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武術としての忍術考


武術から見た忍術史


忍術というのは要するに忍びの術-偸盗の術で、相手に自己の存在を知られないように行動する目的で、特殊な訓練を身につける技である。戦国時代ともなれば、おのずから戦陣の助けとして用いられる機雲にあり、斥候・間牒の技術に、これが生かされたのは理の当然であった。斥候、昔のことばでは物見といった。対陣にのぞんで敵兵の動静・多少をさぐり、道路その他の地理的要件をしらべて来て報告するのが任務である。戦国時代には、斥候にゆく人数の多少によって大物見・中物見・小物見の名があり、遠方までゆくのを遠物見、ごく秘密にしらべるのを忍物見といった。遠物見は遠目とも遠見ともいしばみくさい、忍物見は芝見ともカマリ物見とも草ともいう。いわゆる忍術の起源は、この忍物見の特殊技術化で、つまりは秘密軍事探偵術というべきである。また京に近いところでは、伊勢の国や江州の甲賀の地には地侍が多くて、応仁の乱以来、とかく各党分立して戦争ばかりしていたから、自然と、こそ泥や強盗のようなことをし馴れて間諜の技に長ずる者が多く、それを諸大名や諸家でスパイ役に召抱えておくのが常である。こうしたことから伊賀者・甲賀者といわれる者が、諸国にひろがったのである。



伊賀流(忍術) 


ハッキリ伊賀流とわかっているのは、永禄の頃、鳶加藤というもの最も妙手の名有りと『近江国輿地志略』に書かれた飛び加当こと加当段蔵で、寛文六年刊行の『伽碑子』によって小説化され、文政年代の『烈戦功記』に脚色されて実録化された。けれども、変幻無類のその内容は実は支那小説からの翻案であって、全く信ずるに足りない。その人物が実在であることだけは史籍集覧本の『紀伊国物語』(一名、赤坂之記)によって知られるが、それには軽業の名人とあって忍びの術といわず、本名も出ていないのである。
(武芸流派100選より)



忍術は人類の歴史とともに古い


江戸時代初期の兵学者長沼宗敬(一室二五〜九〇)は、その著『兵要録』十八巻のうち、巻の五「選士」の項で、孫子の言を引用して「善用丘者求之於勢、不責於人、故能択人而任勢、所謂勢者、各随人之所長以為騰也」とし・武士をその能力に応じて、腹心、謀士、羽翼、股肱、爪牙、冒刃の士、力士、覘賊の士、郷導、間諜の士、長銃の士、威遠の士、農芸の士、博士、術士、稽古士、健歩、水練、芸士、抄掠士等二十類型に分け、それぞれの特徴とするところを述べている。そのなかで「間諜の士」は「心勇機敏舌弁乱巧」であって、よく人心を読み、敵国の人心の帰趨を察知する能のある人物、「健歩」の士はよく高きを踰え、遠きをわたり、「軽足.疾走.精健」の者、はやぶさ「水練」の士は溝河を自由に游泳し、用を足すことのできる者、「抄掠士」は猿のように木によじ、隼が獲物をうつように、また犬のようにひそかに盗み、雛の鳴き声をまね、溝や塁を踰越することのできる者だとしている。これらの諸士の特徴とするところは、いずれも忍術的な資質である故、理想的な軍陣集団像ともいうべきものは、いわゆる忍術的資質を具えた諸士を必須の要素としたといえる。しかし忍術は、宗敬が「長箭長銃の士」に求めた火器・火薬の法一般や「長芸の士」に求めた弓.銃.鎗.刀.御馬の法と同様に武術のジャンルにはいるべきものであり、むしろ他の武芸と関連することによってその威力をいっそう発揮するものである。また多くの武芸が狩猟起源のものであったと同様に、忍術もまた原始日本人の狩猟生活を淵源として発展したものといえる。そこにはひそかに野鳥や野獣に接近したり、敵の襲撃から巧みに身をかくしたり、鳥獣の鳴き声をまね、獣皮その他で身を偽装して獲物に接近するなど、のちの忍術の潜行活動やトリックの素朴なすがたがあった。これらの遺習は、今日「かくれんぼ」・「鬼ごっこ」など子供の遊びのなかにもあらわれている。また原始人の偽装的またはトリッキーな狩猟行動は、アフリカ、アメリカ、オーストラリア等の諸大陸や南洋諸島の原住民の間でもいまなお行なわれている。
(日本武道全集より)



