聖書のメッセージ


2018年4月22日(日曜)

復活節第4主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「恵みと赦しの中で生きる」
聖書 マルコ10章1節−12節
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「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
 マルコ10章1節−12節 聖書・新共同訳
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ファリサイ派の人々が主イエスを試そうと、離縁が適法か質問すると、主は『モーセはあなたたちに何と命じているか』と聞き、彼らは申命記24章1節の律法を根拠に『モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました』と答えました。 
この律法には、離縁の条件は「妻に何か恥ずべきことを見出し・・」とあるので、当時、離縁の条件について。シャンマイ派は姦淫のみ、ヒレル派は料理が下手、見知らぬ男性と話す等、アキバ派は自分の妻より美しく見える女がいた場合とし、こうしたことによって女性は離縁されていました。
こうした中で主は、このモーセの律法は離縁を許可しているのではなく、男の頑固さの故に女性を保護するために書かれた命令に過ぎないと言い、新たに結婚離縁について、『天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』(創世記1:27.2:24)と教えられました。結婚は神が二人を結び合せ、一つの体とするという神の恵みの御業であり、離縁については、『神が結び合わせ、二人を一つの体とされたのだから、人が離してはならない』と言われました。
弟子たちは驚き、改めて尋ねると、主は『妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる』と言われました。この主の言葉によれば、離縁も離縁した人の再婚も、それが成り立つような条件については何も語られてはおらず、神が備えられた比類のない恵みの中でひたすら生きるということが語られています。  
そうした中で、わたしたちは、改めて神の子・イエス・キリストと主の福音に目を向けるように導かれております。
旧約聖書では、神に背き、他の神々を礼拝するイスラエルの罪は姦淫と表現されており、神は姦淫を繰り返すイスラエルに、あなたの罪を赦しているから、私のもとに帰りなさい、と預言者を通して繰り返し呼びかけられました。
この神から遣わされた主イエスは『わたしは、失われた者を捜して救うために来た』と言い、徴税人、娼婦等、罪人と呼ばれる人々を招き迎えて共に食事をされましたし、姦淫した女性についても、『私もあなたを罪に定めない、行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない』と言って、主の恵みの赦しの内に生きる人とされました(ヨハネ8章)。
わたしたちはどう考えても、自分の義によって生きることの出来る者ではありません。主の十字架の死と復活に依る贖いの御業によって与えられる、罪の赦しと恵みの中で一途に生きる者とされるよう、お祈り致しましょう。