聖書のメッセージ


2018年4月15日(日曜)

復活節第3主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「あなたはキリストのもの」
聖書 マルコ9章42節−50節
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「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。†
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。†
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
 マルコ9章42節−52節 聖書・新共同訳
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42節では、主イエスを信じる人を躓かせることは、人の命をもってしても、償いきれない重いことだと言われています。また43-48節では、誰にとっても、主イエスを信じる信仰は何にもまして大切なことであって、命を守るために外科的処置をするように、どんな犠牲を払ってでも堅持すべきものである、と告げられています。
そして同時に、主イエスを信じることによって、主イエスによって命が与えられ、生活も神の恵みに満ちたご支配の中に置かれ、命と生活が一致することが告げられています。わたしたちは自分の命と生活のかい離、分裂に苦しむ者です。48節にある地獄の姿は、命と生活のかい離、分裂を示しています。しかし、主イエスを信じることにおいて、わたしたちは与えられた命に相応しい居場所に置かれることが告げられております。
こうしたことが告げられた中で、49節には「人は皆、火で塩味を付けられる」とあります。「火」は、神の力と働きを現しています。「塩味を付ける」とは、神への捧げものにはすべて塩を振りかけ、塩味を付けてお捧げしたのでありました(レビ記2章13節、エゼキエル43章23,24等参照)。塩味を付けるということは、神のものとすることを意味しています。ですから49節の言葉は、神がご自身の働きによって、人をご自身のものとされることを意味しています。
このことはとても大切なことであります。もしわたしたちが自分は自分のものであると信じているなら、わたしたちは自分についての最終的な責任者であり、また自分の証人でもあります。当然自分の欲求に従って、自分中心に生きることになるのであります。そうすれば、わたしたちの利害は対立し、互いに相争う関係になるに違いありません。
しかしもし、わたしたちが、主イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業に与かることによって主イエスのものとされ、神のものとされていると信じるなら、わたしたちの最終的な責任者は主イエスと、父なる神となるのであります。そしてわたしたちは、神の御心を求められる主イエスのみ心を求め、主に従うことを求めることになるでしょう。こうして、わたしたちが、わたしたちを共に愛しておられる主イエスと神の御心を求めて生きるなら、わたしたちは互いに平和に過ごす関係に置かれるのであります。こうして、50節の最後に「互いに平和に過ごしなさい」とある言葉が成り立つことになるでしょう。主のものとされているということこそ最も大切なことであります。
わたしたちが主イエスのものとされ、神のものとされていることを信じ、喜び感謝して主に従う者とされるよう、お祈りを致しましょう。