体系化された忍術


忍術は以上のように人類の歴史とともに古いが、これが体系化されるのは、もちろん人類が歴史をもつようになってからであり、成文化されるのはさらにいっそうのちのことである。東洋で軍陣理論を成文化した最初の人は、中国の春秋戦国時代(紀元前七七〇〜前二二一年)の人孫武である。彼の書いた『孫子』十三篇の最終篇「用間」は、彼我戦いを交える前の敵情の実態把握、心理作戦のために「間」を用いる方法を説いたものである。「間」は「間諜」の意である。「用間」すなわち間諜を用いるの意である。彼我の緊張関係の間隙を縫って敵中に潜行し、敵の兵力、その配置や士気、作戦をさぐり、地理・地形を調べ、民心の帰趨をさぐる。またそれは人心の離間、糧道の遮断等その他さまざまの攪乱行動によって敵の戦力源を破壊する諜報・謀略任務をもつものである。『孫子』の兵法は八世紀のはじめ、わが聖武天皇の天平七年三月、在唐十七年の留学生生活を終えて帰朝した吉備真備が、『呉子』・『六韜』・『三略』・『諸葛亮八陣』とともに伝えたものだといわれている。もっともこれが孫氏伝来の最初であるかどうかは明らかでない。なぜならば、日本はすでに紀元前一世紀ごろから大陸文化を受容しているからである。しかし信ずべき記録が見当たらない限り、吉備真備以前の伝来については想像の範囲を出ないといってよい。すでに述べたように、しのびのテクニックは、理論に先行して人類の生活とともにあり、いわば一種の生活の知恵として発展したものである。記・紀その他の古い文献には、忍術的な記事が散見されるけれども、それと『孫子』の「用間」の内容と結びつけることは間題であろう。『孫子』の用間理論は、日本では、いわゆる「兵学」の内容として発展したと考えるべきであろう。
(日本武道全集より)



