年6月13日に、クリスチャンの父と母の間に生まれました。その時付けられた「初穂」という名前は,
コリント一15章20節の「しかし今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
という言葉から取られました。生まれてから3歳までは福島県いわき市で過ごし、その後、徳島県阿南市に
移りました。それからは、日本イエス・キリスト教団に属する羽ノ浦キリスト教会に通いました。今まで
会員籍があったのもそちらの教会です。
父や母に連れられて、わたしは毎週教会へ通いました。妹や友人も一緒だったので、教会学校へも楽しく通い
ました。小さいながらもにぎやかな教会だったので本当に喜んで通っていたように思います。
教会でも家でも聖書の言葉をたくさん教えられました。そして、自分の心のことを考えると、ずるく、
自分勝手な所や、傲慢な所があり、どうにもコントロールしようのない罪があることが分かりました。
この罪が取り除かれて、心から満たされて生きていけたら良いだろう、とも思っていました。死んだ後には、
天国に行きたいという気持ちもありました。しかし、信仰の告白には踏み出せずにいました。なぜなら、
「神様は実際に、いる」と心から信じることができなかったからです。「いるような気もするし、
いないような気もするなぁ」と思いながら、高校2年生の終わりを迎えていました。
その頃、わたしを心配した母教会の先生が洗礼を受けてはどうか、と勧めてくださいました。中途半端な
気持ちだったわたしはどうしよう、と困りました。なぜ信じ切れないのだろう、といろいろ考えた末に、
やっぱり困り果てて、お祈りすることにしました。「あなたが本当にいるのなら、知らせてください。
分かるようにしてください」と祈りました。すると不思議と「いる」と信じられるようになりました。
神様が「いるよ」と答えてくださったような気がしたのです。本当はもう、聖書がすでに知らせている
ことであり、自分に何も起こらなくとも、見ないで信じる者になれることが一番です。でもあのとき、
正直に祈って本当に良かった、と思っています。神様はわたしのような頑なな者も、憐れんでください
ました。こうして、わたしはイエス・キリストの十字架によって、自分の罪が赦されたことを信じ告白
しました。2008年3月28日のことでした。
高校を卒業して、わたしは神戸大学に進学し、御影ルーテル教会に通いました。その4年後には徳島に戻り、
東祖谷中学校という山奥の学校3年間講師として勤めました。知らない土地へ行くたびにさみしさを
味わいましたが、神様だけはどこへいってもそばにいてくださるということが救いでした。
東祖谷からは、車で1時間半の高知県にある改革派山田教会に通っていました。そしてその頃に現在の夫で
ある小田駿也さんと結婚することを決め、松山に移ることになりました。
松山で通う教会を探すために、たくさんの教会をまわりました。でもどうにも落ち着かなくて迷って悩んで
いるときに、駿也さんがインターネットで見つけてくれたのが、こちらの松山バプテスト教会でした。
まだ通い始めて半年ですが、これからも長く通うことができたら嬉しいです。いつも心から喜んで讃美をし、
礼拝を捧げ、奉仕をしておられる皆さんの姿を見ると励まされますし、川上先生の聖書に忠実で誠実な
メッセージを聴けることも幸いです。わたしもこの教会の一員として加えていただくことを希望します。
どうかよろしくお願いします。
2016年11月27日(日)
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