聖書のメッセージ


2018年3月25日(日曜)

受難節第6(棕櫚)主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「主イエスを仰いで」
聖書 マルコ9章38節−41節
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ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
 マルコ9章38節−41節 聖書・新共同訳
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本日は主が十字架の死を受けるためにエルサレムに入城された事を記念する「棕櫚主日」です。この日、群衆は棕櫚の葉をもって歓迎しましたが、間もなく主イエスが彼らの期待するメシアでないことを知ると、見捨てたのでありました。弟子たちも同様でした。イエスは十字架の死と弟子たちとの離別に備えて、弟子のありようについて教えられたのですが、本日の記事でも、主イエスに従う弟子たちのありようが語られております。
38〜40節では、ヨハネが、『先生、お名前を使って悪霊を終え出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました』と言いました。するとイエスは『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方である』と言われました。ヨハネは主に従う自分たちの姿を軸に考えていますが、主イエスは、ご自身の名による業であるか否かを問題にしておられます。人をご自身の味方として受け入れるか否かは主イエスご自身の御心に依ることであることを覚えましょう。
41節には、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」 と言われたと記されています。原語では、「キリストの弟子、という名の故に」 となっており、ここでも「主イエス・キリストの名」が、係っているか否かが大切なこととして語られています。「水一杯」を飲ませるということは、小さなことかも知れません。しかし、「主イエスの弟子という名の故に」、とありますから、大切なことは、わたしたちのグループに属する者であるか否かではなくて、主イエスの名の故に、一杯の水の施しが成されるか否かである、と言われております。
当時、ヨハネを始め弟子たちの目には、主イエスに従う人は極めて少数だと思われたことでしょう。ほとんどの人が味方ではなく、外部の人のように思えていたことでしょう。しかし主イエスが『わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である』 と言われる言葉を聞いて、目が開かれたに違いありません。
わたしたちも然りです。従い方は異なるとしても、わたしたちは、主イエス・キリストを仰ぐ多くの人々から、主イエス・キリス?の名の故に、信頼と心遣いを受け、助けと励ましを受けて来たことであります。とても数えることは出来ません。これからの日々の歩みにおいても、そのことが継続されるに違いありません。
主イエスはご自分の名の故に成される業に対し必ず報いをする、と言われます。主イエス・キリストを仰ぎ、主の名の故に、わたしたちに対して向けられた数えきれない人々の心遣いを感謝の内に覚えたいと思います。また同時に、わたしたちも、全ての人をこよなく愛しておられる、主イエス・キリストを仰ぎ、主イエスの名の故に、一杯の水であっても、必要とする人々に対して、心遣いをする者とされるよう、お祈りをいたしましょう。