はと の  そう は
鳩野宗巴
八世
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細川藩の藩医であった八世鳩野宗巴の功績を称え、昭和52年には「診療、医学生の育成に尽力。終生慈善を行った医師」として熊本県近代文化功労者に選ばれ、2005年10月14日には、拝聖院において銅像の除幕式が行われました。

銅像は拝聖院(はいしょういん)(熊本市室園町12-25)の入り口の坂道の下、朝日野病院との間にあります。

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鳩野宗巴(八世)に関すこと

姓を「鳩野」に改めた理由

その他鳩野宗巴に関すること


鳩野宗巴(八世)に関すること

 鳩野宗巴(八世)は、1844年(天保15年、弘化元年)に熊本城下に生まれた。
 八世宗巴は、名を長貴といい、幼名は健太郎または、健甫、壷渓と号し、幼いころから、父に従って医術を学び、文久三年(1863年)11月、七世宗巴が49歳で死去、僅か19歳で家督を相続し、翌年に御妙沙汰書(今でいう辞令)によって、外様御中小姓御医師として藩に仕えるようになる。  当時の藩医の家格は士席医師、軽輩医師などあり、士席医師は、藩主などの診察を受け持つ家格の高い医師であった。士席医師は更に知行取医師と扶持米取医師の2種類があり、知行取医師には更に御匙御医師(侍医)、御次御医師(近侍医)、外様御医師(外務め)の3種類があった。扶持米取医師には更に御次御中小姓御医師(奥向き)、外様御中小姓御医師(外務め)の2種類があって、いずれも軽輩医師を異なり「御」の敬称が附けられていた。  明治元年(1868年)正月(八世宗巴が25歳の時)には、藩命によって関東に出張し、熊本一番隊医長として、上野戦争などに参加し、後に横浜病院(明治政府が英国の軍医ウイリアム・ウイルスを院長とし設立した軍事病院)で英医シドールの元、薩長土三藩の負傷兵300人の治療を担当した。その功績が認められ後に熊本藩から白銀3枚が贈られている。  明治10年(1877年)(八世宗巴が34歳の時)には、妙体寺町に医院活人堂、病室養生軒、医学塾亦楽舎を構えていたが、西南の役が勃発、西郷隆盛が鹿児島から兵を率いて熊本鎮台を攻撃し、半年の間、町は戦禍にさらされた。市民の多くは田舎に疎開し、鳩野家でも大切なものは井戸に投げ込んだり、土蔵に塗り込めたりして、郊外の拝聖庵に難を避けたが、2月19日の熊本城天守閣の炎上の時に、上林、上通、坪井と延焼、家屋も全焼した。  この戦争の中、2月23日には薩摩軍に付いた熊本隊の隊長・池辺吉十郎(当時40歳)から西郷方(薩軍)の治療にあたってほしいと強要され、宗巴は少しも騒がず、「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多く、また戦争の余波で負傷した罪無き普通人も少なくない。医は仁術によって、負傷者の治療はもとよりいと応じましょう」と答え、池辺もこれを承服した。宗巴はさっそく同僚の藩医(河喜多宗磧、黄玄風、原田早春、村上又五郎、松岡独醒庵、狩野庄馬、村井同吉)とともに、拝聖庵や亀井村(現在の清水町亀井)に仮病院を開くなどして、負傷者はを収容したところ、たちまち200人に及び、近隣の学校(梅木小学校)寺院(亀井の光照寺)や民家41戸を借り上げて病室とし、桑島見龍、松田喜福、池邊健寿、林強の4医師も加わって治療にあたった。またこの医療活動は皆自費で行われ、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われた。  こうした活動が、日本赤十字社の前身として5月27日に熊本で設立された博愛社よいも94日早く始め、さらに赤十字精神に合致することから、日本の組織的赤十字活動の始まりとされている。  明治25年4月1日には、塘林虎五郎によって熊本貧児寮(大江学園の前進)が設立されると、宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、大坪氏(眼科)とともに20年にわてって報酬を受けずに協力している。また、父の遺業であった家塾(亦楽舎)も、明治14年の医療制度改革によって私塾廃止のやむなきに至るまで継続し、医師養成にも力を尽くした。  亦楽舎は天保10年3月20日に創立されてから明治14年4月19日に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学んだ。  明治に流行した数え歌のなかで、「五つとや、五つ 医師殿は鳩野さんが名所」と唄われていることや、明治25年4月21日に九州日日新聞が募った「十二大家族」に慈善家として鳩野宗巴が挙げられていることなど、当時の宗巴の名声が伺い知ることが出きる。また、八世宗巴は60歳ごろから中風症を煩い、1917年(大正6年)3月8日に74歳で没した。墓は熊本市横手町の妙永寺に在り、戒名は守拙院日笑壷渓居士である。  家督に関して八世宗巴は39歳の時(明治17年12月)に、長男四九夫(当時4歳10ヶ月)に譲っているが、理由は解っていない。
 八世宗巴は、医業の他にも質屋を営業し、無利息受出しをするなど貧民のため、また公益のためには義金を投じている他、往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与えるなどしている。  日清戦争の後に、盛大に行われた招魂祭では、列した宗巴は、軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたのだからと、独力で坪井宗岳寺境内に馬の碑を建立した。  人道支援活動としては、西南戦争末期には、看護師の加世田さとが鹿児島の官軍臨時病院で敵味方なく介護を行なうなど、この時代の多くの人々によって、組織的救護の実現につながったといえる

姓を「鳩野」に改めた理由

 先祖は姓を中島といって、長州毛利家に仕えた武士であった。五百万石を受けていたが、家督相続の処理に不平を抱き長州を離れ、浪人として肥前長崎で生活するようになり、その子に一世宗巴が生まれた。
  一世宗巴は、幼いころから、出島の蘭館に出入りし、海外の事情、特に南蛮医術が大いに開けていることを知り、「解体新書」よりも約100年早い、まだ鎖国中の万治年間(17世紀)に、密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、5年間医学などを学んで帰国、密航の犯跡をくらますために出島にとどまり、南蛮医カスパル、アルマンスの二人のもと更に研鑽を重ねた。
  この間に、肥後細川藩主の飼い鳩を治療したことから、「鳩の医者」とうわさされ、君命によって姓を「鳩野」に改めたと伝えられている
  その後、大阪に移り開業し名をなし、細川侯から四十人が扶持で遇され、二世宗巴のとき、肥後に移り、法華坂の上に屋敷を賜った。以来代々「宗巴」を襲名し、中でも七世宗巴は妙体寺町に広大な医院(活人堂)、病室(養生軒)、医師養成の家塾(亦楽舎)を建てて、診療を行うと共に医生の育成にも力を尽くした。

鳩野宗巴(八世) 鳩野宗巴(八世)の銅像1 鳩野宗巴(八世)の銅像2


その他鳩野宗巴に関すること

 九世宗巴も父の業を継いで活躍したが、昭和20年に67歳で没した。また、八世宗巴の二男長世は大正12年に分家して、辛島町に鳩野医院を開業、昭和44に没した。
 本家九世宗巴の後は、その子長光が昭和21年の十世宗巴を継いで医業に励んだが、昭和40年5月に没した。鳩野家はこの十世宗巴を最後に医系としては絶えることになる。

  銅像周辺の様子