忍術の流派について


甲賀流・伊賀流ともに、忍術の流祖や伝系に関しては仮託の説が多く、したがって、各党・各派その説くところが違い、またあまり信用できそうな確説もない。『甲賀流忍術秘書』由来之巻には、恵美押勝……伊賀の覚法(伊賀流)……楠正成……芥川兵部(甲賀流)の伝統を説き、『近江輿地志略』には、漠然と甲賀・伊賀四十九家ありといって約三十家の名を挙げ、永禄年中の六角攻めの鉤の陣のとき、伊賀の河合安芸守の一族がシノビの術で大功を立てて以来、甲賀・伊賀郷士の評価が高くなったといい、又、甲賀流は伊賀流からの分かれであるとも書いてある。伊賀流服部党の『忍法秘巻』忍祖之記の条には、伊賀流の祖を服部半蔵の先祖の伊賀平内左衛門家長(平内兵衛保清から十七代後という)としている。説いて最も詳細なのは戸隠流忍術の戸田真竜軒の口伝で、広く口碑を綜合した上に、ずいぶん小説的な潤色もほどこされているようだが、以下その要旨(高松寿嗣筆記)を摘要する。信濃国司諏訪左衛門源重頼の三男望月三郎兼家は、天慶年間、平将門の乱に軍功あって近江甲賀郡司となり、姓をあらためて甲賀近江守兼家といい、その子の近江守家近も文武にすぐれていた。そのころ甲賀王滝荘竜巻という場所に一人の法師が住んでいて幻術に長じ、人呼んで竜巻法師といったが、近江守家近、この法師からその術を教えられ、それが甲賀流の起源になる。家近-家成一家定-家辰一家清-家国-家遠一家義一家康と段々伝え、その子孫が望月一党・鵜飼一党・内貴一党・芥川一党・甲賀と、以上五姓家になる。以下八代を省略して、宝徳年代には甲賀三郎・望月五郎・鵜飼竜法師・内貴藤兵衛・芥川一馬。この五名が佐々木氏の先鋒として足利義尚の軍を破る。以上五家のほかに南北朝の敗残兵らが入りこんで、甲賀五十三家ができ上がった。それらの内、旧来の五姓家に上野家・伴家・長野家を合わせて甲賀八天狗といい、そのほかに飛竜組・白竜組らがもっとも術に長じていた。飛竜組には山中十郎・嵯峨越前守・宮島掃部介・倉治右近介・平子主殿介あり。白竜組には葛城丹後守・杉谷与藤次・木山鹿之介・望月出雲守・和田伊賀守・針和泉守・隠岐右近太郎・芥川左京丸・宇田藤内。平組には鳥居兵内・杉山八郎・服部藤太郎・大河原源内・大久保源内・佐治河内守・高峰蔵人。伴組には大原源三郎・伴左京介・牧村右馬介・上野主膳正・多喜勘太郎・野田五郎・岩根長門守・甲川文内。藤原組には鵜飼源八郎・小川孫十郎・山上藤七郎・八田勘助・頓宮四方介・上山新八郎・岩室大学介・中山民部丞・高山源太左衛門・池田庄右衛門・長野刑部丞・内貴伊賀守・大野宮内少輔・新庄越後守。多々羅組には青木筑後守・小泉外記・夏見大学・多羅尾四郎兵衛・丹波三雲新蔵人。菅原組には美濃部源吉・秋元上野介正秀。惟宗組には新保兵内・高松伊勢守・饗庭河内守・高野備後守。河内四天狗組には新納蔵介・辰巳二郎・本田筑前守。橘八天狗組には上西部吾・木殿大和守・遠藤武者之介・関口権十郎、等々の名がある。甲賀流忍術集団の中心だった甲賀家は、二代甲賀三郎の三人の子供から三家に分かれ、天竜甲賀・地竜甲賀・荒浪甲賀となる。なお伊賀流の本源だった伊賀平内兵衛保清の系統は、十七代後の平内左衛門家長の三子から三家に分かれ、長男が上服部、二男が中服部、三男が下服部になる。また永禄九年、織田信長に追われて越後長岡に逃れた谷村興善の後は、三代とんで谷村伊八郎以降また忍術で名があった。伊賀の三服部も織田信長の伊賀攻めに敗れて、残兵八十人は三河の徳川家(服部半蔵の系)、大和の越智家、山城の竜城寺家その他丹波・河内方面に亡命した。元来忍術者は忍び目付の役であるから匿された存在であり、普通の武術のように書いた伝書がなく、すべて口伝によって相伝したのである、云々。現今のこっている甲賀流・伊賀流の綜合伝書は、延宝四年に藤林佐武治が編集した『万川集海』で、甲賀本は全二十二巻、伊賀本は全二十五巻、いずれにせよ活瀚な写本であるが、秘伝として説述された内容は、陽忍三巻、陰忍五巻、ならびに忍器の製作と使用法が術の中心であって、書かれた術名こそ神秘・妖幻をきわめているが、術の内容は取り立てて奇怪な方技は包含されていない。陰陽五行説や八門遁甲を説き、真言の呪文を引用していても、内容的には真言宗・天台宗に伝わる諸種の密教的修法の解説さえなく、また奈良時代以来、唐土や朝鮮半島を通じて印度や西域から持ちこまれた変幻魔法(日本では外術(げじつ)といい幻術(げんじつ)といい放下(ほうげ)といい、また和語としてマボロシ、目クラマシ等と呼ばれた)の、タネも仕掛も方法も、何一つ具体的に書いてないのである。

伊賀流(忍)
 現在、十七代を名乗る伊賀白祐斎範弘があやつることは寄席芸の気合術と暗算にすぎない。他に十五代服部半蔵と名のる人がある。本名は前川守。久留米市住。もと伊賀に住し、奥瀬平七郎の推薦で十五代を名のるという。

伊賀流(忍)
 土佐藩の服部氏。三雲流軍貝

伊賀流(忍)
 伝系の遡原は不明。……滝野半九郎定勝-赤井田伝兵衛重勝一陸扇計時輝-平岩善次郎信実

伊賀流(居合、剣、試剣)
 元禄ごろから加賀藩に伝承。伊賀の郷士、伊賀乗重が祖で、神道流の別系。

伊賀流(手裏剣)

伊賀流(拳)
 天保ごろ、江戸の白山で逸見将監義峰が教えた。

伊賀流(軍法)
 祖、伊賀治太夫武寛。初名は主水。風山子と号す。諸流を学んで一流を創めた。
 浪人して勢州桑名に住んでいたが、後、江戸に出て松平丹波守光永に仕え、美濃加納藩、ついで又、山城城に移った。信州松本に移封後、その他に伝承。一に風山流とも言った。旧姓山中氏。享保三年九月七日死、七十五歳。

