聖書のメッセージ


2018年3月4日(日曜)

受難節第3主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「この人に聴け」
聖書 マルコ9章2節−13節
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六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
 マルコ9章2節−13節 聖書・新共同訳
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2節に、「イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とありますが、他にもこの三人だけを連れて行かれる時がありました(5:13参照)。この三人を中心に12弟子を養い訓練されたことが伺えます。
「高い山に登られた」とありますが、旧約でも山は神の顕現される所であり(出19:3参照)、イエスはたびたび山に登っておられます(3:13、6:46参照)。わたしたち信仰者にとって、神が顕現され、神との交わりに与る場所に行くことは極めて大切なことであります。 「イエスの姿が彼らの前で変わり、服は真っ白に輝き…白くなった」とあります。「白い輝き」は、神の世界を示していますから、主イエスが神の子であることを示しています。
 「エリヤとモーセがイエスと語り合っていた」ということは、受難し復活されるイエスにおいて、預言者のメシヤ預言が成就し、律法が完成されることを示していると考えられます。ペトロはこの主の栄光の姿を見、圧倒され、「わたしたちがここにいることは素晴らしいことです」と言い、仮小屋を建てましょうと言いました。しかしこの言葉は、これからイエスが受けられる受難についての無理解を示しています。
 その後、雲が現れて雲の中から『これは、わたしの愛する子。これに聞け』という声が聞こえました。雲は神の臨在を現す印ですから、この声は神の声であることを示しています。神はイエスが受洗をされた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って、ご自身とイエスとの関係を告げられたのでありますが、ここでは『これに聞け』と主イエスに聞き従うように命じておられます。 弟子たちはこの声を発した方を捜そうとしましたが、見当たらず、エリヤもモーセも最早見つけることは出来ませんでした。「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」とあります。このことは極めて重要なことであります。預言者も律法もすべてはこの主イエスに集約されております。神は、弟子たちに向かって、神がこよなく愛しておられ、神の御心に従われるこのイエスから「聞け」と命じられたのであります。この「聞け」という語は「聞き従え」と意味を含んでいます。この後、「ただイエスだけが弟子たちと一緒におられた」とあります。神は、主イエスだけが何時でも何処でも弟子たちと共におられるお方とされたのであります。このイエス以外には何人も弟子たちと共にいる人はいないのであります。
わたしたちも然りです。神が、わたしたちが聞き従うべきお方として、わたしたちと一緒にいるようになさったのは、ただ主イエスのみです。主イエスの言葉に日々聞き従いつつ歩む生活に勤しみましょう。