聖書のメッセージ


2018年3月11日(日曜)

受難節第4主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「祈りによらなければ」
聖書 マルコ9章14節−29節
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一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
 マルコ9章14節−29節 聖書・新共同訳
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主イエスと三人の弟子たちが他の弟子たちの所へ行くと、弟子たちが、一人の子供に取りついている霊を追放することが出来ず、律法学者たちと議論をしていました。イエスが「何を議論しているのか」と言われると、この子の父が経緯を説明し、弟子たちに霊を追放してもらえなかったことを話しました。するとイエスは、「なんと信仰のない時代なのか」と言って、弟子も律法学者も人々も、皆信仰のないことを指摘されました。
霊はイエスを見ると、この子の上に猛威を振るい、自分の力とこの子を支配しようとする意思をアピールしたようであります。この霊の力に圧倒されて父親は「お出来になるなら、わたしどもを憐れんで下さい」と願いました。するとイエスは「できればというのか。信じる者には何でもできる」と、神を信じているので、霊の追放の出来る主イエスを信じるように招かれました。これを聞き父親は「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と言いました。するとイエスは霊をこの子から追放されたのであります。
弟子たちは後で、『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』 と尋ねました。イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ない』 と言われました。不信仰でしかありえない父親を、イエスはご自分を信じるようにと招かれたのであります。この招きによって父親は、主イエスは憐れみの故に、霊を追放することが出来ると、信じて願ったのであります。主イエスは、彼の信仰に応答し、霊を追放されました。  
大切なことは、主イエスは霊を追放することが出来るという、イエスに対する信仰と、その主イエスに求める祈りであります。主イエスへの「信仰の祈り」が大切だと言われています。
わたしたちは、信仰について考える時、自分が信じたようになる、と考えがちです。すると祈ることはしなくなります。ここでは、そういう信仰について注意すべきことが指摘されております。
父親は、主イエスに、霊を追放して頂きたく願いました。すると主イエスは、この父親に、御自分が追放することが出来ると信じるように招かれたのです。霊を追放することが出来るのは、ただ主イエスのみです。父親の信仰が霊を追放するわけではありません。主イエスこそ追放出来るお方であると信じて、主に願い祈るのであります。この「信仰の祈り」が大切だと言われています。主イエスは、憐れみの御業をなすことの出来るお方であると信じて、主に求めるのであります。主イエスに求めることをしないで、わたしが信じたように事態が展開する、と考えることは、信仰についての思い違いであります。
大切なことは、主はわたしたちの労苦を知っておられ、深い憐れみ、共感により、わたしたちに対して何でも出来るお方であると信じ、そして主に祈り求めることだと、言われております。
「信仰のない時代」の中にあるわたしたちが、「主イエスへの信仰の祈り」をする者とされるよう、求めつつ歩みましょう。