甲賀流(忍)
・尾張藩に伝承した伝系は下記である。
 甲賀流忍術(尾張藩)
 ・・・上野小左右衛門資宗
   ・和田孫八視精−上野孫太夫−上野孫八視精

甲賀流(忍)
 十八代を名乗る小林小太郎が山梨県甲府にあるが、伝系不明。
 師は高野源八郎で、高野は旧小田原藩士、大正十一、二年ごろ皇宮警察であったという。
甲賀流和田派(忍)
 和田伊賀守惟政。甲賀五十三家中、南山六家の一。その流末は藤田西湖(昭和四十一年死去)で絶伝した。
(武芸流派大事典より)



手裏剣術(手裏剣)とは  忍者と言えば手裏剣ですね!


手裏剣術のはじめは、人皇第十二代景行天皇の皇子日本武尊(栖ξが御東征の帰途、足柄坂下において糧食をとられておられたとき、その坂の神が、白い鹿になって来かかった。そのとき尊は、食べ残しの蒜の片端をもって、その白鹿の目に打ち当て、打ち殺されたという古事記、日本書紀の事跡をもって始めとされる。手裏剣術とは、遠く離れたところから、手の裡(裏)の剣(陰剣)を敵に、投げ、撃ち、離して倒し、勝理(利)を修むるわざ(術)という意義で名づけられたもので、したがって名称も、手裡剣術・手裏剣術・手離剣術・投剣術・打剣術・撃剣術・修理剣・修利剣術とも書かれているわけである。支那では、銑マ・縹・三不過術といっている。この手裏剣術は、昔まだ飛道具の発達しなかった頃は、武士は飛道具にかわ手裏剣術にかわるものの一つとして、他の武術と共に学んだものである。この手裏剣術は、護身と攻撃を兼ねた術で、大別すると二法となる。その一を留手裏剣、他を責手裏剣という。

留手裏剣には、
 ・忍手裏剣
 ・静定剣
 ・乱定剣
の三伝があり

責手裏剣には
 ・火勢剣
 ・薬剣
 ・毒剣
の三伝がある。

忍手裏剣というのは、手裏剣術用として特に用意された(特定の)手裏剣をもって、敵を撃つ方法で、通常いわゆる手裏剣術とは、これをいうのである。その武器として用いる手裏剣の形態は種々あり、一様でない。流派々々によっても、一種独特の手裏剣形態がある。針形・棒状・角形・釘形・平形・短刀形・槍の穂形等のほか、投げつければどこか一角か二角は必らず突き刺さるように造った三光・四方・星状(五方)・六方・八方・十方・十字・車剣・万字形等がある。これらは、総称してすべて車剣という法輪より出たものである



手裏剣術流名録


・浅山一伝流 慶長 浅山一伝斎重農
・天津流
江戸初期 天津小源太
・荒木流 天正 荒木夢仁斎源秀綱
・伊賀流 永禄 上遠野伊豆広秀
・一貫流

渋木新十郎
・一方流
寛永 難波一方斎藤原久長
・円明流 慶長
宮本武蔵政名
・温古知新流
川澄平九郎政光
・上遠野流 明和安永頃 上遠野伊豆広秀
・香取神刀流
飯篠長威斎家直
・願立流 寛永 松林左馬助永吉
・日下流 日下一甫
・甲賀流 永禄
・孤伝流 藤原鎌足
・小堀流 小堀勘解由入道清平好之
・白井流
・真陰流
・心月流
・新心流
・新道精武流
・清心流
・関口流
・大東流
・竹内一心流
・竹村流
・立身流
・知新流
・津川流
・天流 吸江十右衛門
・天真伝一刀流
・白井流
白井享
・丹羽流 宝暦頃 丹羽織江氏張
・根岸流 根岸忠藏宣教松齢
・根来流
・宝山流 元亀 堤山城守宝山
・平集流
・末流 中野伴水景達
・松葉流
・三浦流 三浦揚心
・武蔵流 慶長 宮本武蔵政名
・武極応的流
・孟淵流
・毛利流 毛利源太郎玄達
・柳生流 慶長 柳生但馬守宗厳
・山内流
・融和流
・揚心流
・義尾流


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