東京

玄武館跡

JR神田駅 東洋高校内

北辰一刀流、千葉周作の道場。神田お玉ヶ池のほとりにあった。龍馬は、千葉周作の弟である千葉定吉の道場で剣術修行をした。龍馬はこの玄武館へも出向いて、剣術の腕を磨いたと言われている。

玄武館跡碑

お玉ヶ池跡(神田鍛冶町)

 

千葉定吉道場跡(定説その1)

JR東京駅 八重洲(鍛冶橋)近辺

龍馬が修行をしたのは、「小千葉」と呼ばれる千葉周作の弟である千葉定吉の道場。「小千葉道場」の場所は定かでない。現在では少し離れた2ヶ所が定説となっているので、まずその1つを紹介する。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」にもあるとおり小千葉道場が”京橋桶町”にあったとされることから考えられているのが、現在のJR東京駅八重洲南口前にあった鍛冶橋付近である。土佐藩邸上屋敷から徒歩数分、築地の中屋敷からも十数分くらいで通えると思われる。

鍛冶橋通り

鍛冶橋交差点

 

千葉定吉道場跡(定説その2)

JR神田駅(地下鉄人形町駅) 日本橋堀留町付近

千葉定吉道場跡の定説その2である。嘉永6年の古地図によると、新材木町(現在の日本橋堀留町)に千葉定吉の名があることから、ここが道場跡ではないかとされるものである。跡碑などはないが、近くに椙森(すぎのもり)神社がある。鍛冶橋から北へ約2キロ、千葉周作の玄武館に程近いが、築地の中屋敷からは少し遠い。こちらの方が正しいと推す歴史家は多い。

道場跡近くにある椙森神社

 

勝海舟邸跡その1(明治維新前)

地下鉄千代田線赤坂駅 元氷川坂下

龍馬が最も慕った勝海舟邸跡。剣術修行中の龍馬が千葉重太郎と連れ立って訪れたといわれる。
現在、レストラン外の壁際に、「勝海舟邸跡」の印が残るのみである。

勝海舟邸跡

ここで龍馬は勝海舟に魅了されたといわれる。

 

勝海舟邸跡その2(明治維新後)

地下鉄千代田線赤坂駅 旧氷川小学校内

龍馬が最も慕った勝海舟邸跡。但し、ここは維新後に住んだ場所。私が訪れた時は、碑のある小学校が移転,老人ホームを建設するとのこと。碑は残されますように。

勝海舟邸跡碑

碑は小学校内にあるのだが移転したらしく、
碑のある周辺は草が生い茂っていた。なんか草しか写っていない。

氷川坂

左奥に氷川神社がある。龍馬はこの坂を
歩いて海舟に会いに行ったのだろうか。

氷川神社内(大いちょう)

氷川神社は徳川吉宗が建設。
神社内にとても大きないちょうの木が。都天然記念物。

 

土佐藩邸(上屋敷)跡

JR東京駅 東京フォーラム

土佐藩江戸藩邸の上屋敷があった場所。嘉永6年(1853)初めての剣術修行時にまず足を踏み入れた場所である。
以前、旧東京都庁があった時は、上屋敷跡碑があったらしいが、東京フォーラム建設後は見当たらない。

土佐藩邸(上屋敷)周辺・・現東京フォーラム

 

土佐藩邸(中屋敷)跡

JR有楽町駅 東京都中央区役所

江戸千葉定吉道場での剣術修行時に、出入りした土佐藩邸。2度目の剣術修行時には、ここ中屋敷で武市瑞山と同宿した。
土佐藩邸あとを残す碑も面影もなく、中央区役所がそびえ立つのみだった。

土佐藩邸(中屋敷)周辺

 

越前福井藩邸跡

JR東京駅 大手町NTT大手町ビル

文久2年(1862年)龍馬は脱藩後、江戸に現れる。そして12月、龍馬は間崎哲馬、近藤長次郎とともにこの越前福井藩邸を訪れ当時幕府の政事総裁職だった松平春嶽に面会する。そのとき、横井小楠、勝海舟への面会の紹介状を入手したとも言われている。

福井藩邸跡周辺

 

桃井道場(士学館)跡

JR有楽町駅 新富町(新金橋)

安政3年(1856年)、龍馬は2度目の剣術修行に出るが、これとほぼ同時に武市瑞山も江戸へ出ている。その武市が剣術を学んだところが、千葉玄武館と並ぶ江戸の3大道場のひとつ桃井春蔵の士学館である。武市は士学館の塾監をつとめた。

桃井道場跡も示す「あさり河岸」の看板

桃井道場跡付近に建つ「三つ橋跡」の看板

 

山内容堂のお墓

京急鮫洲駅 大井公園内

龍馬の故郷、土佐藩15代藩主。龍馬らとともに幕末の動乱を歩んだ。頭脳明快、話術堪能で、土佐藩では傑出した存在であった。
武市瑞山など藩内の勤王(土佐勤王党)の志士をことごとく弾圧した一方、「公武合体」を唱え、最終的には無血討幕「大政奉還」に貢献した。容堂の遺言から、高知から遠く離れた東京の大井(当時は土佐山と呼ばれていた)に葬られている。
この場所は、幕末時は土佐藩邸下屋敷であったようであり、龍馬は、剣術修行のころペリー来航時に護衛のために、この下屋敷を訪れている。

山内容堂のお墓

 

幕府軍艦操練所跡

地下鉄築地駅 中央市場前

安政4年(1857)、幕府が軍艦演習学校をこの地に設置した。頭取に勝海舟などが歴任している。
龍馬はこの操練所にも足を踏み入れている。元治元年(1864)、将軍徳川家茂が上洛する際に護衛目的で勝海舟とともに幕府船(観光丸)で出航し、大阪に向かっている。

海軍操練所跡の説明版

明治に入って出来た海軍経理学校跡の碑

龍馬の乗った観光丸の模型(交通博物館蔵)

 

ニコライ堂

JR御茶ノ水駅 南

龍馬剣術修行中の安政4年(1857)に、江戸で別の道場に通う山本琢磨が、酒によっった勢いで時計を窃盗した事件を起こした。その事件を解決すべく、龍馬は尽力した。その山本琢磨は後にロシア正教会の大司教となり、御茶ノ水にこのニコライ堂を設立する。

ニコライ堂

 

品川台場(お台場海浜公園)

ゆりかもめ お台場海浜公園駅

嘉永6年(1853)ペリー来航後、幕府は軍事強化を図り、砲台などを突貫で築いた。ここ品川台場は、伊豆韮山代官 江川太郎左衛門の設計、指揮により1年強の短期間で6つの台場を築いた(但し費用の関係から一部中断)。
土佐藩も品川浜川に砲台を築き、安政元年(1854)ペリー再来航時に剣術修行中の龍馬は、品川周辺の警備に借り出された。そのとき見た、黒船に衝撃を受けた。
  

品川第三台場

第三台場のほかに第六台場が残るが、孤島状態である。
右写真は砲台跡(レプリカ)。奥に見えるのがレインボーブリッジ。