聖書のメッセージ


2018年12月9日(日曜)

待降節第2主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「主の憐れみ深い」
聖書 ルカ1章57節−66節
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さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。この子には主の力が及んでいたのである。
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
 ルカ1章57節−66節 聖書・新共同訳
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祭司ザカリアと妻エリサベトは、祭司職の継承のためにも男児の誕生を祈り求めたことでしょう。しかしエリサベトは不妊の人であり、二人ともすでに高齢となり、子供を望むことの出来る状態にはありませんでした。そうした中、ザカリアが聖所で香を炊いている時、主の天使が現れてザカリアに、エリサベトが男児を産むことを告げ、更にその子が救主に先立ってイスラエルの子らをその神である主の許に立ち返らせる使命を果たすと告げました。
するとザカリアは『何によって、わたしはそれを知ることが出来るのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています』と言いました。自分たちの状態と男の子の誕生を結びつけるものは何もなかったからです。
すると天使ガブリエルは『あなたは、時が来ると実現する私の言葉を信じなかったから、口が利けなくなり、このことの起こる日まで、話すことが出来なくなる』と告げました。
こうしたことの後、月が満ち、エリサベトは男の子を産みました。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った、とあります。この「慈しむ」という語は、すぐ前の「マリアの賛歌」でも繰り返し使われている「憐れむ」と原語は同じで、「深い共感に基づく愛」です。実に子供を産むことの出来ないこの二人はただ神の憐れみの故に男児を与えられたのでありました。
生まれて八日目に、主の天使が告げたように「ヨハネ」(主は憐れみ深い)と命名されました。するとザカリアの口が開き、神を賛美し始めたのであります。人々はこの子の上に神の業が成されていることを覚え、この子はどんな人になるのだろうかと語り合ったのでありました。こうして主は憐れみ深い御業を証しするヨハネを誕生させられました。ザカリアとエリサベトにとっては、息子ヨハネ自身が、主が憐れみ深いお方であることを証しする存在となったことでしょう。
わたしたちは今、主のご降誕を迎えようとしています。
聖書は、主イエス様が、わたしたちの救いのために、この世にお生まれになり、十字架の死による贖いの御業を成し遂げて復活し、「わたしは世の終わりまで、あなた方と共にいる」と約束されたことを告げています。
わたしたちは、このわたしがそんなに大きな御業に与り得る者だろうか、と考えます。わたしの側にはこのような偉大な神の救いの御業とわたしとを結びつけるものは何一つありません。ただ主の憐れみによることです。
自分に不安を覚える時にも、主イエスにおける神の憐れみの御業を告げる言葉を信じ喜び感謝し、応答としての歩みに、日々勤しみ励みましょう。