聖書のメッセージ


2018年6月24日(日曜)

聖霊降臨節第6主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「悔い改めよ」
聖書 マルコ11章27節−33節
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一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 マルコ11章27節−33節 聖書・新共同訳
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イエスが弟子たちと境内を歩いておられると、最高法院の構成員である祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、イエスの境内での振る舞いについて、何の権威でしたのか、と詰問しました。神殿は、神が自らそこに居られ、そこでご自身の民と会うと約束された、聖なる領域でありました。ですから、イエスの神殿での振る舞いは、赦すことの出来ないことだと思われたのであります。
かねてからイエスを殺そうとして逮捕の時を伺っていた彼らは、この質問に依って逮捕したいと考えていました。もしイエスが自分の考えによることだと言えば、権威ある聖なる神殿の祭儀を妨害し、神殿を汚す者として逮捕することが出来るでしょう。また、もし神によることだと言えば、神が自らここに居てその民に出会い、聖なる祭儀と祈りの場とすると言われた神殿を、神が自分で汚すことを命じられるはずはないとして、イエスは神を冒涜する者として逮捕することが出来るでしょう。
こうした中でイエスは、逆に『ヨハネの洗礼は天からのものか。それとも、人からのものだったのか』と尋ねられました。彼らは、このことをめぐって話し合いました。もし天からものだと言えば、何故ヨハネを信じて悔い改めの洗礼を受ける事をせず、またヨハネが来るべきメシアとして指示したイエスを信じないのか、と言うだろう。また、もし、人からのものだ、と言えば、ヨハネを神から遣わされた預言者と信じて洗礼を受けた群衆が、自分たち指導者に不信を抱き、不都合なことになるだろうと語り合い、『分からない』と答えたのであります。
イエスは、ヨハネの悔い改めを勧告する洗礼を語ることによって、彼らに悔い改めを迫られました。しかし彼らはイエスの呼びかけに応答することはしませんでした。イスラエルを代表する人々ですが、彼らの中心的な動機は、神から離れた状態での自己実現と自己保存であり、神の御心を求めて従うことではありませんでした。
創世記3章にアダムとエバの堕罪と失楽園のことが記されています。神が取って食べてはならないと言われた木から取って食べ、神が何故かと問われると、アダムは『あなたが共にいるようにしてくださったエバが食べるように言いました』と言い、神とエバに責任を転嫁しました。またエバも『蛇がだましたので、食べてしまいました』と言って蛇に罪を転嫁し、悔い改めることはせず、楽園から追放されることになりました。
悔い改めこそ、神の恵みに与るための門であることを覚え、主の悔い改めの呼びかけに応答いたしましょう。