聖書のメッセージ


2018年3月18日(日曜)

受難節第5主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「主の御名の故に」
聖書 マルコ9章30節−37節
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一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
 マルコ9章30節−37節 聖書・新共同訳
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フィリポ・カイザリア地方の伝道旅行の途次、イエスはご自身の受難と復活について弟子たちに語られたのですが、ガリラヤに戻って来てからもそのことを語られました。しかし弟子たちは主の受難についても、また復活についても良く分かりませんでした。そうした中で弟子たちは、誰が一番偉いのか議論をしていました。
カペルナウムの家に帰って来ると、主イエスは弟子たちに何について議論していたのか尋ねられました。しかし、主がご自身の受難と復活について語っておられる時にそういう話をしていたので黙っていました。すると主は、御自分に従う弟子のありようについて次のように教えられました。『一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。この主の言葉はわたしたちの世界では理解できず、受け入れがたい言葉であります。しかし主イエは、ご自身が宣教しておられる神の国(神のご支配)を語っておられるのであります。神は人とは異なり、「すべての人の後になり、すべての人に仕える人」を尊ばれることを言っておられます。神の恵みに満ちたご支配が語られていることに注目したいのであります。 
イエスはこのように教えた後、一人の子供を呼び、その子を抱き上げて言われました。「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのであり、わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。この子供はイエスが抱き上げられたのですから、人の世話をすることが出来る子供ではなく、人の世話になって、初めて生きられる子供に違いありません。通常わたしたちは、役に立つ人を受け入れますが、世話が焼ける人を受け入れることは回避しようとします。しかしイエスは「わたしの名のために(故に)」と言われました。「名」はその名によって呼ばれる「その人自身」を指していますから、「イエスのために(故に)」いと小さき者を受け入れるということになります。
ところで、イエスは「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。この主の言葉の故に、この主の言葉に従って小さな者を受け入れる者はわたしを受け入れ、わたしとの交わりに生きると言われました。そして更に、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた父なる神を受け入れ、父なる神との交わりに内に生きる者とされるのだ、と言われました。
わたしたちは、自分にとって都合の良い人を受け入れ、手のかかる人を敬遠致します。しかし、主イエスの故に、主イエスの言葉に従って、いと小さき者と思われる人との係りを大切にして歩む者とされるよう、お祈りをいたしましょう。